過去の略奪愛は……


 たった数か月離れていただけなのに、窓の外の光景がやけに懐かしい。


 田んぼを突っ切るような一本道。硬いコンクリートの建物ではなく、柔らかな稜線の山々に囲まれた空。

 幅が細い内村川を左に眺めながら、あたしを乗せたボックス車は見知った街道を進んでいく。


「ああ、この辺りは本当に空気がいいね」


 ハンドルを握る煉さんがウィンドウを下ろして目を細めた。


「そうですよね。でもあたし、東京に行くまでそれに気が付かなかった」


 空気も澄んで夜空には降るほどの星が瞬く大好きな土地だけど、あたしはここを飛び出した。

 そこで得たのは奇妙な自分の正体と、夢見ていたのと程遠い難しくて苦い恋。


「どうしたの夕愛ちゃん、なんか元気ないね。ここのところずっとそうだ」


 赤信号で車が止まっている間、煉さんが伸ばした片手をあたしの頭にポンと乗せた。

 やっぱりこの人も四神を宿す者の一人。娘娘の塞ぐ気持ちは敏感に感じ取れるのかもしれない。


(四神の一人……? あ、じゃあもしかして煉さんも知ってるんじゃ)


 動き出した車の助手席から、あたしは彼の横顔をじっと見つめた。


「あ、あの……煉さんは葵さんて人、知ってますか」

 

 それはずっと胸の中でくすぶっていた事。でもあの時もその後も、虎汰くんにそれ以上の詳しい話は聞けなかった。


「葵? その人がなんだって?」


 前方を見つめたままの煉さんは気軽な調子で、その穏やかな空気も変わらない。


「えと……その人には婚約者がいて、その」


 話してしまっていいのものだろうか。もし煉さんが全く知らない事だったら、他人の事情を勝手に吹聴することになってしまう。


「その婚約者を、夕愛ちゃんの前の娘娘が取っちゃった。って話かな」

「……っ!」


 絶句してしまったあたしを、また信号で車を止めた煉さんが流し見る。


「その顔は大当たりだね。誰から聞いたの。己龍くん? 虎汰くん?」

「虎汰くん……です」


 ふうん、と気のない返答をして、煉さんはアクセルを踏み込んだ。


「それでなんとなく変だったのか、最近の君たち。でも今さらじゃない? その事は夕愛ちゃんがウチに来る前から知ってたし、それでも仲良くやってたのに」

「やっぱり本当なんだ」


 心のどこかで勘違いとか誤解であって欲しいと思っていた。だからといって、虎汰くんがあたしを娘娘としか見てない事に変わりはないけれど。


「んー、まあ本当って言えば本当、語弊があると言えばあるかな。葵とわたるさんが婚約してたのは事実だし」

 

 上の空で聞いていた煉さんの言葉が、その中のワードが、突然二度見するような感覚であたしの心に引っかった。


(え……? 今なんて)

「だとしても夕愛ちゃんが気にする事は何もないよ。色恋の問題なんて当事者しかわからない所もあるし」

「ちょ、ちょっと待って煉さん。えと、葵さんの婚約者ってワタルさんて名前……?」


 すると身体が縦に大きく揺れて、車は胡桃くるみの樹に囲まれた駐車場に乗り入れた。慌てて辺りを見回すと、いつの間にかそこは目的地。


 緩やかな丘は芝が広がり、その中に様々な形の墓石が鎮座している。ここは、あたしが五歳の時に亡くなったお母さんが眠る霊園。


「着いたよ。夕愛ちゃんってボーッとしてるようで時々冴えてるよね。今のを聞き逃さなかったなんて」


 エンジンを切り、煉さんがフロントガラス越しに霊園を見つめて呟く。


「煉さん……まさか、そうなの? ワタルさんって、じゃあ前の娘娘って……!」


 これまでそんな事、可能性すらも頭をよぎった事はなかったのに。なぜかその名前一つで、全ての歯車が合っていく。 


 あたしを見た煉さんの瞳はどこか遠くて。作ったように微笑む口元は虎汰くんに良く似ている。


「そう。葵と婚約してたのは方丈 渉、君のお父さん。で、前の娘娘は方丈 乃愛のあ。ここで眠ってるお母さんの事だよ」

「うそ……!!」


 セミの声が五月蠅いほどに耳を打つ。

 その大音響が渦を巻いて、目の前がまだらに滲んでいく。


「あ……葵さんは? その人はどこの誰……」

「葵は僕の上の姉貴。己龍くんの母親って言った方がしっくりくる?」


 フワッと目まいがして前のめりに倒れこんだところを、煉さんの腕に抱き止められた。


「おっ……と、貧血かな。少し横になりなさい。飲み物買ってきてあげるから」


 煉さんがシートを倒してくれて、あたしは言われるまま背もたれに身体を預ける。だっていろんな事がグルグル回って力が入らない。


(お母さんが娘娘? お父さんは己龍くんのお母さんと結婚するはずだったの……? そんな)


 思い出される虎汰くんの言葉。


 娘娘は好きになった男を手に入れる為には手段を選ばない。

 略奪婚。

 他人を傷つけて愛を得た娘娘が和合の女神なんて。


(ただの先代の話じゃない。母と娘、似ているはずと思われても仕方がない……!)


 最初からあたしは恋愛対象外。ただ娘娘を手に入れてみたくてちょっかいを出してただけ。

 

(やだな……あたし、いつからこんな泣き虫になったんだろ)


 失恋ってこんなに哀しいものなんだ。告り魔と呼ばれて全部フラれてきたのに、こんな気持ちは知らなかった。

 届かない想いが迷子みたいにフラフラ漂って、ダメとわかった今でも消えてくれない。


「空が怪しくなってきたと思ったら……夕愛ちゃんが原因か。なに、その事で虎汰くんとギクシャクしてるの」


 車に戻ってきた煉さんが、あたしの手を取って冷たい缶ジュースを握らせてくれる。


「とにかくこれ飲んで落ち着きなさい、ほら」

「……ひっく」


 缶を目頭に当てると気持ちが良くて、滲む涙としゃっくりが少しだけ収まったような気がした。


「困ったな。これは身元引受人としての僕の責任が問われそうだ。渉さんに叱られそうだし……」


 あたしの目元からそっと缶ジュースを退けて、代わりに大きな手のひらが額に触れる。


「……乃愛のあにも睨まれそうだ」


 額から迷いのない気が真っ直ぐに降りてきた。


「静かに、ゆっくりでいい。僕の気に呼吸を合わせて」


 初めて触れる朱雀の気。それは大きくて、有無を言わさない強さがある。委ねてしまえばそれだけで張り詰めていたモノがほどけていく。

 

「煉さん……。涙止まった……」

「それは良かった。じゃあジュース飲んで、もう少し横になっていなさい。まだ顔色よくないよ」


 プシュとあたしのジュースの蓋を開け、自分も缶コーヒーを手にして煉さんは運転席のシートにもたれた。


 一口飲んでみると、信州産りんごの味が胸の中にまで広がる。


「お母さんのこと知ってるの……? 煉さん」

「もちろん知ってるよ。僕、乃愛の元カレだもん」


 ジュースがゴキュッと一気に流れ込み、むせ返ったら鼻から果汁が出た。





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