4 草原の戦い(2)

 夜風が草原を走っていく。


 膠着した事態の中、攻勢に出たのはユーラだった。

 ユーラは外套を夜風にはためかせたまま、右手に持ったポールを軽く横に振るう。そしてポールの先を男の一人へ差し向けた。


 事態が動き出す予感に、イサムは横目でユーラの様子を窺うのを止め、自分の目の前に集中した。

 男達は機を窺うように、付かず離れずの牽制を続けている。その動きは足を止めた直後よりも緩やかになっていたが、ここへ来てユーラが動きを見せたことで腰を低く、身構えている。

 男達の様子を見て、イサムは短剣の鞘を強く握った。


 強い風が吹き、地面の砂が巻き上がる。


 草原の騒ぐ音を耳にしながら、イサムは左腕で顔と目を守った。砂が腕に勢いよくぶつかり、軽い痛みが走る。装身具のようだった首元の蛇が抗議するように短く鳴いた。風はイサムを追い越すと、ユーラに向かって吹き荒ぶ。腕の隙間から見える男達の姿は足を止めて身を低くし、風の影響から逃れようとしていた。


 風は止まない。勢いは弱まるどころか、さらに強くなっている。


 吹き荒ぶ風に、ユーラの外套が激しくはためく音がする。風の強さに自身が吹き飛ばされる想像をして、イサムの背筋を冷や汗が伝った。その背にはリュックサックがあって、その重さで存在感を示してくる。だがその程度では不安を払拭することができず、イサムも風から逃れようとしゃがみ込む。


 その瞬間、ぐんと一際強い風が吹き、男の悲鳴が上がった。


 ユーラの方から聞こえた悲鳴の主を、イサムは確かめることができなかった。同時に、イサムの前で身構える男達の一人が一気に距離を詰めてきたのだ。


 イサムは迫る男に息を呑みながら、短剣を鞘から抜こうと手を掛けた。柄を握り、抜き放とうと力を込めて剣を引く。しかし、抜けない。鞘が固いのか、それとも剣を引くイサムの体が固いのか、普段なら容易に引き抜ける短剣がいくら引いてもびくともしない。


 辺りからは男の悲鳴を契機に、怒号や悲鳴、激突音など雑多な音が聞こえてきた。


 だがイサムはそれどころではなかった。男との距離は十五メートルほど。焦りが募って、ますます体と手を強張らせる。イサムは男から視線を外すと自身の手元を見詰め、今一度短剣を鞘から引き抜かんと力を込めた。


『くそっ!!』

 苛立ちから思わず声を上げる。


 短剣はかちゃかちゃと音を立てるばかりで、一向に鞘から抜けない。


 草をかき分け、近付いてくる音が耳に届き、イサムの頭は真っ白になっていく。抜けろと念じて、ひたすら力任せに引っ張るが、短剣は抜けず、代わりとばかりに鞘が腰のベルトから抜けそうになる。


 引っ張り続けていたせいか、ベルトと鞘を結ぶ紐が緩んでいた。


 鞘ごとならば抜けるのではないか。イサムのわずかに残る理知が、その可能性を示唆してくる。鞘を探ってベルトと結ぶ紐を外せば、その手には鞘ごとの短剣が簡単に収まった。


 イサムには自身の馬鹿らしさを自嘲する暇もない。音はもう目の前から聞こえている。


 イサムの持つ短剣は、緩く湾曲した曲剣だ。鞘に隠れたその刃渡りは四十センチメートルほど。分厚い刀身に片刃が備わったそれは鉈にも似ていた。


 短剣といえども、イサムに片手で扱う技術はない。イサムは左手に持った短剣を素早く両手で握り、構えようとする。取ろうとする構えは唯一知る学校で習った剣道のものだ。けれど両手で握り込む短剣は竹刀より短く、そして重い。

 剣の短さが不安を、重さが緊張を高めていく。イサムはそれらを怒気で染め上げながら、顔を上げた。


 だがイサムの視界が捉えたのは草原と夜に輝く星空ばかりで、そこに男の姿はなかった。


 風はいつの間にか止んでいた。辺りに響いていた怒号や悲鳴も、今は聞こえなくなっている。代わりとばかりにイサムの耳に届くのは、いくつものくぐもったうめき声だ。


 いくら目を凝らしても、男の姿は見つからない。何処かに潜んでいるのだろうか。イサムは周囲に視線を走らせながら、一歩前へ足を踏み出そうとする。けれどその足は動き出す前に止まった。


