4 飛んで火にいる夏の虫

 異界に来てから三日目となる朝を迎え、イサムは昨晩考えた探索方針の変更をユーラと検討した。

 ユーラはイサムの提案に同意するも、森の奥へ進むにしてもどの方角に向かえばいいのか、肝心の指針がないことを確認してきた。


 そして相談の結果、現状唯一の手掛かりであるユーラの記憶から、北へ進路を取ることが決まった。


「馬車に乗っているばかりだったから、合ってるかわからないわよ」

 方針が決まっても、ユーラは自信なさげにそう口にした。


 以前の旅の記憶に自信がないのか、それとも一向に状況が動かないことを引け目に感じているのか。だがそれもこれも準備の段階でわかっていたことだった。


『何処を目指しても同じだよ。それなら、少しでも可能性の高い方を選ばないと』

 イサムは努めて明るく、ユーラへそう伝えたのだった。


 方角が決まると、二人は山に広がる森を進んだ。


 小川のせせらぎや人の声が聞こえないか、視覚だけでなく聴覚も駆使して二人は探索していく。しかし耳に届くのは風になびく木々の音ばかり。生物の動くわずかな音すらも聞こえないのは、二人を警戒しているからなのだろうか。


 気配すら感じないことを不思議に思い、イサムは生物の痕跡を探して、遠くばかり見ていた視線を地面にも向けた。


 すると今まで注意を向けずにいたから気付けなかったのか、動物の糞や通った跡が確かに森には残されていた。歩きながら目に入ったそれらの観察を続ければ、動物の巣らしき樹洞もちらほらと見つかり、何かしらが生息していることがわかる。


 生物、特に動物の痕跡の発見すると、食糧としてそれを確保したいという欲が、イサムの中でじわじわと湧き出てきた。たった数日間、口にしていないだけで久しく肉を食べていない気がする。ユーラによると肉を食べた方が魔力の回復にも良いらしい。

 只、肉を食べたいという気持ちがどんどんと盛り上がる反面、イサムの狩猟の経験は箱罠の確認ぐらいしかなかった。


『一応聞くけど、狩りとかしたことは……、ああ、ないのね』


 イサムが全てを言う前に、ユーラは即座に首を振る。

 期待はしていなかったが、やはり無駄だった。


「ちょっと私の扱い、酷いんじゃない?」

『狩ろうと思えば狩れる?』

 ユーラの言葉を無視して、イサムはユーラへ質問を重ねた。

「はぁ……、的が小さいと苦手なんだけど」

 答えるユーラは、できないとは口にしなかった。


 イサムは足元近くの手ごろな大きさの石を拾うと、そこらに見える樹洞の一つへ大きく振りかぶって投げ入れた。


 石は樹洞へ吸い込まれるように消えていく。その直後、そこから慌てたように茶褐色の野兎が飛び出してきた。

 野兎は飛び出るなりイサム達に気付くと、背中を向けて逃げ出した。その動きは想像以上の素早さで、驚き慌てたイサムは咄嗟に追うことができなかった。

 しかしユーラは違った。

 野兎が逃げ出した数瞬後、ユーラは片膝を付いて座り込むとおもむろに地面へ手を付いた。途端、すたこらと背中を見せて逃げる野兎の姿が、イサムの視界から突如として消える。


『おおっ!?』

 何が起きたかわからず、イサムは驚嘆の声を上げた。


 ユーラが野兎の消えた場所へと歩き始め、イサムもユーラに付いて行く。そしてそれに気が付いた。

 そこにはぽっかりと、縦に長い穴があった。直径は約四十センチメートル、深さは一メートルほど。穴の底には落ちた際の打ちどころが悪かったのか、ぐったりとしている野兎がいた。


