第36話 じゃあ
気を使う余力もない私は、部屋に上がってすぐに、ペットボトルの水を抱えたままベッドへ倒れこんだ。ぽすっと羽布団から空気が抜けていき、自分の身体が布団の一部みたいに埋もれる。
「結構、飲んだのか」
硬い声と少しだけ呆れたように貴哉が訊ねるから、なんとか音を出すみたいに「うん」と掠れた返事をした。
コートを脱いだ貴哉が、エアコンのスイッチを入れる。我が家みたいに振る舞うのは、相変わらずだ。温風が、冷え切った部屋を少しずつ暖めていった。
冷蔵庫を勝手に開けた貴哉は、中を覗いて少しの間動きを止めてから、作り置きしてあるお茶を取り出しグラスへ注いだ。
「ビール。無いんだな」
「うん……」
気力のないまま応えた。以前は、貴哉のためにといつも冷蔵庫に入っていた缶ビールだったけれど、今はワインばかりを買っていた。ワインは冷蔵庫だと冷えすぎてしまうからと、キッチンの棚にスペースを作って横置きになっている。いつか小さくてもいいからワインセラーを買いたいというのが今の目標だ。
グラスに入れたお茶をテーブルに置き、胡座をかいたままの貴哉は、特に何も言わずに黙っている。
その姿をベッドの上でうつ伏せになったまま、首を貴哉の方へ向け目だけで眺めていた。
部屋の中はクーラーの稼働する音と、冷蔵庫の唸る音しかしない。時折、外から聞こえる車の音以外、何も聞こえてこなくて、とても静かだった。静かだと言うことは、今の二人にとっては、とても重苦しい。だからと言って、何か音楽をかける気力も、テレビのリモコンを手に取る気力もなくて、私はただ布団に埋もれていた。
少しすると、カサカサと音がした。
「使ってないんだな……」
視界の中から外れてしまった貴哉から訊ねられた意味がわからなくて、酔った体を無理やり起こして見た。
貴哉はクリスマスに一緒に選んだプレゼントのバッグが収まるショッピングバッグを、自分の方へと引き寄せていた。
見ての通りだから、何とも言い難い。あんな風にクリスマスに別れてから連絡もしていないのに、プレゼントだからと、何も考えず使うなんてこと出来るはずもない。
黙っていると、今度は部屋の隅にあるキャリーバッグヘ目を止めた。
「キャンセル待ちのチケット、取れたんだ?」
訊ねられたけれど、曖昧に頷いた。
専務の名前を出してしまえば、この重たい空気がさらに重く、鋭ささえ加わる気がするからだ。
飲みすぎたせいで、とにかく喉が乾く。会社で飲んだ、数々のワインのせいだ。ああいう機会を逃すのはもったいないとばかりに、味や特徴を覚えたいとたくさん口にしたけれど、最終的には酔ってよく分からなくなってしまったから意味がない。
ううん、違うよ。こんなにひどく酔ってしまったのは、専務のせいだ。何にもなかったみたいにシラッとした顔でそばに来くるし。テリーヌなんて取ってくれなくてもいいんだから。だいたい、送るなんて優しくするからっ。
思い出したら悔しさみたいなものが渦巻いて、大声で叫び出したい衝動にかられたけれど、酔っていて気持ちが悪いのもあるし、貴哉の存在に衝動を抑える。
モゾモゾと起き上がったついでのように、握りしめていたペットボトルのキャップをひねり、勢いよく残りの水を飲み干したところで貴哉が訊いた。
「いつ帰るんだ?」
訊いてどうするんだろう。そんな風に思ってしまう自分は冷たい。
「三十日」
それでも訊かれた質問に短く応えた。
「そっか」
掠れた声で貴哉が呟く。
さっき体内に流し込んだだけでは水が足りなくて、ベッドに腰掛けたまま予備のミネラルウォーターがまだ冷蔵庫に入っていたかどうかを考えていた。
「あのさ……、この前のことだけど」
はっきりとモノをいう貴哉が、躊躇っている。言葉を探すみたいに、慎重になっているのがよくわかった。
なのに、その様子を何故だかとても遠く、他人事のような気持ちで眺めていた。貴哉がどんなに言葉を選んで話したところで、今の私はどうしたらいいのかわからない。
「俺、ガラにもなく不安になってさ。千夏の気持ちがよくわからなくて……。このまま、っていうの俺は……」
俺は?
