第75話、飲料水を献上せよ。
ガトーショコラとの約束を交わしてから、気がつけば一週間の歳月が経過していた。俺と佐藤亜月さんの関係は、今のところ進展なし。むしろ後退した気すらしてくる。上手くいかない恋愛を凌駕した、悪い方へ転がり続ける恋愛だ。
その理由の全てが、ルームシェアにある。
「おいヒロシ、妾は喉が渇いたぞ」
そう、バーニングさんの存在だ。
どういう訳かは分からないが、どうやら俺は完全にバーニングさんに気にいられてしまったらしい。彼女は事ある毎に俺を呼び出し、まるで召使いに命じる女王様気取りで部屋を闊歩するのだ。
「へいへい、何飲みますか?」
「うぬの飲んでいるものと同じものを所望するぞ。ほれはように」
「ああ、コーヒー入れますね」
さらにタチの悪いことに、この女はニートなのだとか。家から一歩も外に出ない。食事の時だけ部屋から現れたかと思うと、絢爛豪華な和服を見せびらかすように靡かせ、廊下の上を引き摺らせながら歩き回るのだ。
その自分勝手な態度に、流石の佐藤亜月ですら温厚な態度では居られなかったらしい。
「ご馳走様。それでは松本さん、バーニング様、私は先に学校に行ってきますね」
ここ最近ずっとこの調子だ。
佐藤亜月は自分の食器だけをそさくさと片付けると、制服のシワがないか軽くチェックを済ませて家を出ていってしまった。
結局のところ一緒に通学出来たのは、入学式の日だけである。
「あーあ、ガトーショコラの奴本当にこれどうにか出来るのかよ……」
正直なところ期待値はゼロである。だいたい世界を滅ぼすことしか脳の無い化け物に俺と佐藤さんの恋愛事情を解決させる力があるとは思えない。
だが、俺はそんなアイツと契約をしてしまった。藁にもすがる思いとはこの事を言うのだろう。俺は心の底から片想いに苦しんでいるのだ。
「恋煩いか……」
この感情を常に胸の中に留めるのは苦しいものだ。世の中の芸術家、音楽家たる鬼才たちがこぞって恋と名のつく作品を手掛けたのも不思議と納得がいく。捌け口のないモヤモヤとした蟠りを、なにか別の形で吐き出さないとやり切れないのだ。
「もしくは、恋愛相談ってやつかな……」
生憎と俺の友達はまだ
「どうしたもんかねぇ」
そう溜息をついた瞬間だった。
「苦い!」
突然バーニングさんがコーヒーの入ったカップを投げ捨てたのだ。
「な、何やってんですかぁ!」
慌ててキャッチしたはいいものの、中身が一気に溢れ出す。カーペットに落ちれば即座に染みとなるだろう。佐藤さんにますます嫌われてしまう。
そう判断した俺は、自ら進んでコーヒーを受け止めることに。
「ぅ
激アツだ。それもそうだ。煎れたてホヤホヤなのだから。熱くないはずがないのだ。
そして俺の制服に染み入るコーヒー。
「
あまりの熱さに慌てふためく俺を見て、バーニングさんはケラケラと笑い声をあげる。
「って何笑ってんですか!」
お前のせいだぞ! と続け様に叫びたくなるのを必死に我慢して目を吊り上げた俺の肩を、赤髪の彼女は目に涙を浮かべて笑いながらポンポンと叩く。
「いやいやすまぬ。うぬのあまりにおかしな行動にな、思わず笑いが……くふっ、いやすまぬすまぬ。朝から良きものを見させてもらった」
「何も良くないですよなんでまだ笑ってられるんですか。火傷するかもしれないんですよ?」
「いや、うぬよ、ヒロシよ、冷静になるが良いぞ。ほれうぬの体は今熱しておるか? アチチノチノチーカマであるか?」
そう言われて気がついた。
「熱くは……ないな」
熱すぎると思っていたが、ふと冷静になって見れば、思ったより熱くはない。ちょっとぬるい程度だ。
「な、うぬは火傷などしておらぬ。しかしその格好でいるのもあれじゃな。風呂にでも入ってくるが良いぞ」
「なんであんたが上から目線なんだよ」
と言い返しはしたものの、熱くないコーヒーで騒ぎまくっていたことがなんだか急激に恥ずかしく感じた。
「とりあえず風呂入ってきます。カップとか片付けてもらってもいいですか?」
「は? 妾が下々の仕事をやるはずなかろうに。それに喉が渇いたぞヒロシよ。はよう妾に飲み物を献上せよ。妾は待ちくたびれたぞ。飲み物はまだか?」
「バーニングさんが今零したんだよ。鳥頭なの? ダチョウサイズの脳みそなの?」
「なんかよくわからんが馬鹿にされたことは分かったぞ松本ヒロシ」
突如バーニングさんは両手広げたり握ったりし始める。
あぁ、ゴリラ並みの怪力で俺の頭を潰すつもりだこの人。
「いえ、なんでもないですすぐ用意しますけど苦いの苦手でしょう。水用意しますね」
もう俺はこの人に逆らえない。一生下に使えるしかない気がする。
「ほう、水とな! うぬ気が利くなぁ!」
しかもこの人、水で喜ぶのかよ。次から水道水だけ飲ませてやるわ。
蛇口を捻り、グラスに水を入れながら眺めた時計は、冷酷にも一時間目の授業に遅刻する事をお知らせしていた。
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