珈琲飲み納め 2/2
マスターの淹れてくれた珈琲を飲みながら今年もこれが最後の一杯か、と物思いに耽っていると、いつの間にか店内のお客さんは僕一人になっていた。
「初詣は十時に学校に集合だったよね?」
食器を一通り片づけて手持ち無沙汰になったらしい楓がカウンター越しに声をかけてきた。
「そうだよ。裏山に登るから歩きやすい格好をしてきてね」
珈琲をすすりながら答える。
「なんだお前ら、一緒に初詣に行くのか」
同じく手持ち無沙汰のマスターが興味深そうにこちらを向いた。
「文芸部のみんなとだよ」
「でも一緒に行くんだろう?」
マスターは僕にだけ見える角度でにやりと笑う。
「そうだけど……」
照れくさくなって珈琲に浮かぶ波紋を数える。一、二、三……。消えた。
「せっかくだから『クロワッサン』の繁盛も願っといてくれ」
「うふふ。従業員として心を込めてお願いしてきますね」
「おう、頼んだぞ」
チーム『クロワッサン』はクリスマスを経てだいぶ壁がなくなったように見える。考えてみれば楓が働き出してからまだ一ヶ月も経っていないのだ。最初の方は、さすがのマスターもどう扱ってよいものか量りかねているのが見て取れた。それが今やもう楓のメイド姿もしっかり板に付いていて、マスターの細かな指示がなくともてきぱきと仕事をこなしている。きっと僕だけじゃない。常連客も二人が揃って『クロワッサン』だと感じ始めているだろう。その関係がちょっとだけ悔しい。
「願い事を叶えてくれるのは一つだけだって聞いたけど。そんなことに使っていいの?」
「そんなこととはなんだ。失礼な奴め」
マスターは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「気になってた小説の続きも読めたし、いまのところ叶えたい願いはないのよねえ」
楓は考え込むようにして腕を組んで、
「光葉は叶えたいお願いがあるの?」
急に振られて心臓が勢いよく跳ねた。特に考えてはいなかったが、楓から振られて身勝手な願いが次々と頭の中を駆け巡った。
「どうやら坊主にはあるようだぞ。まったく薄情な奴め。せいぜい願いを叶えて幸せになるといい」
「い、言わないからね!」
慌てて釘を刺す。いま「どんなお願い?」なんて楓に言われたら平静を装う自信がない。
「そこまで根掘り葉掘り聞かないわよ」
「俺は聞きたいがなあ」
「絶対に言わないから!」
墓穴を掘りかけていることにようやく気づいて、珈琲に口をつけて一息つく。
「楓もよーく考えたら思いつくかもしれないから、ちゃんと考えなよ」
「んーそうだね。そうなったらごめんなさいね、マスター」
楓は可愛らしく両手を合わせてマスターを上目遣いで見る。
「あっはっは。そうなったら仕方ねぇなあ。この店は自力で何とかするさ」
楓に向かって大声で笑うマスターを楓がきょとんとした顔で見ている。マスターの目は僕を揶揄うときにする目になっていた。壁が急になくなりすぎだ! と心の中で文句をつけながら、二人の間に割って入る。火の粉は簡単に僕まで飛び火する。
「そういえば明日から休みでしょ? 楓はなにするの?」
マスターから「チッ」と舌打ちが聞こえた……気がした。
「わたし? 実は明後日から家族旅行で温泉に行くの。二泊三日でね。だから明日はその準備よ」
「そうなんだ。どこまで行くの?」
「筒根の温泉街。思いっきり羽を伸ばしてくるわ」
楓は両手を広げて羽を広げるジェスチャーをした。楓に羽が生えているのだとすれば、きっと両手にではなく背中にだ、と余計なことを考える。
「ほう、筒根か。年末によく宿が取れたな」
マスターが髭を撫でながら感心したように言う。
「きっと運が良かったんです。昔にも行ったことのある宿が偶然取れて」
「そうか。倒れるくらい頑張ってくれたからな。しっかりと英気を養ってこい」
「はい。ありがとうございます」
マスターの優しい視線を浴びながら、楓はにこりと返す。本当は僕が言いたかった台詞なのに。
カランカランとドアベルが響いた。楓が「いらっしゃいませー」と言いながらパタパタと入り口まで駆け寄る。
僕はすっかり冷めた珈琲を飲みながらクロワッサンを食べ、一息ついてから楓に「また正月に」とだけ告げて『クロワッサン』を後にした。
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