甘い匂い
架月 夜
前編
呻き声が血なまぐさい風に乗って聞こえてくる。俺は雨に濡れた地面の上でかがみこみ切れた靴紐を直した。血と泥にまみれた紐はもとの白い色などとうに分からなくなっている。それはブーツも同じで、さらに袖を通している軍服も酷いありさまだ。大粒の雨が背中を叩いているが、それではとても洗い流すことはできないだろう。血の汚れはしつこい。幸いながらほとんどの血は自分のものではない。あの酷い混戦状態のさなかにあって、怪我らしいものはわずかに右肩が裂けた程度とは、我ながら大したものだと思う。
身を起こし、額に鬱陶しく貼りついてくる濡れた前髪をかきあげる。呻き声の発生源、負傷者を治療するための仮設テントが目の前にあった。テントの中に入りきらない怪我人が何人も泥の中で雨に打たれている。白衣を着た女性たちが走り回る。俺は少しだけ中を覗いていこうと思っていたのだが、ただ見物するだけで手伝わないのでは忙しい彼女たちの邪魔をするだけだと思い直しやめにした。あの中に俺の部下がいようがいまいが、被害が甚大であることに変わりはない。戦場に置き去りにしてきた者もいれば、あのテントの中で冷たくなっている者もいるだろう。もう二度と歩けない者、戦えない者もいるかもしれない。その一方で、生き残っている者も確かにいるのだ。俺はその生き残りをこれ以上減らさないようにするのが仕事だ。死者、死んでいこうとしている奴に対して俺ができることなどない。
俺は仮設テントに背を向けた。自室のある営舎の方へ歩き出すと、のろのろ動いている兵隊たちの間をすり抜けて小柄な少年がこちらへ走ってくるのが見える。癖のついた金髪、細い手足はやはり泥で汚れていた。
「ご主人!」
少年は俺の目の前まで来ると、緑色の澄んだ大きな目で見上げてくる。軽く手を挙げて返事の代わりにし構わずに歩き続ける。少年はすぐ後ろにぴたりとついてきた。
少年の名はレッフェ。まだ十二歳の子供で、孤児だ。俺はこの子の両親とは知り合いで、彼らが戦死した時にその遺言に従ってこの子を引き取ることになった。もちろん戦場になど連れてはいけないので、営舎で留守番させている。だが、今はレッフェを自室へ入れるわけにはいかなかった。
「レッフェ」
「はい!」
「汚れているが、何をしていたんだ?」
「武器庫で片付けのお手伝いをしていました! ご主人が帰ったと聞いて走ってきたんです」
レッフェの顔を見れば、活き活きと輝いている。この子は俺を慕っているのだ。それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。
「そうか、悪いが、今日は私の方はいい。戻って手伝いを続けてくれ」
「えっ? はあ、わかりました」
レッフェは面食らった顔をする。よく動いてくれるこの少年を邪険に扱った覚えはなく、いつも傍に置いているように思う。故にこうして追い払われることが意外だったのだろう。
「ご主人、おけがはありませんか?」
「ないよ。どうした?」
俺は足を止める。レッフェも不安そうな表情になって立ち止り、そっと俺の軍服の右袖を掴んだ。
「武器庫で、兵士さんに聞いたんです。明日で戦争は終わりだって……すごく大きな大砲が、全部こわして終わりにするって」
大きな大砲というのは、軍の研究機関が最近完成させた新型の兵器のことだ。レッフェは「全部壊す」と言ったが、話によればそれは大爆発を引き起こしたり火炎を吹いたりするようなものではないという。本部の中心に組み上げられた高台の上に設置されたその兵器は、遠目に見ると確かに大砲らしい形をしている。だが重要なのはむしろ発射される弾の方だ。できるだけ空気の抵抗を受けないように改良されたその砲弾はこれまでに作られたどんな兵器のものよりも遠くへと飛んでいく。大砲から発射されてまっすぐ戦場の上空まで飛ぶと、自動的にスイッチが入り、ある物質を空から散布する。その物質は空気中の成分を猛毒に変えるのだ。つまり新型の兵器は、戦場に猛毒の雨を降らせることができる。いや、ことによると霧かもしれないが。俺も自分で説明しておきながらよく分かっていない。これは全て開発に関っていた知人から聞いたことだ。
そもそも研究機関に関りを持たない者は兵器についてほとんど何も知らされていないのだ。分かっているのは、かなりの破壊力を持った兵器が開発されたこと。それが明日いよいよ使用されること。そしてうまくいけば、この追いつめられた状況を逆転させわが軍を勝利に導くことができるだろうということ。
「そうだな、だが成功すると決まったわけじゃない」
「失敗したらどうなるんですか?」
「――」
レッフェの真剣な顔を見ながら俺はしばし迷う。
「その時は、負けだな。どこか遠くへ逃げるしかない」
「ぼくは、ご主人を待ちます」