 穴を覗き込んでいた二人は早速の成功体験に笑顔を見せ合った。只、それも穴の底から手元へ野兎が来るまでの間だったが。


「それでこれ、どうするの?」

『食べようとは思うんだけど……』


 手に入った野兎の姿形は、当然ながら生きていた時のままだった。そしてお互いに狩猟の経験がないのならば、獣の捌き方を知らないのもまた当然だった。

 二つの事実に、気持ちが急速に冷めていく。

 手に持ったまだ生温かい野兎に視線を落としつつ、食欲の赴くままの行動を短慮だったと、イサムは反省するしかなかった。



 夜の帳が森に下りる。

 黒々として奥まで見通すことのできない森の中に、赤い炎がぽつんと灯る。


 野兎の始末に手間取った二人は、今朝までの拠点に戻ることができなかった。

 イサムは初めて異界の夜を森の中で過ごすことになる。だがこれまでの二日間の経験で特に緊張はなかった。


 ユーラが野営のために火を焚く傍ら、イサムは近くの木に寄って、体重を掛けて枝を折っていた。イサムの折った枝、その折れ口からは水が溢れる。二人はそれで喉を潤した。

 所々でイサムの脳裏には動植物の特徴などが思い浮かんだ。知識共有による蛇由来だろう知識が、今は随分と二人の助けになっていた。

 こうして食糧と水を確保できる目処が付いたことで、イサムの心には余裕もできつつあった。


 そしてありついた今晩の食事、待望の肉の実食は端的に表せば不味いの一言だった。

 多大な労力と時間、手持ちのナイフを血と肉の脂で一本だめにして、出来上がったそれを二人は早速焼いて食べてみた。

 その味は血抜きが十分ではないので臭いが残り、死後硬直によって固く、旨みがない。体に必要だからと自らに言い訳をしなければ、口に運ぶことを躊躇する出来だった。

 イサムはそれを半ば無理やり口に詰め込みながら、鼻に付く臭いで小学生の頃にレバーが苦手だったことを思い出していた。

 その一方で、ユーラは特に苦にした様子を見せずに肉を食べていた。美味しそうには見えないが慣れたものと口に運ぶ姿からは、この世界の食糧事情や料理文化が窺い知れる。この先の旅の食事に期待が持てないことを確信するほどに。

 この食事の唯一の救いは、魔力の回復が多かったことだろう。しかしそれもユーラによる申告のみで、真実かどうかは定かではない。


 そうして焚き火に当たりつつ、二人は青臭い水を飲み、臭いのきつい肉を食べ続ける。


 最低限だが、生活していく術は確立できた。水分の補給にも不安はないが、それでも早く水源を見つけるべきだろう。水場は人の生活に必須だ。見つけて辿れば、村を見つけることがきっとできる。

 イサムは今後を思う中で水場を欲するも、またそれ以上に自身が水場を必要としていた。汗で自分の体臭が気になり出したのに加えて、野兎を捌いてから血の臭いがずっと取れずにもいた。


