ふうのへや
楓を
僕は楓に背中を向けてしゃがみ込み、肩越しに「部屋までおぶってくから」と声を掛ける。楓はおずおずと僕の首に細い両腕を回し、背中に抱き着いて体を預けた。
「部屋、どこ?」
「あっち」
楓が肩越しに階段を指さす。僕は足に力を込めて、階段をぐんぐん昇って行った。
「おかゆ作ったから薬と一緒にすぐ持って行くわね!」
バタバタと廊下を走る音が背中に聞こえた。
階段を昇りきると、突き当りに部屋があった。扉には親切にも『ふうのへや』と書かれた花柄の可愛らしいプレートが掛けられていた。
「楓、ここでいいんだよな? 開けるよ」
「うん」
僕は宝石箱を扱うように
女の子の部屋に入るのは初めてだ。思ったより
八畳ほどの部屋には、勉強机とベッドと本棚とローテーブルと
「いてっ」
頭に軽い衝撃があった。
「恥ずかしいから、じろじろ見ないでぇ」
楓が消え入るような声を上げながら、力なくぽかりと僕の頭を叩いていた。
「ご、ごめん。それじゃあ降ろすよ?」
僕はそう言って、楓をベッドにゆっくりと降ろした。楓はそのままぽすんと横になって、
「お母さんが来るまでいてくれる?」
甘えた声がじんわりと僕の耳に染み込む。
「タクシー待たせてるから少しだけ」
僕はそのままずるずると床に座り込んだ。肩越しにベッドに顔を向けると、ばっちりと目が合った。
「ね、熱があるのか?」
分かっているはずなのにそう聞いた。
「うん――こほっ。家を出るときはまだ大丈夫だったんだけどね――こほっこほっ」
「ごめん。無理に喋らなくていいよ」
「――ん」
部屋が静寂に包まれる。楓の部屋は女の子の匂いというよりも、どこか懐かしい匂いがした。どこかで嗅いだことがあるような気がする。
テーブル上の熊の目覚まし時計を見つめる。カチリと長針が一つ動く間に、楓が3回咳き込んだ。おかゆを食べて、咳止めと熱冷ましの薬を飲んでもらいたい。早く楓のお母さんに来てほしい。自分がいると楓は着替えることも汗を拭くことも出来なくて、体がどんどん冷えてしまう。ふと、ポケットにハンカチが入っていることを今更思い出して、慌ててゴソゴソと取り出した。
「楓、せめて顔の汗だけでも拭くよ」
膝立ちになって楓を覗き込む。楓は薄目を開けてから小さく頷くと、再びゆっくりと
「食欲はある?」
楓は小さく首を振った。
「おかゆはちゃんと食べなよ? 薬を飲んでゆっくり休んで」
部屋の外で階段がゆっくりと
楓のお母さんは僕に「ありがとう」と礼を言ってから、トレイを静かにローテーブルに置いた。楓のお母さんは大分落ち着いた様子で、僕は胸を撫で下ろした。
「楓、おかゆを冷ましている間に体を拭いて着替えなさい。タオルと着替えを出すわね」
楓のお母さんは、そう楓に声を掛けてから僕へ向き直る。
「あなた、お名前は?」
「楠光葉です。楓が働いている喫茶店で知り合って、僕は客です」
僕は慌てて自己紹介をする。つい聞かれていないことまで答えてしまった。楓のお母さんは優し気に目を細めた。
「楓と仲良くしてくれているのね。光葉くん、今日はここまで楓を連れてきてくれてどうもありがとう。とても助かったわ」
楓のお母さんはエプロンのポケットから一万円札を取り出して、
「これ、タクシー代。お釣りは取っておいて。喫茶店に戻るのなら、温かい珈琲でも飲んでちょうだい」
「あ、でも。喫茶店のマスターが出すって」
「そこまでご迷惑を掛けるわけにはいかないわ。受け取ってちょうだい」
これ以上有無を言わさぬように差し出すので、光葉はお金を受け取って、
「わかりました。マスターにもそう伝えます」
そのままポケットにしまった。楓のお母さんはほっとしたような表情で、
「ありがとう、光葉くん。マスターさんにも後でご挨拶に伺うとお伝えくださる? 一度、楓のお話を聞きたいとも思っていたの。お仕事でもご迷惑を掛けていないと良いのだけど」
楓のお母さんは、そう言って楓を見やる。
「いえ。楓はしっかりしていますよ。珈琲もいつもより美味しく感じます」
「あらそう? うふふ、光葉くんは優しいのね。さて、そろそろ楓を着替えさせないと」
楓のお母さんは、エプロンを軽く二、三度叩いた。
「邪魔してすみません。では、僕はこれで。僕が言うのは変かもしれませんが、楓の事、よろしくお願いします」
「もちろん。任されました。光葉くん、追い出すみたいでごめんなさいね。また楓に会いに来てちょうだい。そのときは、改めてお礼をさせてもらうわ」
楓のお母さんは、優しく笑った。その笑顔を見て、やっぱり母娘だなと光葉は思った。
「――光葉、」
部屋を出ようとする僕に、楓が弱々しく声を掛ける。
「光葉、ありがとう」
絞り出すように、しかしはっきりと言った。
「どういたしまして。お大事に」
僕は後ろ髪を引かれながら楓の実家を後にした。
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