第36話 英雄の帰還Ⅳ
言葉を発しようと足掻いた。ドーが見詰めるわずかな時間が、ゼンザックにはまるで永遠のように感じられた。
「……ドー様」
やっとの思いで一言、絞りだすことができた。やっと師の名を呼ぶことができた。
「久しぶりだな、ゼンザック」
ドーが涼やかな笑みを浮かべる。ゼンザックの前に膝を突き、右足を射留めている
「夢では……夢では、ないのですね……」
膝立ちにドーへと相対するゼンザックの頬を、知らぬ間に涙が濡らしていた。
「馬鹿者。泣く奴があるか……」
ドーはそっと、ゼンザックを抱きとめる。
「すまんな。心配をかけた……」
耳元でささやくと
「さぁ、話は後だ。先ずはこの炎を何とかせねば……。詠唱に入る、護ってくれ」
ゼンザックは、強く頷いて涙をぬぐう。そして立ち上がり、
いまや
「さて、クラーケン殿まで、巧く
水の精霊王の名を呼んで、ドーが両手を合わせて腕を伸ばす。その一瞬で
水の気よ
天に垂れ込み
地に注げ
邪気を
『
詠唱が終わると、一瞬にして暗雲が天空を覆い尽くす。雷鳴が轟いたかと思うと、突如として激しい雨が降りそそいだ。まるで滝のような豪雨に火勢は削がれ、大気から黒煙が洗い流されていく。
「巧くいったようだな……」
ドーの表情に、安堵の笑みが浮かぶ。
降りそそぐ雨は塹壕を満たし、あれほど燃え盛っていた火炎も今や
塹壕の手前で前線を形作ろうとしていた
塹壕より這い出てたヘレスチップが、ドーの姿に気づいて駆け寄ってくる。
「ドーちゃん!」
叫んでドーへ飛びつこうとした瞬間、
「生きてたニャ! 良かったニャ!」
泥濘の中を、ヘレスチップが這い寄ってくる。
「ひ、久しいな……ヘレスよ」
顔をひきつらせて、ドーがヘレスチップの接近を拒む。
「この雨、ドーちゃん降らせたのかニャ?」
「そ、そうだが……」
泥にまみれたまま脚にまとわりつくヘレスチップを、ドーはあきらめ顔で受け入れていた。泥まみれのヘレスチップを、雨の
「ドーちゃん、力が戻ったんだニャ!」
「あぁ、まだ四割ほどだがな……」
そう言ってドーは、ヘレスチップへ笑みを向ける。
次第に雨の勢いが衰え、足早に雲が流れていく。やがて雲の切れ間から、陽の光が覗く。豪雨にひるんでいた王国軍も、雨が止めば動き出すだろう。体勢の立て直しを図らなくては……ゼンザックは、残存の兵力を見積もる。三分の一ほどは、もう兵力として見ることができないだろう。森の兵を呼び戻して、一万二千か、三千か……。
「援軍を呼び寄せる。魔法陣を敷いている時間がない。ヘレス、手伝ってくれ」
「何をすればいいニャ?」
「魔法陣の代わりにガイド打って、座標を安定させてくれ。ワタシは
「
並の
「チマチマ送っていたのでは
そう叫ぶとドーは、両手を合わせて
立ち上る光が突如としてその明るさを増す。あまりの眩しさに、ゼンザックは思わず目を閉じた。辺り一面が真っ白に焼き付いたかと思うと、次の瞬間には一万の軍勢が眼前に在った。
「これだけの兵を一瞬で!?」
「で、でたらめニャ……」
ゼンザックとヘレスチップが、驚きの声を上げる。驚いたのは二人だけではない、自軍から、そして敵軍からも驚きの声が上がりざわめきたっている。
転送された軍勢を離れ、
「炎帝よ。言われた通りに兵をそろえたぞ。これで良かったのか?」
ドーの手前で馬を止めた男は、下馬しながらそう言った。
「上出来だ。ご苦労だったな、バフガー」
忘れるはずがない。かつて敵として戦った、僧兵団団長バフガー・スターネスだ。
「お、お前、なぜ
「なんだ、ゼンザックではないか。相変わらず暑苦しい奴だ……」