 イサムの前に広がる草原は夜の闇に空と地面の境目をあやふやにしながらも、確かにそこにあるはずだった。しかし丈の長い草の陰に隠れたイサムから離れて数歩先、そこをじっと見詰めても闇の中にあるべきものが浮かんでこない。地面がなくなっているのだ。そこには夜よりも深い闇が、イサムが足を踏み出すのを待っているかのように、只々深く広がっていた。


 その光景に気付くと、イサムは肝を冷やした。一呼吸置けば、それが魔術によるものだと思い至る。


 落とし穴と形容する程度を超えて、それは地割れと呼ぶべきものだった。イサムの立つ場所から対岸までの距離は二メートルほど。深さはどの程度か、暗くてよくわからない。地面に刻まれた亀裂は弧を描き、イサムとナリアへ何人たりとも近付けないように、できた半円の内側に二人を収めていた。


 そしてイサムが振り返れば、そこには二人を守るようにユーラが前に進み出て、一人立ち塞がっている。

 ユーラとイサムとの距離は十メートルばかり開いていた。


 イサムは構えを解くと、地面の亀裂を背にユーラの方を向いた。

 ナリアもイサムの隣に佇み、視線をユーラとその奥の男達へと向けた。


 ユーラが相対する男の数は三人。散開するといずれもがユーラと距離を取り、身構えながらその様子を窺っている。


 武装した集団がユーラによって今や、たったの三人。その事実にイサムは言葉もなかった。魔術の存在が圧倒的だった。これならばユーラが一人で戦おうとしたのも頷ける。

 魔術師相手に勝てる者などいるのだろうか。男達が踏み込むのを躊躇し、ユーラを遠巻きにする姿が目に入る。手も足も出ないとはこのことだろう。

 魔術師の弱点を挙げるならば、それはきっと魔力が有限であることだ。

 ユーラはイサム達の前に地割れを作った。恐らく男達から逃走している際にも、数を減らすためにいくつか落とし穴を作ったに違いない。他にも騎士達を戦闘不能にし、この場で相対した男にも何かしらの攻撃を仕掛けたようだ。

 ここまでの行動で、ユーラは大分その魔力を消耗しているはずだった。しかしそれでも男達はユーラに踏み込むことができずにいる。それはユーラの魔力の残量を他の者が知る術はないからだ。一か八かで挑んで敗北すれば目も当てられない。

 その状況は魔術師に弱点があってないようなものだと語っているようだった。


 ユーラ自身は魔力残量が生命線だとわかっているようで、男達が攻めあぐねて動きを止めても追い討ちを掛けずにいる。慌てて動くようなことはせず、彼らを眺めるに留まっていた。


 そんなユーラの様子が傍で見守るイサムには頼もしくも、余裕がないようにも見えていた。その背中から立ち昇る気迫が、気を張らなければ立っているのもままならないのだと思えてしまう。相手が察することができないとしても、その弱点は変わらない。戦闘が長引けば魔力の消費も増え、不利になるのはやはりユーラだ。


 ユーラが右手に持ったポールを振り上げた。早く決着をつけるため、攻勢に出ようとしているのだろう。

 それを合図にしたかのように、三人の男達がそれぞれがユーラに向かって駆け始める。


 ポールが天を指すと、風が再び巻き上がった。そしてユーラがポールで指し示すと、風はその方向に突風と化して殺到する。草原を裂いて風が走るその先には、ユーラに迫る一人がいた。


「ぅわあああぁぁぁ……」

 悲鳴が上がり、その声が遠くなっていく。


 男が宙を飛んでいた。遠く、高く吹き飛ばされ、その姿が小さくなっていく。十メートルほどの高さまで舞い上がると、そこから自由落下を始めた。

 夜空に手足をばたつかせて男が飛ぶ光景を、イサムは呆然と見上げていた。そしてぐしゃりという鈍い音が辺りに響くと、それが現実であることをようやく理解し、顔を背ける。悲鳴はうめき声へと変わった。


 イサムが目を逸らしたのも束の間、さらに大きな音が辺りに響く。

 男の数は残り二人。戦いはまだ終わっていない。


 新たに聞こえた音に、イサムは慌てて意識を前へ戻した。その時には既に、ユーラと相対する男はその数を一人に減らしていた。

 先ほどの音は二人の内の一人が落とし穴に落ちた音のようだった。ユーラの魔術で任意に地面へ穴を作ることができるのだ。それは避けようがないだろう。

 そうして最後の一人となったにも関わらず、男は戦いから逃げようとしない。勝算があるのかと想像してみるが、ユーラが一人を相手に苦戦する光景は浮かばなかった。


 最後の一人がユーラから五メートルのところまで迫る。


 ユーラは予備動作すらしなかった。突如として男の足が次に踏み出す先の地面が消失するのを、イサムの目は捉えた。

 これで終わりだとイサムは思った。横目に見えるナリアの顔も、戦う前と比べて随分余裕が戻ってきているようだった。


「なっ!?」

 途端、驚愕する声がした。


 声を上げたのは誰だったか。イサムは自分の口から漏れたようにも、ユーラとナリアの口から聞こえたような気もした。


 男は穴に落ちなかった。それを予見していたかのように、踏み出した方とは反対の足で地面を蹴ると跳んでいた。驚くべきはその跳躍力。万全の跳躍とはならないはずなのに、ユーラとの間の五メートルを一気に詰めてきたのだ。

