#20 門の闘い

 ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。

 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさ揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。


 有名な芥川龍之介の『羅生門』、その冒頭の情景である。

 この、急な雨のために羅生門に雨宿りする下人は、暗くなりつつある空を見上げ、振り続ける雨の音を聴きながら、「ある決意」をした。

「ある決意」――それは近ごろの京の都の荒廃が遠因となっていた。

 この二三年の間に、京の都は荒廃しきっていた。その原因は一つではなく、地震や台風といった自然災害から火事や飢饉といった人為災害まで、おそらく世にわざわいと呼ばれるものの殆どをこの都は経験していた。

 今の都は死の気配に満ち満ちており、僧は寺の仏像や仏具を打砕いてその丹や金箔のついたりした木を薪として売っていたり、荒廃に棲み着いた狐狸は人を騙したり、盗人が跋扈したりといった有様である。

 そんな生者ですら餓鬼のようになる有様だから、とうとう死者には誰も頓着しなくなって、しまいには死人が出たら、その死体を羅生門へ持って来、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。人々はこの門を気味悪がって、今では誰も門に近づかない。

 そのような末世の最中、下人は仕える主人から暇を出されたのである。

 下人に行く当てはない。次の仕官先を探すにも、都がそんな状況だからどうしようもない。かといって都を出るにしても、そのための金すらなく、そもそも今日を食っていくだけの手持ちすら無いに等しい。

(どうにかしなければならない――どうにもならない事を、どうにかしなければ)

 と、下人は門の下で考え続けている。だが、いくら考えてもその手段はひとつしかないように下人には思われた。

 盗人である。無いのなら、有るところから盗るより他にないのだ。

 下人の心中では既に答えは出ていた。そもそもやるしかないのである。それでも、それなりの人間性――けだものになってはならぬという心――をもつ下人は躊躇っていたが、その躊躇いを振り切る決心が着いた。

 決心をした下人は、差当り明日の暮しをどうにかしなければならないと考え、羅生門の楼上に上る。雨風の心配なく、一晩楽に寝られそうな所があれば、とにかくそこで夜を明かそうと思ったのだ。

 この羅生門はその場所にうってつけだった。門の楼上には棄てられた死体が置かれているだけであり、いま門に近づこうと思う人間もいない。

(もしかしたら、棄てられた死体の身包みから、金目の物が見つかるかもしれない)

 はたして、下人の中には、そのような獣じみた考えはあっただろうか。

 下人は楼上へ掛けられた梯子を上る。しかし、その歩みは途中で止まった。

 なぜ下人は梯子の途中で止まらねばならなかったか。

 それは楼の上からさす火の光のためである。門の下にいる時は気づかなかったが、下人より先に楼上に上っていた何者かがいたのだ。

 上では誰か火をとぼして、しかもその火を動かしている。これは、その濁った黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜、この死の気配が満ちた羅生門の上で、火をともしているからには、どうせただ者ではない。

 それから下人は己の気配を殺し、上った梯子の先で見たものは、並んだ人間の死体と、その死体を漁るひとりの老婆の姿であった。

 老婆はどうやら死体の顔を覗き込んでは何か品定めをしている様子で、ある髪の長い女の死体の前にしゃがみ込んでぶつぶつと何か呟いてから、その死体の髪の毛を一本一本毟り取り始めたのである。

 黄いろい光に照らされた楼上に、ぷちりぷちりと不気味な音が響いている。

 最初のうちは下人もまったく心胆寒からしめられてしまっていたが、髪の毛を抜く音を聞いているうちに、その怖気も消えていった。それと同時に、目の前の行為に――いや、この世のあらゆる悪に対して、はげしい増悪の気持が、正義の感情がわきあがってきたのである。

 下人には、死んだ女の髪の毛を毟る老婆の事情はわからない。そこには何か義を伴う事情があるのかもしれない。だが、下人にとって、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで十分に許されない悪であった。

 そこで、下人は体に力を漲らせて、身を伏せていた梯子から上へ飛び上がった。同時に腰に佩いていた聖柄の太刀に手をかけながら、老婆の前へと歩み寄る。

 老婆は逃げる事もかなわず、手に持つ髪の束を床にばら撒きながら、驚愕のあまり唖然としている。

「婆、何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」

 と、下人は手に持つ太刀を揺らし、かちりと鍔を鳴らす。

 その音にまったく怯えきった様子の老婆は、その小さな体をそれ以上に丸く縮こませて、意味のとれない言葉を呟いている。その哀れ極まる姿は、下人の激情を冷ますには十分だった。そこで下人は老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。

おれ検非違使けびいしの庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前になわをかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」

 すると、怯えきった様子であった老婆は、恐る恐るという有様で顔を持ち上げ、見下す下人の顔をじつと見た。それから鴉の啼くような嗄声で、言葉を発した。

「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、かずらにしようと思うたのじゃ。」

 この答えが平凡であったため、下人は失望した。そしてまた、冷めたはずの増悪の感情が、再び、頭をもたげてきた。やはり、許してはおけない。

 そんな下人の心情の変化を知ってか知らずか、老婆はさらに言葉を続ける。

「成程な、死人しびとの髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸しすんばかりずつに切って干したのを、干魚ほしうおだと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りに往いんだわ。疫病えやみにかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料さいりように買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 話を聞きながら、下人は己の心がひどく冷めていくのを感じていた。

 ひどい。何もかもがひどい。京の都も、この羅生門も、老婆と老婆の話も、そして何より、己自身も。真っ当な事が何処にある。

 そうして、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは目の前の老婆を捕えた勇気とは、まったく反対の勇気である。既に下人の中には、餓死か盗人か、などという問いは何処にもなかった。

「きっと、そうか。」

 老婆の話が終ると、下人は嘲るような声で念を押した。

 そうして、一歩前へ出ると、老婆の襟髪をつかみながら、噛みつくようにこう云った――いや、云おうとした。

「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ――何、婆っ!」

 先程まで怯えて蹲っていた老婆の体が、弩にでも弾かれたように、飛び上がった。

「ひょひょひょひょ!」

 楼の天井まで届くかという跳躍を見せた老婆の右手に握られた何かが、楼上を照らす黄いろい光に反射し、煌めいた。

 その手には、鋏。

 射られた矢の如く、老婆は鋏で以て、その生命を断ち切ろうと、下人に迫る。

 羅生門の楼上を照らす、濁った、黄いろい光が、揺れた。

 直後、楼上には、ふたつの閃光がひかった。下人が咄嗟に抜き撃った刀が、迫る老婆の鋏の刃をふたつ、受け止めた為である。

 一時の静寂。雨の夜の、――いや夜でなくとも都は死の気配に満ちている。それは当然、この門にも濃厚に漂う気配であった。

『しかし』と、下人は思わざるを得ない。いままで忘れていた、この生命の滾りは如何程か。目の前にいる悪鬼の類としか思われない老婆が、その白髪を揺らして、己の生命を狙っている。早鐘の如く鼓動する心臓が、下人に生きる意志を漲らせる。

「ひょ、ひょ。」

 老婆はその手に持つ鋏を鳴らして不気味に笑い、云った。

「お前を殺めてな、お前を殺めてな、引剥をしようと思うたのじゃ!」

 緊張のために下人の頬を一筋の汗が伝う。この老婆、やはりただ者ではなかった。

「――きっと、そうか。」

 下人は太刀を正眼に構えた。おそらく、次の一合で勝負は決する。

「では、どちらかが死ぬ以外ないようだ――」

「ひょ――」

 刹那の後、羅生門の上で影がふたつ、舞った。

 その末がどのようなものであったかは、誰も知らない。


 外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。

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