お前にだけは言われたくない……そう言い返そうとしたが、バフガーの後に並び立つ二人の女を見て、再びゼンザックは絶句した。
「久しぶりやな、ゼンザック……」
そう言ってバフガーの後ろで手を振っているのはルベライトとシベライト、双子の
「お、お前たち、ヴォースの街で……」
「ウチらだけと違うで。ヴォースのみんな、全員無事や!」
ルベライトが指し示す方向を見やると、転送された兵の中に見知った
呆気にとられるゼンザックの隣で、ドーが王国軍を見やり舌打ちをする。
「何をやっとるんだ、あいつは……」
ドーは大きく息を吸い込み始める。ゼンザックは知っている。これはドーが大声で叫ぶ前兆だ……慌ててゼンザックが両耳をふさぐ。隣で耳をふさぐヘレスチップと目が合い、二人思わず苦笑する。
「くぉら! インディゴ! いつまで遊んどるか!!」
耳をつんざく突然の咆哮に、バフガーと双子は目を白黒させて驚いていた。
ドーの叫び声は、二百メートルほど前方に進軍しつつある王国軍まで響き渡った。
先頭に金獅子トパゾライト・アンドラダイトの姿が見える。軍馬にまたがる金獅子の横で、副官らしき男が下馬して頭を下げている。頭を下げている男、あれはもしかしてマスターではないのか……ゼンザックが気づいた次の瞬間、金獅子の
「いやー、まいったね。いきなり斬りつけるとか、金獅子の旦那も気が短い……」
いつの間に現れたのか、王国軍に居たはずのインディゴの姿が隣に在った。懐から煙草を取り出し、紫煙をくゆらせている。
「よぉ、ゼンザック。頑張ってたじゃねぇか」
再び絶句するゼンザックの肩を、インディゴが叩く。
「いつまで遊んどるんだ、貴様は……」
呆れたように言い捨てるドーの言葉に、インディゴが薄ら笑いで応える。
「金獅子の参謀にされちゃってさ、身動きとれないのなんのって。でもまぁ、おかげで戦場に出られた……」
白い煙をはきながら、インディゴが思い出したかのようにバフガーに告げる。
「僧兵団の連中にも話はついてるぞ。団長が居るのなら、
インディゴの指差す方向を見やれば、二百五十余騎の
ドーは満足げに頷き、ゼンザックへと向き直る。
「これで兵力は五分と五分だ。さぁ、ゼンザック。指揮をとれ!」
立て続けに起こる信じがたい出来事に、ゼンザックは呆気にとられていた。
「どうした。
そう言って口の端をゆがめるドーに、慌ててゼンザックが言葉を返す。
「馬鹿をおっしゃっては困ります。大きな
「お前の皮肉も、久しぶりに聞くと新鮮だな……」
ドーとゼンザックは顔を見合わせ、互いに苦笑する。
「確かに
そう言ってドーは剣を掲げ、王国軍を指し示す。
「えぇ、行きましょう! 王国軍を倒しましょう!」
ゼンザックの声に応え、皆が騎乗する。
陣頭に立ち、ゼンザックは馬上から自軍を振り返る。
インディゴと
相手は金獅子が率いる王国軍の精鋭部隊だ。しかしこの布陣であれば五分の勝負が……いや、それ以上の勝負ができるであろう。
全軍の視線が、ゼンザックへと注がれる。総司令官の号令を、今か今かと待ち構えている。
大きく息を吸い込み、ゼンザックは天を仰ぐ。あれだけの豪雨を降らせた雨雲は既になく、抜けるような青空が広がっていた。
蒼天に目を閉じると、万感の思いが去来する。だが今は置いておこう。目の前の敵を打ち倒すことだけを考えよう……。
「全軍、突撃!!」
「応!!」
ゼンザックの号令に、全軍が気炎を吐く。
マイカ平原の戦いは今、決着の時を迎えようとしていた。
(つづく)
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