昔の話
ずっと、昔の話をしようか。
あの時の私の主は、人間の男だった。男の名前は忘れてしまったよ。今の私には憶えておく必要のない事だしね。
その男はとても優しくて、そしてとても、酷い男だった。
その頃の私は、男に酷い事をされても、それを『酷い事』と認識する事はできなかった。
……『人形』というモノはね、『マスター』という存在が己の世界の全てなんだよ。
だから、私もその男の行動が全て正しい事だと思い込んでいたんだ。
――あの人に、出会うまで。
あの頃の私は、体中が傷だらけだった。マスターである男に毎日暴力を振るわれていたんだ。人形である私に、マスターに逆らうだなんて考えは浮かばなかった。
暴力を振るった後の男は優しかった。ごめんね、と謝りながら、私に優しく口付けを落とした。愛しているよ、と囁いた。私はそれが、とても嬉しかったんだ。
男には、傷を隠すように言われていた。額にできた傷を長い前髪で、腕にできた傷を長袖のメイド服で、足にできた傷をタイツで隠した。
私は、ボロボロだった。だけど、とても幸せだった。……今では、そうは思わないけれどね。
あの人――ハイネさんに出会ったのは、季節が冬から春になろうとしていた頃だった。
男と私が暮らしていた屋敷は、町の外れにあった。屋敷も古臭く、周りに広がる平野も枯れ果てていて、とても寂しい場所だった。
荒れ果てた平野を、屋敷内から眺めていたら、後ろから声を掛けられた。
「こんにちは、お人形さん。何を見ていたの?」
私は驚いた。男は『友人』と称して、毎日違う女性を屋敷に連れ込んでいた。だけど、今までの『友人』は私に見向きもしなかったのに、初めて声を掛けられたから。
「外を……、見ていました。あの荒れた平野にも春になったら綺麗な花が咲くといいなあ……と」
「そう。荒れたままじゃ嫌よね。お花、好きなの?」
「……ええ、好きですよ」
「そっかあ。ならお花が咲くようになったらいいね、……ええと、お名前聞いていい?」
「……彩都、です」
「彩都ちゃん、ね。綺麗な名前ね。私は、ハイネ。ハイネ・ブリオニアよ。よろしくね、彩都ちゃん!」
私は嬉しかった。初めての友人が出来たようで。心に暖かな光が射したようだったよ。
「あ……。どうして私が人形だって分かったんですか?」
「え? えへへ。私は『ブリオニア』って名乗ったでしょ? 花の名前の姓は、この国の地下にある、機械と人形の街のものなの。義父がそこの出身の人形で、私はよくお人形さん達と関わっていたから。だから、あなたもお人形さんだ、って分かったの」
「地下に街が、あるんですか?」
「知らなかった?」
「……はい。マスターは『外には出るな』と仰るので……。外の話も、本以外では見聞きしないので……」
「それはもったいないわ! 外の世界はとっても綺麗なのよ! いつか、私が外に連れてってあげる! 約束!」
そう言って、ハイネさんは私の右手の小指に小指を絡めた。『指切り』っていうのよ、と彼女は悪戯っぽく笑った。
ハイネさんは、屋敷に来る度に、私に構ってくれた。男はそれに良い顔をしなかったけど、私は嬉しかった。
ハイネさんが聞かせてくれた、屋敷の外の話はどれも新鮮で、屋敷にあったどんな本よりも楽しかった。
彼女に会う度に、私は外の世界に出てみたい、という気持ちが強くなっていった。
そんなある日、ハイネさんは、男に内緒でこっそりと屋敷にやってきた。
「彩都ちゃんに、会いに来たの」
彼女は悪戯っ子のような顔をして、私に耳打ちをした。
「約束、したでしょ? ――彩都ちゃんに、外の世界を見てもらいたいの」
そう言って、彼女は私の手を引いた。初めて、私が屋敷の外の地を踏みしめた日だった。
――初めての世界は、とても、とても色鮮やかだった。
男に屋敷の外に出た事がばれるんじゃないか、という心配はすぐにどこかに飛んでいったくらいだよ。
だから、……油断していた。
不意に吹いた風に、私の長い前髪が揺れた。慌てて押さえても、遅かった。額の傷を、ハイネさんに見られてしまった。
ハイネさんは、その傷を見咎めた。彼女の物凄い剣幕に気圧された私は、男に付けられたものだと白状した。
すると、ハイネさんは暫し黙りこくった。ほんの数秒がとても、長く感じたよ。
私とハイネさんの間に流れた沈黙は、彼女が破った。「わかったわ」そう一言だけ呟いて、彼女は悲しげに微笑んだ。
「帰りましょう、彩都ちゃん。あなたのマスターさんにばれちゃう前に」
帰り道は、何事もなかったかのように彼女は他愛のない話をしていた。