そう思うのと同時に、疲れた気持ちが、今は何も話したくないし、聞きたくないと耳を閉じたくなった。
貴哉のことが大好きだった。いつもグイグイ引っ張ってくれて、一緒にいるのが当たり前になっていた。二人で楽しいことを見つけて、声を上げて笑うのが幸せだった。
それがいつの間にか、貴哉から「帰えればいい」と言われるたびに、別れて欲しいのかもってビクビクしていた心は、どうしてそんなことを言うのかと、ただ嫌な気持ちになるだけになっていた。
そんなことばかり言う貴哉の気持ちから、距離を置きたくなっていた。東京生まれの貴哉には、田舎から出てきた私の気持ちは、きっと理解してもらえない。だったら、もういい。そんな投げやりな気持が芽生えていた。一番に理解してもらいたい相手が、一番理解してくれないことが、こんなにも悲しいことなんだって知った。どんなに言葉を重ねたところで、私の言葉が届いた時には、それはねじ曲がって伝わってしまうのかもしれない。
「私、田舎に帰るよ。貴哉が言ってたみたいに、田舎へ帰るから」
吐き捨てるようにしたのは、嫌味だ。自分で言っていても、嫌な感じだと思うけれど、今まで溜め込んできた不安や憤りが、言葉になって止まらない。
「尻尾巻いて、帰って欲しかったんでしょ?」
「千夏……」
悔しさに唇を噛むと、貴哉が困った顔をする。
自分で散々けしかけてきたのに、どうしてそんな顔するのよ。
「戻って……来るんだろ? 仕事、あるもんな?」
不安そうに、また東京へ戻るのかと訊ねる貴哉の質問は、矛盾している。ヘタレな私に、だったら帰えればいい。そう言って追い出そうとしてきたのは貴哉だ。
「戻って来るよ」
抑揚もなく応えると、ホッとした顔をしている。
「けど。貴哉のところへは、帰らない」
酔っているせいだろうか。つい勢いづいているのは、自分でも判る。こんな状態で答えを出していいはずがないのに止まらなかった。
「何……言って……」
今まで抑えこんできた感情が、勢いをつけて吐き出されていく。
「私、ずっと辛かった。就職が決まらない時も、実家のみんなに会いたい時も。お母さんに会って相談したいって思った時も、貴哉はいつも意地悪だった。田舎から出てきた私に、帰りたいって甘える気持ちを否定されるって、どれだけ辛いかわかる? 本当は、もっと沢山田舎へ帰って、甘えて泣き言言いに行きたかったけど、貴哉がいつも帰ること否定するみたいに言うから、だから私はずっと、負けないって思って堪えてきた。けど、もうやめた。私だって家族に会いに行きたいし、泣き言聞いてもらいたいもん。それがヘタレだって貴哉が言ったって、私は、家族が大好きだからっ」
そこまで勢いよく言いながら、涙がポロポロこぼれてきて、袖口で子供みたいに拭った。
「千夏、そうじゃな……」
「もう、いいっ。おしまいにしよ。私、貴哉とはもういられない。辛いもんっ」
グズグズとする鼻を鳴らし、涙を拭い、それだけ言って黙り込んだ。
貴哉は苦しそうに息を吐き、天井を仰いだ。
「そうじゃ……なかったんだけどな……」
悲しげに呟きながら、私の顔を見ている。涙を流しているのは私なのに、まるで貴哉の方が泣いているように見えて、振り切るみたいに視線を床へと向けた。
それが区切りになったみたいに、貴哉が立ち上がるのが気配でわかった。
「実家、気をつけて帰れよ。千夏、たまに抜けたことするから……」
涙を流し続ける私へ、貴哉は困ったような、泣きそうな声で静かに呟いた。
「ごめんな。俺、ちゃんと気持ちわかってやれなくて」
溢れる涙をまた拭って顔を上げると、貴哉が背を向けた。
「バッグ、要らなかったら捨てていいからな」
じゃあと言うように右手を力なく上げ、この部屋を出ていった。
一人になった私は、ますます涙が止まらなくて、嗚咽も堪えずに更に泣いた。
自分から貴哉を突き放したのに、涙が止まらないのはどうしてだろう。今まで過ごしてきた時間が、今日で終わってしまう事が寂しいの? 未練でも感じてる?
だとしたら、なんて都合が良くて、ワガママなのだろう。
ゴメンね、貴哉。ごめんなさい。
明日目が腫れても、会社はもう休みだ。存分に泣いて、田舎へは涙は持ち帰らないようにしよう。
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