全てが記録されるARの世界
「トリカブトは毒草として有名ですけれども、その根は漢方では「附子」と言って、心臓を強くしたり新陳代謝を高めたりする薬として昔から使われていたんですね・・・」薬学と植物学を生涯にわたって研究した日野先生は、薬草園に植わるトリカブトの前に立って最後の講義を始めた。
「この紫の可愛い花は下向きに咲いていて、ほら、このように蜂が蜜を吸いに来るんですよ。でもね、ほら、蜂が停まりづらそうにしているでしょう?花が下向きに咲いているからなんです。蜂がバタバタするうちに花粉をたくさんつけて、花粉を虫媒させるんですね・・・」
まだまだ話は続く。「トリカブトの毒は解毒剤を作れないので有名なんです。だから、いまでも時々、食べれる山野草と間違えて食べられて、亡くなる人がいます。解毒剤がないので、食べてしまうとほぼ命を失ってしまいます。ちなみに、どれくらいの量が致死量か知っていますか・・・」
日野先生がトリカブトの講義を続ける間、薬学部の学生は眼鏡のような形をしたARグラスを身につけながら先生の講義を聞いていた。いや、正確には、ARグラスを通して録画していた。
「先生、本当にお疲れ様でした!植物園にある全ての薬用植物を、全ての季節ごとに解説する映像がとうとう完成しました。これから僕たちはこの映像をデータベース化します。日野先生の解説が永遠に残るなんて、本当に素晴らしいと思います!」
「いや、君たちもこれまで付き合ってくれて本当にありがとう。ARグラスを掛けた人が植物園や山の中でトリカブトを見たら、私の解説の映像がその現実に重なる形で流れるということですよね?未来の多くの方のお役に立てると良いのですが。」
「これから永遠に、先生の解説が参照されるんです。素晴らしい場に立ち会わせてもらえて、僕たちも本当に有意義な時間を過ごさせてもらいました。」
・・・
柏田はARグラスをかけながら世界中を旅する人間だ。そして、その幅広いコンテンツを独自の視点でミックスする達人だ。
山を歩き回り、多くの植物についてARグラスを通して知見を得ており、それぞれの特徴を大まかに覚えている。もちろん、日野先生の映像解説も概ね視聴済みだ。先日も、アップされていたトリカブトのAR映像を見て、その植物について学んだところだ。
彼は博物学や建築学にも精通しており、歴史ある建物のそれぞれの部材の文化的意味、建築方法などもおおまかに覚えている。日本古来の建築物には木をはじめとした植物がたくさん使われているので、彼の植物の知識とも強くリンクしている。例えば、法隆寺はヒノキを使って建てられていることで有名だが、その驚くべき安定性をヒノキの生物的構造から解説することもできる。
彼は楽器も幅広くチャレンジしている。ARグラスをかけながら楽器を練習し、楽譜を視覚内に表示させながら、また、自分が演奏している楽器と映像を重ねて弾き方のアドバイスを得ながら、腕を上げていっている。電車に乗る間などは音楽の原理を学ぶ。倍音といった物理現象から、十二平均律という音が発明された歴史、また、和音、すなわちコードの流れや、曲の雰囲気を決めるスケールも学習済みだ。もちろん、木管楽器などは、なぜその音が出るのか、植物の細胞の構造からのアプローチも可能だ。
多くの人がARグラスを使って便利に身の回りの事に関する知見を得ることのできる世界にいながら、柏田は圧倒的なコンテンツの視聴量とそれらを統合する才能を持って、学問をまたがった専門性の高い解説をARのコンテンツとして残していっており、知識人たちの間では有名人となっている。
・・・
高田ピエロ氏はお笑い系のアーティストだ。
いろいろなARコンテンツが溢れる中、そのコンテンツに少しだけお洒落なお笑いを付け加える、そんなコンテンツを提供している。
高田ピエロの拡張機能をアクティベイトすると、例えば日野先生の「解毒剤がないので、食べてしまうとほぼ命を失ってしまいます。ちなみに、どれくらいの量が致死量か知っていますか・・・」というトリカブトの解説に、
「でも、最新の解毒剤では致死率を50%くらいに下げられるよ!」
「トリカブトって、昔から文学のテーマでも使われていたよね!」
といった具合に、ちょっとインテリジェンスを感じさせながらも、楽しげな雰囲気をもたらす映像が付加される。
日野先生や柏田のような学問の才能のある人間が意味のあるコンテンツをアップロードしていく一方で、高田ピエロ氏のようなアート寄りのコンテンツをアップロードしていく人間も多い。ロジカルでは対抗できない人間が、非ロジカルな路線でもコンテンツを量産していっている訳だ。
・・・
ある日、その三者が集まって食事をしていた。
日野先生「・・・でも、高田ピエロさんの拡張機能で、私の生真面目な映像も楽しげな雰囲気に変わり、多くの人に見てもらえるようになっているようで、高田さんには本当に、感謝しますよ。」
柏田「そうそう、高ピーさんのセンスはすごい独特。でも、あらゆるコンテンツが見やすいものになる。才能だよなぁ。」
高田ピエロ「いえいえ、みなさんのコンテンツに僕は乗っかっているだけなんで、本当にすごいのはお二人ですよ。本当に、新しいコンテンツが出るたびに、何回も観て、勉強させてもらっています・・・」
尽きない話を続ける中、柏田が本題に入った。
「・・・ということで、今回のARコンテンツプラットフォームのアップデートにより、アップした本人の死後は、全てのコンテンツが匿名化されるということです。日野先生が解説された植物の話も、失礼ながら先生がお亡くなりになった後は、バーチャルのキャラクターが可愛い音声で解説する形に置き換わる。僕のコンテンツも、僕の死んだ後は、バーチャルのキャラクターが解説する。僕たちが汗を流しながら蓄積していったARのコンテンツから、僕たちの名前や顔が消されてしまうという訳なんですよ。」
「毎日毎日、魂を込めてコンテンツを作っている俺たちに、なんていう仕打ちなんだ!」高田ピエロが毒づいた。
しばらくその話題を続けた後に、日野先生が最期の話を始めた。
「お二方、本日は本当にありがとうございます。お二人に出会えて本当に良かった。自分の名前を永遠に残すという野望に情熱を注いだ仲間として、すごく共感し合える時間を最期に持てて良かった。約束通り、これを持ってきましたよ。」
日野先生が出したのは、綺麗な色をした植物だ。
「これをこの分量ずつ食べましょう。そうすれば、一瞬の苦しさを味わった後に、永遠の安らぎが待っています。」
三人はそれぞれ、好きなやり方でその植物を口へと運んだ。そう、トリカブトを。
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