彼女の知識や話題は豊富で、聞いていて飽きる事なんてなかった。先程の事など、私はすっかり忘れてしまうほど、お喋りに夢中になっていた。
私達が屋敷に帰ってきてすぐ、男も帰ってきた。また、知らない女性を傍らに連れて。
なんで君がここにいるんだ、と言った男の声には答えず、ハイネさんは私に、手を振った。
「ばいばい、彩都ちゃん。またね」
それから、彼女はしばらく屋敷には訪れなかった。
一月程経った頃、満月の夜に、彼女はひょっこりと屋敷にやって来た。
「とっても美味しいアップルパイを、あなたのマスターのために、……持ってきたわ」
お茶を出そうと、慌ててキッチンへ向かおうとした私を、ハイネさんは制した。
「いいの、すぐ終わるから」
「何が……ですか……?」
「――秘密」
悲しげな笑顔を私に向けてから、ハイネさんはキッチンの方へ消えていった。
私は、その背中を追えなかった。何故だか分からないけれど。
三十分程経った時、廊下の掃除をしていた私の元に、ハイネさんは慌しくやって来たかと思うと、私の手を取り走り出した。
「私と、いきましょう、彩都ちゃん!」
何も分からず、ただ手を引かれるままに、私はハイネさんと共に走った。
屋敷の敷地内から私達が出た瞬間、背後の屋敷から、ごう、と大きな音がした。
「振り向かないで! 走って、彩都ちゃん!」
言われるままに私は走った。荒れた平野へと着いた時、ハイネさんの足が止まった。それに合わせて、私も止まる。
屋敷の方へ振り向くと、ごうごうとうなる炎に、屋敷はみるみると焼きつくされていった。
その光景を呆然と眺めていた私を抱きしめて、ハイネさんは私に言い聞かせる。
「忘れるのよ、彩都ちゃん。あなたのマスターの事を。あの男が魔女様のアップルパイを食べた事も、魔女様が屋敷に火を放ったことも、ここに屋敷があったことも、全て!」
それは私に、というよりハイネさん自身に言い聞かせているようだった。
揺れる炎は古ぼけた屋敷を呑み込み、灰へと変えていった。屋敷を全て焼き尽くした後、炎はまるで幻であったかのように、ふわりと消えた。
あとに残った灰が、突風に吹かれて空へと舞い上がった。満月の光を受けて、きらきらと輝きながら、平野に灰が降る。
「まるで、名残雪のようじゃないか。お前さん達も、そう思わないかい?」
少女のようでいて、大人びている不思議な声が、不意に私の傍で聞こえた。いつの間に居たのだろう。雪のように真っ白な長髪の女性が、柔らかく微笑んでいた。
――まるで、天使のようだ。その女性を一目見たとき、私はそう思ったよ。
「ああ、そう驚かないどくれよ、可愛い人形さんや。アタシはネイヴェ。魔女だよ」
突然の事で、呆然としていた私の頬を、ネイヴェさんはするりと撫でた。
「魔女様……、有難う、御座いました……」
ハイネさんは、泣いていた。
ネイヴェさんは、可笑しそうに笑って、ハイネさんの頬に伝う涙をそっと拭う。
「まだ、お礼は早いよ。ハイネや。アタシゃまだ仕事を終えてないからね」
「え……?」
そう言って、ネイヴェさんは杖を振るう。瞬間、灰が降りた地面から、植物の芽が次々と出始めた。芽はみるみると育ち、荒れ果てていた平野は、瞬く間に綺麗な花畑になった。
「魔女、様……」
「だから、まだアタシの仕事は終わってないと言っただろう? 急ぐんじゃないよ。……次はお前さんを治してやらないとね」
そう言ってネイヴェさんは、私に杖を向ける。すると、暖かな光が私を優しく包んだ。
「これで、体の傷は治ったはずさ。それと」
ネイヴェさんは、つい、と再び杖を花畑の方へと向ける。杖の示すその先には、一つの道があった。
「この道を、進みな。そうしたら、邸が見えてくるはずさ。――その邸はお前さん達への、アタシからの贈り物だ。二人で一緒に住むといい」
「魔女様……、本当に、有難う御座います……」
「構わないよ。……それに見合う対価は、きっちり頂いたからね」
ネイヴェさんは現れた時と同じように、いつの間にか姿を消した。
そうして、私とハイネさんはこのブリオニア邸で暮らしはじめた。
ハイネさんが居なくなってしまうまでの間、私とハイネさんは二人で幸せに暮らしていたよ。
この邸での暮らしでは色々な事があったけど――、それはまた、別の話かな。
ここまで、私の話に付き合ってくれて、有難う。また、遊びに来てくれたら嬉しいな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます