初恋は鉄の味?
自宅に辿り着いたのは、夜の九時近くになってからだった。楓を家の前まで送って家路についたのが八時半ごろ。思ったより時間がかかってしまった。
玄関脇のクロークにコートとブレザーを掛けてから、靴を脱ぐ。雪が浸みて靴下がぐっしょりと濡れていた。靴下も脱いでコートの横に一緒に掛けておく。後で母さんが気づいて洗濯してくれるだろう。そのままネクタイを緩めると、急激な解放感に思わず息が漏れた。無垢床の廊下をぺたぺたと歩く。足の裏がじんわりと温かい。ダイニングに近づくにつれ、両親の笑い声が次第に大きくなってきた。扉をガチャリと開く。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい。今日はずいぶんと遅かったのね?」
「光葉ー帰ったかー。こんな雪の日にどこ行ってたんだ? 俺たちと一緒で真冬のランデブーかー? よ、色男っ」
「まあ、光葉にもついに彼女が出来たのね! お祝いにわたしも飲んじゃおうかしら」
「おいおい、その手に持っているのはなんだい? 母さんよ」
「これは炭酸ジュースですよ、あなた」
「そうだったな! 麦の炭酸ジュースだったな! わはは。光葉もどうだ? 美味いぞー」
酔っ払いが二人いた。見慣れた光景だったので、特に何とも思わない。
父さんの仕事場は家で母さんは専業主婦なので、それぞれで外出するとき以外、二人はほぼ一日中同じ屋根の下にいる。だというのに、両親はずっと仲が良い。小さいころはそれが当たり前だったが、今ではよほど馬が合うのだなと感心していた。二人の関係を好ましく思っていても、さすがに酔っ払いに絡まれるのは面倒くさい。大方、久しぶりの雪に興奮して、二人で雪道を散歩でもしてきたのだろう。僕は玄関ポーチに二人分の足跡が付いていたのを見つけていた。二人は、良い事があるとすぐに酒盛りをする。酔っぱらうって、どんな気分なんだろう。
「いつもの喫茶店に寄ってただけだよ。電車が止まってたから、歩いて帰って来た」
本当のことに、ほんの少しだけ嘘を混ぜる。追及されないコツだ。
「なんだ。つまらんな」
父さんがくぴりとお猪口に口をつける。
「光葉、彼女が出来たら家まで連れて来なさいよー? いろんなお洋服、着せたげる」
母さんが遠い目をしてにやにやしている。母さんは服飾が趣味で、様々な洋服を作っては知り合いにばら撒いていた。特に可愛い服が大好きなので、一人っ子の我が家ではモデルが圧倒的に不足している。そうした意味では、父さんと母さんの遺伝子を僕は色濃く受け継いでいると言える。
「はいはい。わかったわかった。それより父さん、文芸部の総評をすることになったんだって?」
僕はリビングのソファに鞄を置くと、冷えた体を温めるべくストーブ前に陣取った。
「ああそうだ。現部長の白水女史から直々の依頼があってな。後輩たちがどんな内容を書き上げるのか、今から楽しみでしょうがない。もちろんお前のもな」
父さんが赤ら顔をふっと緩める。母さんが驚いた顔をして、
「まあ。あなた、光葉の小説を読むの? そんなの私も読むに決まっているわ! ね、光葉、いいでしょ?」
「別にいいけど、ちゃんと感想は聞かせてよ?」
「もちろんよ。お父さんの書く小説は
母さんが父さんの前でとんでもないことを言った。父は
「な、なんだとう。こうしちゃおれん。俺も次は青春小説を書くぞ。おい、光葉。まだまだお前には負けんぞ!」
「その意気よ、あなた」
母さんが自分が点けた火を
「父さんはミステリ作家でしょ? そんなの書いたら、読者が全員ひっくり返っちゃうよ。それと、文芸誌はちゃんと
僕は後輩に義理を果たすべく、そう釘を刺す。酔っ払いに効果があるかはわからないが。
「ほう。今の文芸部には俺のファンがいるのか。よし、光葉、連れてこい!」
「男の子? 女の子? きゃーどの服を着せようかしら」
僕はいい加減うんざりして、
「そんなんじゃ連れてこれないよ、まったく。風呂、入って来るね。夕飯はいらないから」