少年がきっぱりと首を横に振った。
「他の人がみんな逃げてしまっても、ぼくはご主人が帰ってくるまでずっと待ってます。だからちゃんと帰ってきてください。大砲にやられたりしちゃ、絶対にダメですよ!」
ふっと心からの笑みが漏れる。本当に可愛い子だ。金髪の頭をくしゃりと乱暴に撫でると、不安に揺れる瞳が反射的に閉じられて綺麗な緑色が見えなくなった。
「心配しなくとも、私はそんな間抜けではないよ。ちゃんと帰ってくるから安心しなさい」
レッフェはまた目を開いて俺を見上げる。微笑みを浮かべたままで頷いてみせると、その幼い表情がふわっと明るくなった。
元気に走り出したレッフェの後ろ姿を見送りながら、俺はため息をついた。まったく、いろいろと頭が痛い。
† † †
営舎へ向かい、自分の個室のドアを開ける。ここの営舎は基本的に二人部屋だが、俺やその他数人は一部屋を一人で使っている。最初こそ人数が多くぎゅうぎゅう詰めという感じだったが、戦争が長引くにつれて戦死者の数も増えそれほど場所に困らなくなったのだ。
窓もなく真っ暗に近い部屋の中には、簡易なベッドが置かれている。片方のベッドの上には少しの私物が散らかしてある。
「ラデリー、私だ」
汚れた軍服に手をかけて俺はささやくような小さい声でそう言った。すると人気がなくしんとしていた室内の空気がわずかに動き、ベッドの向こうから白い人影が現れる。暗くてよく見えないが、人影はこちらを見ながら黙ってあいている方のベッドに腰掛けた。俺はひとまず上着だけを脱ぎ散らかったベッドの上に投げると、天井から吊り下げたランプに火を入れる。
「……ひどいものね」
背後から話しかけられて俺は振り向いた。白衣を着た女が俺を強い目で見据えている。栗色の豊かな髪は腰まで届き、前髪は肩につくくらいの長さでそれをピンで留めている。彼女は意志の強さを表しているような深いブルーの瞳を神経質そうに細めた。俺は何も言わずに視線を下ろしていく。ところどころに染みがつき、ポケットがやけに膨らんでいる白衣の下にはまるで喪服のように真っ黒でなんの装飾もない服を着ている。
彼女の名はラデリット・スキャニといい、俺の幼馴染だ。軍の研究機関に所属しており、例の兵器の開発に関っている。一般の兵士が知らない兵器についての情報を俺に教えたのはこいつだ。ただ、関って「いた」とする方が正しい。彼女は脱走兵だ。研究機関の人間が兵士の範疇に入るのかどうかは知らないが、とにかく彼女は研究所を抜け出してここにいる。脱走兵が営舎の中に隠れているとはおかしな話である。もっとも、戦乱の中で俺と彼女の故郷は既に失われてしまい、彼女には他に行くあてなどないだろう。
「おまえ、どうするつもりなんだ」
「何よ」
彼女の眉間にしわが寄る。俺はため息をついて彼女の向かいのベッドに腰掛けた。
「脱走したって行くところなんかないんだろう。どうやって生きていくつもりだ」
「じゃあ何、研究所に戻れって言うの?」
「他に何か方法があるというのなら、好きにしろと言うがな」
「私は人殺しなんかしたくないのよ」
彼女は顔をそむけ、吐き捨てるようにそう言った。
「今更だな。兵器のお披露目は明日だろう? 開発中ならともかく、今となってはおまえが逃げようが逃げまいが結果は変わらない」
「おなかがすいたわ」
俺の言葉はもちろん聞こえているだろうが、ラデリーは一字一句はっきりと発音して俺の声にかぶせた。目を合わせない彼女に苛立ちを感じ俺は黙って口を閉じた。
「聞いてる?」
「……こっちの台詞だ」
不満そうな彼女の様子に思わず頭を抱える。昔からこいつが俺の言うことを素直に聞いたためしはなかった。若くしてエリート研究員の道を進んだこいつにとって、学問の苦手な俺は力ばかりの馬鹿に見えていた、いや見えているということか。
「もう一度聞くぞ、どうするんだ。どうしても戻れないというなら、手を貸してもいい」
「まさか。あんたに迷惑はかけないわよ」
「既にかかっているんだが?」
「そうじゃなくて……」
彼女は腕を組み、子供を見るような目で俺を見た。
「まあいいわ。それより何か食べるものちょうだい」
俺は諦めて立ち上がる。待ってろ、と目線で示して部屋を出ようとしたとき彼女が小さい声で呟くのが聞こえた。
「私はこの戦争を終わらせたいのよ」
振り向いてみれば彼女は俺の方を見ていた。その瞳のブルーの奥に怪しい光が見えたような気がして俺は思わず目をそらす。
「あんた、明日は前線に出ない方がいいわよ」
もう話をしていたくはなかった。俺は部屋のドアを静かに閉めた。
食事を持って帰ってきたとき、ラデリーの姿は部屋から消えていた。
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