第6話

 翌朝、目を覚ました時は、すでに十時を過ぎていた。さすがに今日は学校へ行く気にはなれない。

 顔を洗った俺は、精神統一のために部屋の真ん中で座禅を始めた。もちろんメシなど抜きである。ときおり生理的欲求を満たすために立ち上がる以外は、ひたすら心を無にして冷厳の世界に浸りこんだ。

 そして七時間後の午後五時、俺の精神状態は理想的な状態に仕上がっていた。空腹のために膨れ上がった野性と、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた理性とが絶妙のバランスでせめぎ合い、マグマのように戦意があふれ出すという、戦いに臨むには絶好のコンディションである。

 俺は畳の上に行儀を正して座り、例の封筒を前に置いた。二度ほど柏手をうち、手を合わせて深く頭を下げた。これは勝利のための切り札であり、いざという時の命綱である。だが戦いに敗れれば、これは遺書となって県警捜査一課のもとへ運ばれる運命にあるのだ。

 俺は封筒を懐に入れて立ち上がった。右手に機関銃を、左手にボーガンを携え、腰のホルダーにサバイバルナイフを差し込んで、両肩から弾帯をたすき掛けにしたジョン・ランボー(映画「ランボー」シリーズ参照)のような心境だった。

 俺はまず梶本の部屋を訪れた。彼とは四日前、西洋史の講義後に教室の前で別れて以来である。結局、楽しみにしていたスキヤキはおじゃんになってしまった。それを考えると、改めて真理研究会に対する敵意がふつふつと沸き起こる。

 俺はチャイムを鳴らし、ドアを開けた。梶本は寝転がって雑誌を眺めていたが、俺の姿を認めるなり跳ね起きて

「おまえ、土日にいったいどこ行ってたんだ!?」

と噛みつきそうな勢いで迫ってきた。

「悪かった。ちょっとややこしい事情があってな。で、スキヤキはどうなった?」

「おまえがいないから、仕方なく三人でやったよ。それより、ややこしい事情って何だ?」

「それなんだけど……」俺は声のトーンをやや低くして「その事情に関係して、今からある場所に殴り込みに行くんだけど、もし俺が今夜の十時までにここに戻ってこなかったら、手間をとらせるけど、これを警察に届けてくれんか」

と、例の封筒を手渡した。

「警察!?」梶本は目をむき、封筒と俺の顔を交互に見ながら「一体どういうことだ?」

「今は詳しい話をしている時間がないんだ。無事に戻ってこれたら洗いざらいぶちまける。じゃ、頼んだぞ」

 そう言って俺は、あっけにとられている梶本のもとを辞し、真理研究会のアジトへ急いだ。

 着いたのは六時ジャストであった。さっそく、おばんと倉は俺を個室に招き入れた。どういうわけか、二人とも昨日とは別人のように厳しい顔つきである。見ると、部屋の真ん中に置かれた座卓の上に、俺の一行感想文が載っかっているではないか。

(ははあ、あれを見たな)

 予想していたことだから、別段驚きもしない。俺はおばん・倉と、座卓をはさんで向かい合った。

 おばんが感想文を指でつつきながら、

「これは一体、どういうことですか?」

と切り出した。声の調子も硬い。

「どういうこともこういうことも、そういうことですよ」

 俺は唇の端に薄笑いを浮かべてうそぶいた。

 これは、過去の敗北パターンを分析し、思案に思案を重ねた末の、俺の秘策であった。敵のペースにはまる前に、その出鼻をくじき、戦いの主導権を握ってやろうと考えたのである。封筒が最後の切り札なら、これは言わば先制の奇襲攻撃であった。

 はたしてこの作戦、見事に功を奏した。

 俺の言葉を聞いた途端、おばんと倉の口がうつろに開き、目が点になったのである。やがて、探るような目つきでまじまじと俺の顔を見つめ返してきた。今日の俺が、昨日までとは違っていることに気づいたのだろう。その間隙を逃さず、俺は一気にたたみかけた。