 日中の行動を思い返す中、今後のことと並列して自分のことへ気を回せる余裕に気が付いて、イサムは環境に慣れてきたことを実感する。

 そんなことを考えながら食事を終えて、その目はぼんやりと焚き火を映していた。


 その時、不意にイサムの視界の端に何かが引っ掛かった。

 それが何なのかを確かめる間もなく次の瞬間、それは焚き火の中へ飛び込んでいく。

 飛び込んだものの勢いで、火の付いた枯れ枝の山は弾け、崩れた。しかし崩れても尚、炎は消えない。

 そして当の飛び込んだ何かはいまだ燃える枯れ枝の山に陣取ると、悲鳴とも思える形容し難い音を立て始めた。


 全ては一瞬のことで、イサムは反応できずにいた。しかし耳に届いた奇怪な音に、体は素直に反応して後ずさる。

 それはユーラも同様だった。


 火の中に映る影、それは虫の姿をしていた。

 人の頭ほどの大きさはあるだろうそれが、火の中で踊り狂う。

 外形は甲虫のようだった。しかし既に火に焼かれて原形を崩し、今となってはよくわからない。


 辺りには虫の焼ける香ばしい臭いが立ち込め始めた。


 火の中で踊る虫に、イサムは只々目を奪われていた。だが突然腕を掴まれて、我に返る。


 イサムが腕を掴む者を確かめると、そこにはいつでも動けるように荷物を背負ったユーラがいた。

 ユーラは黙ったまま、焚き火の上へ向けて顎をしゃくる。

 促されるままにそちらを見れば、焚き火の上空には今にも火に飛び込まんと旋回する虫の群れがあった。


 イサムは動揺した。一匹一匹の大きさに震えながら、虫を刺激しないように物音を立てず、ゆっくりと自分の荷物を引き寄せる。

 そしてこの場から離れられる状態をイサムが整え終えると同時に、機を見計らっていたかのように虫の群れが焚き火へと殺到した。


 あっという間に焚き火は崩れ、虫の影が火の明かりを隠した。


 突然の訪れた暗闇に、イサムは立ち竦んだ。

 ユーラは夜目が利くようで、そんなイサムの手を取って引っ張る。


「こっちよ!」


 引かれる手と反対の手に持ったポールを頼りに、イサムは森の中を小走りに進んだ。

 時折足を引っ掛け、前につんのめりそうになるのを堪えながら、二人は焚き火の跡から離れていく。


 周囲からは鼠だろうか、沢山の小さな動物の駆ける音が聞こえてくる。走り去る先は焚き火跡。虫の焼ける臭いに引かれているようだった。


 そうして焚き火跡から十分に距離を開けると、二人は目に付いた大木に背中を預けてようやく座り込んだ。

 辺りは生物の気配が濃い。イサム達の様子を窺い、警戒しているようだ。


 今まで日中に生物の気配を感じなかった理由、それは夜行性だったからだ。濃密な気配が満ちた森の中で、今更ながらにイサムはその事実に気が付かされた。

 慣れない環境で自分の頭が十二分に働いていないことはわかっていた。それでもこんな単純なことを見落として、イサムは自分が情けなくなる。


「何処か怪我してない?」

 ユーラの気遣う声が聞こえてくる。


 暗闇の中、二人の手は握られたままだ。


『大丈夫……。火に虫が寄ってくるなんて、よく考えれば当たり前だった……』


 今までの野営でそれがなかったのは、あの魔力を吸う岩のおかげだったのだろう。それによって担保されていた安全を、イサムは当然のものだと思っていた。


「前は火を焚かなかったから、私も気が付かなかったわ」

 軽く言うユーラの声がイサムの身に染みる。


 この世界に来てから勝手にユーラに期待して、その知識のなさに裏切られたと心の何処かで思っていた。そうして自分だけが頼りだと過信していたのだ。たった数日で何をわかった気になっていたのか。自分はユーラと等しく、むしろユーラよりも異界のことを知らなかった。

 人の経験を蔑ろにして余裕を感じている場合ではなかったと、イサムは思い知らされた。


 夜行性の生物の活動は始まったばかりのようで、辺りからは気配と共に茂みを揺らす音が時折聞こえてくる。

 先ほどの出来事で神経が過敏になっているのか、イサムはその物音に過剰に緊張した。


「寝ていいわよ。今晩は私が警戒しておくから」

『ありがとう。……あの、もう少しそっち寄ってもいい?』

 ユーラの言葉に素直に甘え、重ねるようにイサムは尋ねた。


 普段ならば恥ずかしくて口には出せない言葉だったが、夜の闇に響く物音の恐ろしさに羞恥心など感じてはいられなかった。


「……根性ないわね」

 ユーラの呆れた声が聞こえると、二人の肩が触れ合う。


 イサムは恐怖で高鳴る心音を落ち着けようと、目を瞑りながら深い呼吸を繰り返した。気が張っていてすぐに眠りは訪れなかったが、それも時間の問題だった。

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