第3話
翌日の午後、俺と梶本は一緒に学食で昼飯を食べた後、三時限目の西洋史の教室へと向かった。
西洋史の担当は人文学部の古屋教授である。風貌は温厚だが、単位にはかなり厳しい。抜打ちで出席を取り、欠席が三回以上になると試験を受けさせてもらえないのである。
授業開始までしばらく時間があるせいか、教室にはまだ十人前後の学生しかいなかった。俺は、その中に友人の津久田の顔を見つけ、手を上げた。彼は工学部の同級生数人と雑談している様子だったが、すぐに俺たちの姿を認め、応じた。俺たち二人は、彼らのすぐ後ろの席に着いた。
津久田が何やら他の連中に向かってしゃべっている。俺は聞くともなしに聞いていた。
「それは『真理研究会』ってよ、最初は『いろんなビデオを視ませんか?』って、映画やらアニメやらのビデオをエサに新入生を誘うらしい。で、連中、初めのうちはやさしく笑顔で迎えて、しょっちゅうメシもご馳走したりして、アットホームな雰囲気の中で、親元離れた学生をターゲットに取込みを図るんだってよ。
でも、油断してると、そのうちにわけのわからんビデオを視せられたり、『救世主』がどうこうっていう妙な話を聞かされたり、合宿みたいなものまで強制的に参加させられたりして、徹底的に洗脳されるらしい。で、気づいた時にはもう抜けられなくなってるって。しまいには、学校も放ったらかしにして、家にも帰らなくなって、最悪の場合はそのまま行方不明になったり、悩んだ末に自殺する者もいるって聞いたぜ」
俺は話の途中から背筋が寒くなってきた。津久田が解説するところの「真理研究会」と、俺が今通っている「ビデオを視る会」は、その活動内容においてあまりにも酷似しているではないか。「わけのわからんビデオ」だの「救世主」だの「洗脳」だの、俺があの会で経験したことそのものである。
「メシもご馳走」云々についても、また然り。実は俺も頻繁に誘われたのだ。世迷言や反共思想を語り合いながら囲む食卓など気が進むはずもなかったが、タダ飯の魅力に負けて二度ほど茶碗をかかえてしまった。
(あれは本当に「真理研究会」なんだろうか)
俺はまだ半信半疑の状態だった。というより、信じたくなかったといった方が正しいかもしれない。
やっとのおもいで国立大学に潜り込み、さあこれから、という時に、カルト宗教団体にとっ捕まってその後の人生をパーにしたとあっては、親兄弟や親類縁者、友人や同級生にどの面下げて相見えることができるのだ。そんな生き恥をさらすような真似は、死んでもできない。いや、死んだら生き恥をさらすことはできない。生き恥とは、この世に生きているために受ける恥のことなんだから。いや、そんな理屈を呑気にこね回している場合ではない。
「おい、聞いてんのか?」
梶本の声で、俺は奈落の底に突き進んでいくような思考から引き戻された。梶本は俺の顔を横からのぞき込んで、
「何だか顔色悪いぜ。どうかしたか?」
「いや、何でもない。それより何だって?」
俺は慌てて話題を変えた。俺が「真理研究会」とおぼしき団体と関わっていることなど、今の時点では梶本にも知られるわけにはいかない。
「今度の土曜日によ、島原や津久田らを呼んで一緒にスキヤキでもしない?」
「お、そりゃいいな」
「じゃ、場所は提供するから、おまえ、スキヤキ鍋持ってたら貸してくれよ」
「ん、わかった」
梶本の言葉に答えてはいたものの、はっきり言ってうわの空。頭の中はスキヤキどころではなかった。
とにかく、今日アパートに行ったら、おばんや倉を問い質さなければならない。果たしてあれは「真理研究会」なのか否か。最悪のことを考えると、確かめるのが怖くはあったが、避けて通れる道ではなかった。
(確かめるだけ確かめて、どのみち絶縁するしかないな)
俺は心中でつぶやいた。津久田の話が、俺の脱会の決意を確固たるものにしたのである。
「ええ。確かに、この会は『真理研究会』ですよ」
津久田の話を聞いてから二時間後、アパートの一室で俺と向かい合ったおばんと倉は、しゃあしゃあとした顔でそう答え、俺のわずかな望みを完全に粉砕してくれた。
目の前が真っ暗になった。床が崩れ、真っ逆さまに暗渠に落ち込んでいくような気がした。
やはりこれは「真理研究会」だったのだ。一度足を踏み入れたが最後、抜け出すことなどかなわず、徹底した人格改造を施されて布教のための一歯車として人生を終えるしかないという狂気の教団。どういう運命のいたずらか、俺はまんまとその罠に囚われてしまったのである。
だが、いつまでも悲劇に浸っているわけにはいかなかった。何か、何らかの打開策はあるはずだ。今、絶望で自棄になってしまっては元も子もない。落ち着いて、あくまで冷静に、この窮地から逃れる方法を模索するしかないのだ。
しかしおばんは、奈落の底から這い上がろうとしている俺をめがけて、容赦なく追撃弾を浴びせてきた。