「昨日、僕は言いましたね。『セミナーを受講したおかげで、これから自分がどうするべきかわかった』と。つまりですね、こういうことからは一刻も早く足を洗うべきだとわかったので、今日を最後に脱会します。それでは」

 俺は立ち上がろうとした。それまで、俺の変貌ぶりを呆然とながめていたおばんと倉は、はじかれたように我に返り、

「ちょ、ちょっと、ま、まあ、待ってください」

と慌てて俺を押しとどめた。その狼狽ぶりは、敵の戸惑いがいかに大きいかを如実に示すものであった。


【反撃その1……脅し】

「何があったのかはわかりませんが、まあ、とにかく落ち着いてください。話はゆっくりしようじゃないですか」

 いいえ。これ以上、話すことなど何もありません。自分の決意をはっきりと表明した今、俺のなすべきことは作戦どおりただひとつ、貝になることのみである。俺を自分で発声器官をクローズした。

「いいですか。道を誤ってはいけません。これは、あなたにとって非常に大切なことなんですよ」

「……」

「何度も言っているように、人は誰でも生まれながらにして罪を背負っています。その罪から救われる唯一の方法が、この真理研究会で統一思想を学ぶことなんです。今ここでその勉強をやめたら、あなたはこれから一生、罪の十字架を背負って生きていかなくてはならないんですよ」

「……」

「それに、この罪はあなたについて回るだけじゃありません。あなたの両親や兄弟や親戚縁者の末端にまで何らかの災厄をもたらしかねないのです。あなた、それでもいいんですか?」

 とうとう霊感商法まで持ち出してきやがった。「先祖の祟りで不幸になる」とか「水子の供養が足りない」などと、言葉巧みにささやいて相手を不安に陥れ、高価な印鑑や壺(?)を購入させるという、悪どい商売である。

「今年の新入会員にしても、そのほとんどは地道に勉強を続けてくれています。中には『こんなすばらしい世界があったのか』と、感激のあまり涙を流してくれる人もいるんですよ。それなのに、あなたは……。情けないじゃないですか。今さらやめたいですって?」

おばんは必死の形相で訴えてきた。倉も、窪んだ目の奥から焼けつくような視線を、俺の顔に浴びせてくる。

しかし、今日に限っては痛みも圧力もまったく感じなかった。ここにあるのは俺の体の抜け殻であり、精神は幽体離脱して高みの見物をしているといった感覚である。

 そんな調子でおばんは、次から次へとあらゆる種類の脅し文句を浴びせてきた。頭の中によく詰め込めたものだと感心させるぐらいの豊富さ・多彩さである。だが、そのうちネタが尽きたのだろう。それに、俺がまったく反応を示さないので、さすがに業を煮やしたらしく、しばらくして戦法を変えてきた。


【反撃その2……泣き落とし】

「あなたが入会して以来、私たち――私やこの倉君をはじめとする会員一同、あなたが少しでもよい環境で学べるように、誠心誠意お世話をしてきたつもりです。あなたが今脱会したら、それらの努力はすべて水の泡になってしまうんですよ」

「……」

「思い出してください。あなたに入会するきっかけを与えてくれた倉君、2DAYSセミナーのお世話をしてくれた藤岡君、そして二日間、本当に熱のこもった講義をしてくださった桑野先生……。あなたの成長には、これらの人たちの期待が託されているんですよ。それを裏切るようなことができるんですか? そんなひどいことが……」

 おばんはふところからハンカチを取り出して、そっと目頭を押さえた。だが、それが演技であることを、俺は即座に見破った。なぜなら、おばんはハンカチの陰から上目遣いに俺の顔をチラチラとうかがっているのである。

 それに、何が「裏切るようなこと」だ。俺は、入会させてくれともセミナーを受講させてくれとも、お願いした覚えはない。むりやり会にひっぱり込んで、いわれのない期待をかけたのはそっちの勝手であり、それに添わないからといって俺を裏切り者呼ばわりするのは、まったくの本末転倒、順序が逆転している。

 俺に見破られていることを知ってか知らずにか、おばんはハンカチで顔を覆ったまま、くどくどと鬱陶しい泣き言を続けた。かたわらの倉までも、つられたように鼻をすすり上げ、拳で涙を拭うような仕草をしてみせた。

 この連中、いったいいつまで見えすいた猿芝居を続けるつもりなのだろう。


【反撃その3……開き直り】

 俺が頑として表情を変えずにいると、おばんはおもむろにハンカチを目から離してゆっくりと折りたたみ、ふところにしまった。そして、俺の方にまっすぐに顔を向けた。

 その険悪な表情を見て、さすがに俺も身が引き締まるのを感じた。脅しも泣き落としも通用しないことを悟って、いよいよ最後の手段に訴える決意を固めたらしい。

「そうですか。それじゃ仕方ありませんね」

 おばんはポツリとつぶやき、わずかに唇の端を歪めた。これまでに見たことがないほど、酷薄な表情である。

(来るか)

 俺はすばやく頭を回転させた。

 今、おばんが口にした「仕方ありませんね」には二通りの意味がある。ひとつは「あなたにやる気がないのなら、脱会を認めるしかないですね」という諦めの意志表示。そしてもうひとつは、言うまでもなく最後のカードを切る決意を示したもの、すなわち「こんなことはしたくないが、脱会を阻止するためにはやむを得ない」という意味である。

 ただ、おばんの表情から判断するに、俺はどうしても状況を楽観することができなかった。

(よし、切り札を使おう)

 俺はすばやく発声器官のスイッチをONにして、敵が行動に出ようとした機先を制した。

「そろそろ終わりにしませんか。何があっても続ける気はありませんし、ここでぐずぐずしていると別のところで騒ぎが起きる可能性がありますよ」

  どういうことか、と怪訝そうな顔をするおばんと倉に向かって、俺は言葉を続けた。

「実は、今までのこの会との関わりをすべて細かく手紙にまとめて、ある友人に預けているんです。もし僕が今夜十時までに彼のところに戻らなかったら、その手紙は警察に届けられる段取りになっているんですよ。そうなったら、かなり厄介なことになると思うんですけどね」

 おばんの顔が赤くなり、次に青くなり、最後に白くなった。そして、がっくりとうなだれてため息をついた。倉の上半身が力を失ったように揺れた。狙いどおり、相当なショックを与えたらしい。俺がここまでの強攻策を講じているとは、さすがに予想していなかったのだろう。

 室内に静寂が降り、そのまま凍りついたような沈黙の時間が過ぎた。十秒、二十秒、三十秒……。

 しばらくして、おばんはおもむろに顔を上げ、それまでとはうって変わった弱々しい声で言った。

「わかりました。脱会を認めましょう」

 その瞬間の喜びを何と表現しよう。ついに俺は勝ったのだ。

 だがここはまだ敵地であり、油断は禁物である。俺は自分を戒めながら、あくまで渋く、口元だけに笑みを浮かべ

「それでは」

と、軽く会釈をして部屋を出た。

 おばんと倉は玄関まで見送りに出てきた。もう一度、儀礼的に頭を下げて立ち去る俺の背中に向かって

「よければ、またお話しに来てください」

と、未練がましく声をかけた。

 俺は肩越しに拒絶の笑みを返して、そのまま後ろを振り返ることなく、歩き去った。

 薬局の角を曲がり、路地から大学通りに出た。もうここからはアパートは見えない。

 とたんに顔の筋肉が弛緩した。喜びの衝動が湧き起こり、俺は天に向かって拳を突き上げ、全身でガッツポーズを表現した。

 ついに泥沼から抜け出すことができた。恐怖と絶望に耐え、甘言や脅迫に屈さず、自分の力を信じて戦い抜いたからこそ、最後の最後で道が開けたのである。

 大声で叫び、笑い出したくなるのをこらえて、俺は歩いた。足が地についていないとは、こういう状態を言うのだろう。

 空を見上げると、満天に星が輝いていた。研修所に強制連行された三日前とは対照的な好天だ。

(勝利の夜にふさわしいな)

 だが次の瞬間、俺は「あっ!」と声をもらして、その場に棒立ちになってしまった。大事な忘れ物をしたことに気づいたのである。

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