 跳躍の最中に振り上げた剣を、男は接近するやユーラの脳天に振り下ろす。剣の風を切る音が、イサムの耳に聞こえた。

 だがユーラの反応も早い。驚きながらも、素早くポールの両端を握り、頭上に掲げていた。


 きん、と澄んだ金属同士の打突音が夜空に響いた。


 剣はポールを断ち切ることなく止まった。だが、男はそのままポールごとユーラを押し潰そうとし、それを受け止めるユーラの肘と膝が段々と曲がっていく。それでもユーラの抵抗は粘り強く、その体勢は崩れる一歩手前で踏み止まった。均衡とまではいかずとも、男の押し込みは遅々として進まない。


 ユーラの後ろからその光景を見守るイサムには、男の表情に困惑が浮かぶのが見て取れた。

 ユーラが軽く振るっていたポールの、その強度がこれほどと思っていなかったに違いない。イサムの世界の技術で作られたアルミ合金のそれを、中世紛いのこの世界の剣で容易に断ち切ることなどできるわけがない。イサムは顔を青ざめさせながら、そう考えることで自分を鼓舞した。

 助けようにも、接近しすぎた二人に介入する手立てがイサムにはなかった。ユーラの抵抗する様を目に映しながら、高鳴る心音を押さえつけ、飛び出せる機会をじっと待つ。


 男は焦れたのか、じわじわと押し込むのを遂に止めた。そして再度剣を振り下ろすために、手に持つ剣が振り被られてポールから離れた。


 その瞬間、ユーラの外套が一気に膨らみ、再び風が巻き上がった。


 男はそれに焦ったようで、中途半端な位置から剣を振り下ろす。けれどその剣はユーラどころか、ユーラの手に持つポールにさえ届くこともなかった。


 突風が顔に吹き付けて、イサムは思わず目を細める。風は一瞬のことで、すぐに止む。だがその一瞬の突風で、男は低い弾道を描いて宙を飛んだ。数瞬後には遠くで地面を擦り上げる音がする。

 ユーラも風の影響か、ポールを頭上に掲げたままイサム達のいる後方へずり下がるが、それもすぐに止まった。そして姿勢を正して辺りをぐるりと見渡すと、男達がいないことを確認して、ようやくイサム達へと振り返った。疲れ切った表情の中に、かろうじて笑みを浮かべている。


 辺りからはうめき声も消えていた。

 イサムは戦いの終わりを感じ、ようやくほっと息をついた。ユーラの笑みに、自分の顔もほころぶのを感じる。


 そしてユーラを労おうと、イサムが歩み寄ろうとした時だった。


 ざくり、と肉を切るような鈍い音がイサムの足元から聞こえた。

 イサムは何の音だと疑問に思いつつも、足を進めようとした。けれど足が動かない。踏み出そうとした右足に熱いものが広がったかと思うと、力が抜けて片膝を付く。


「あれ?」

 口から呆けたような声が出た。


 動かない足を見てみれば、右足の甲に何かが突き立っている。

 それは小さなナイフだった。突き出た柄を持って引き抜けば、途端に血が溢れて靴が濡れる。


「は?」

 誰に問うでもなく、イサムは疑問の声を上げた。


 足には遅れて痛みがやって来る。けれど混乱したイサムの頭にはそれすらも現実感に乏しい。


「イサム!」

 ユーラが声を上げながら走ってくる。


 イサムは顔を上げて、ユーラを見た。


 久々に本名で呼ばれたことが何だか耳に心地よかった。けれどナリアに偽名を使っていることがばれてしまう。そんな心配が、イサムの頭をよぎっていく。


 混乱の中、イサムは不意に痛みの走る足の、その足首が誰かに掴まれた気がした。


 イサムの首元にいた蛇が突然、後方へと飛び掛かる。

 ナリアはその顔に驚愕を浮かべて後ずさった。


 その時、イサムの目が捉えていたのは、こちらに向かって走るユーラと、その傍に突如として現れた男の姿。

 そして男が剣を斬り上げて、ユーラの左腕が夜空に舞う光景だった。

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