「ところで、今週の土曜日から日曜日にかけてですね、ここから少し離れた所にある研修所で『2DAYSセミナー』というのが実施されるんです。とてもためになると思うので、ぜひ参加してほしいんですけどね」
きたきた、これだ。これが津久田の話に出てきた「合宿」というやつなのだろう。そして、遅れ気味である俺の洗脳を推し進めるための「非常手段」であるに違いない。
一体そのセミナーで何をするつもりなのだろう。朝から晩まで洗脳用のビデオ漬けにされるのか、あるいは反共思想の講義攻めか。
ひょっとすると、そんな甘いものではないかもしれない。コンクリートの地下室に監禁され、飲食を断たれ、不眠不休で朦朧とした状態にされて、組織への忠誠を強要されるとか、ドラッグとか、覚醒剤とか、ロボトミー手術とか……。
しかし、まさかそこまで……いや、こいつらなら、それぐらいのことやりかねない。危ない。絶対に危ない。
「どうしますか?」
おばんが俺の顔をのぞき込んで返事を促した。横からは倉が、まじろぎもせずに俺を顔を凝視している。
その時である。まさに天の啓示のごとく、脳裏に閃いたものがあった。二時間前の梶本との会話である。
「今度の土曜日にスキヤキでもしない?」
これだ。これしかない。さっきは津久田の話に動転していたため、梶本提案は速やかに頭の片隅に追いやられてしまったが、こうなったら「土曜日のスキヤキ」はセミナーへの参加を断る絶好の口実として大きな意味をもってくる。
俺は言った。
「土曜日の夜に友だちとスキヤキすることになっているんで、参加は無理です」
おばんがポカンと口を開けた。目に驚愕の色が浮かび、顔面の筋肉が硬直した。ショックで言葉を失ってしまった様子である。かたわらの倉も唖然としている。
「……スキヤキですって?」
しばらくして、おばんがあえぐように言った。
「ええ、スキヤキです」
俺は平然とうなずいた。
おばんと倉は、信じられないといった表情で顔を見合わせ、かぶりを振った。それから、おばんはおもむろに俺に顔を向けた。あまりの衝撃に、口元の筋肉がまだ引き攣っている。
「あのね」
話しかける声も、心なしか震えを帯びていた。
「これはあなたにとって非常に重要なことなんですよ。ええ、スキヤキどころじゃありません。あなたがこれから生きていくうえで一体何が大切なのかを、懇切丁寧に教えてくれるんです。実際、このセミナーを受けた人たちはみんな『人生観が変わった』と感激してくれるほどなんですよ。それなのに、何がスキヤキですか。そんなにスキヤキが食べたければ、ほか弁でスキヤキ弁当でも買えばいいじゃないですか。あんなもの、適当にいろんな食材を放り込んで、砂糖と醤油で味付けしただけのい、いい加減な、ええ、いい加減であ、安易な料理。そ、そう、安易な、きい」
もはや何を口走っているのか、自分でもわからなくなったらしい。おばんは、まるでヒステリーの発作でも起こしたように、目を吊り上げ、両手をテーブルにバンバン叩きつけながら叫んだ。
なぜ、これほどまでスキヤキに対して拒絶反応を示すのだろう。過去に何かスキヤキに関する苦い経験でもあったのだろうか。
おばんは「いい加減」だの「安易」だのと罵ったが、スキヤキはとても健康的な料理である。野菜や肉やその他もろもろの食材をバランスよく食することができて、栄養価も高い。ただ、気をつけなければならないのは味付けであって、あまり砂糖や醤油を使い過ぎると、体のためには……いや、まあそんなことはどうでもいい。
とにかく俺は、好物のスキヤキをそこまでコキおろされて頭にきた。受講したところでクソの役にも立たないことがわかりきっているセミナーと、気心の知れた友人たちと味わうスキヤキと、どっちが自分にとって大切か。そんなこと、あんたらに決めてもらういわれはない。俺はスキヤキが好きなんだ。だから、絶対にスキヤキをやってやる。
「僕にとってはスキヤキのほうが大事です」
俺は断固として言い放ってやった。さすがに、おばんと倉は鼻白んだ様子である。
結局、その日に結論は出なかった。もう一度よく考えてくれ、と泣くように頼むおばんや倉の顔を立てて、その場は引き下がってやることにしたのである。
しかし、いくら考えても俺の決意が翻るわけではない。今となっては鬱陶しいだけのビデオ講座も明日で終わり、ようやく自由の身になれるのだ。
ただ、世間一般の常識が通用しない相手だけに、心の底に一抹の不安がないでもなかったが、なに、断固たる意志をもってぶつかれば、自ずと道は開ける。
ところが翌日、事態は予想もしなかった方向に大きく転回し、俺の不安はものの見事に的中してしまうのである。
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