鞄をひっつかみ、廊下に出る。扉を
洗面所に入り、電気を点けた。じんわりと淡い光が射す。我が家はつい先日、LED照明を全面的に導入したのだ。ネクタイを抜き取って、シャツのボタンを外していく。途中でもどかしくなって、三つを残したまま頭から脱いだ。インナーシャツを脱いでベルトを外し、ズボンとパンツを脱ぐ。まとめて洗濯籠にバサリと突っ込んだ。
シャワーを浴びて、頭と体を丁寧に洗ってから湯船に浸かると、ずいぶんと久しぶりに心が落ち着いた気がした。体の芯から温まっても、右の手の平には、まだ別の熱が残っている。
目を
実際のところ、楓についてはまだ知らないことばかりだ。知ってるのは、名前と、年齢と、好きな食べ物と、好きな小説。あと、珈琲の好み。収穫はたったそれだけだったが、妙な満足感があった。楓に話しかけられたあの瞬間から、僕は夢の続きに居る。楓が扉を開いて、僕が飛び込んだ。僕が夢見た光景は、もはや別世界ではなくて現実そのものだった。
そこまで考えて、僕はどうしようもないくらい楓に
少し冷静になると、こんなことで興奮して鼻血を出しかけた事実を思い、また頬が熱くなった。恋だのや愛だのは、小説とドラマの中でしか知らないけれど、こんなに情けない反応をする主人公を、僕はついぞ見たことがない。
すっかり体も冷えてしまったので、手探りでシャワーを止める。どうやら
しばらく何も考えないようにして、ぼんやりと湯面の
僕は楓のことが好きだ――。
確かに一目見ていいなと思っていたが、まさか少しばかり話をして手をつないで夜道を歩いたくらいで、こんなにも
自分の気持ちに気が付くと、今度は楓が僕のことをどう想っているのかを知りたくなった。もしかしたら、何とも思っていないのかもしれない。誰にでも等しく親愛の情を振りまいているだけかもしれない。僕は
いやでも、と僕は思う。先に扉を開いたのも手を繋いだのも、どちらも僕ではなくて楓だ。距離を詰められないで固まる僕に、一歩ぐいっと踏み込んで来てくれたのは、間違いなく楓の方なのだ。これが勘違いだって言うのなら、楓はとんでもない小悪魔だ。羊の皮を被った恐ろしい狼だ。僕は楓の
「これじゃあまるでメビウスの輪だ!」
思わず叫んだ。反響して大きくなった自分の声に、思わず身を竦める。
そうだ。こうして僕が思い悩んでも、答えなんて出やしない。楓が僕をどう想っているのかは、楓にしか分からない。聞くしかないのだ。本人に。いつか、そういつか。僕は自分の想いを楓に告げることになるだろう。そのときに。
それまで、この
マスターのおかげでようやく気分が落ち着いたので、風呂から出ることにする。
バスタオルで体の水分をしっかりと拭き取り、ドライヤーで髪を乾かす。作業に
そのままダイニングへ水を飲みに顔を出すと、両親はまだ楽しそうに酒を飲んでいた。
「あら、ずいぶん長く入ってたのね」
ビール片手に母が目ざとく指摘した。
「雪道を歩いてだいぶ冷えたからね。おかげで少しのぼせちゃったよ」
嘘ではないが、本当の事は言わない。
「のぼせるのは風呂だけにしておけよー。女にのぼせたら、途端に
父はぐでんぐでんに酔っぱらいながら、核心を突いた自虐ネタで笑う。僕は平静を装って、
「そんな暇はないから大丈夫だよ。文芸部で忙しいんだ。疲れたからもう寝るね。おやすみなさい」
完全に酔った父が、
「光葉ーいい夢みろよー」
まだまだ余裕な母が、
「あらあら光葉も大変ね。ゆっくり寝なさいよ。おやすみなさい」
「うん、おやすみ。二人もあまり飲み過ぎないようにね。特に父さん」
そう言い残して、自室へ向かう。
着くや否や、電気も点けずに感覚だけでベッドに飛び込んだ。ふかふかして気持ちがいい。思った以上に疲れているらしい。
手を伸ばして、なんとか目覚まし時計を掴んで引き寄せる。いつも通り7時に鳴る様にセットした。まだ十一時にもなっていなかった。
そのまま深い眠りについた。
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