北太平洋(North Pacific) 2:終

 儀堂の呼びかけに、ネシスはしばらく答えなかった。やはり、またぞろ居眠りかと思う。


「おい、ネシ……」

『起きておる』


 気のせいだろうか。鼻の詰まったような声だった。


「……風邪でも引いたのかい? 声が変だぞ」

『引いておらん。それより何の用じゃ?』


 不機嫌そうだったが、無用な追求は避けることにした。何よりも今は時間が無い。


「魔獣だ。タイプはクラァケン。味方の船に張り付かれた。引きはがせるか?」

『たやすいぞ。妾の歌を届かせる準備をするがよい』

「わかった」


 儀堂は通話先を水測室へ切り替えた。


「水測長、周辺に敵獣の反応はあるか?」

『味方に張り付いた一体のみです。それ以外は認められません』

「宜しい。水中拡声機を用意」

『宜候。子守歌ローレライですね』

 水測長の兵曹が揶揄するように応えた。

「そうだよ。暫く耳当てレシーバーを取り外すよう、他の兵員にも徹底させてくれ。何しろ、これから本番なのだ。君らまで、睡魔に囚われては困る」

『承知しました。おい、お姫様の子守歌だ。すぐに放送の用意にかかれ』


 <宵月>の船底で変化が生じた。船体中央部、喫水線下に隠された堰水扉シャッターが解放される。それは左右対称になるよう二カ所に取り付けられていた。先月の改装時に<宵月>へ追加された装備だった。それはネシスのある能力を増大させる効果があった。


 儀堂はさらに<宵月>を増速させると、クラァケンに取りつかれた油槽船の真横につけ、同航状態に持ち込んだ。喫水線上にクラァケンの触手がはみ出ている。極めて遺憾に思う。一刻も早く処分せねばと思う。


「副長、付近の艦艇に通達しろ。これよりローレライを行う」

「承知しました」

 <宵月>の通達を受け、半径10キロ圏内の艦艇、その水測員が一斉に耳当てを外した。巻き添えを食らわないためだった。

「左舷、水中拡声機作動。ネシス、頼む」

『よかろう……』


 耳当てレシーバー越しに「スゥ」と息を飲む音が聞こえた。儀堂も耳当てレシーバーを右耳から外した。直後、水面を揺らす歌声が<宵月>の左舷より放たれる。水中を伝い、音波の網が張り巡らされる。それは油槽船を捕らえたクラァケンの身を包み込み、本能を狂わせた。クラァケンの全身が弛緩していく。数秒経たずして文字通り骨抜きにされた状態になってしまった。


 水面から這い出ていた触手が急速に力を失っていくのが見えた。油槽船を羽交い締めにしていた触手どもは、糸が切れたように次々と水中へ姿を消していった。


 やがて、油槽船からクラァケンが船体より離れたと通信が入った。どうやら依然としてクラァケンに体当たりされた破孔より、浸水しているが航行可能なようだった。


「すぐに、この海域から離れてください。またすぐにヤツは襲ってきます」

 儀堂は油槽船へ無線で命じた。相手は彼より遙か年上の船長だった。

『わかっとる。ただ、今動くとかえって浸水が広がるんだ。少し待ってくれ』


 相手はどうやら元軍人のようだった。声の態度、冷静さと状況判断の的確さから判断した。確かに、まともに応急措置を行わずに航行した場合、返って浸水の被害を酷くすることになる。


「申し訳ないのですが、時間がありません。ほんの200メートルばかり進んでいただけませんか。さもなければ、ヤツを取り逃してしまう。あなた以外の船が被害に遭うかもしれない」

 儀堂は既に散布爆雷の照準を油槽船が漂う海域へ合わせていた。

『……ああ、認めよう。軍人さん、あんたの言うとこは正しいよ。ただ、もしものときはケツをもってくれ』

「ええ、もちろんです。我々はそのためにいるのです」


 油槽船はよろよろと退避を始めた。完全に攻撃圏外から外れたのを認めたところで、儀堂は散布爆雷の投射を命じた。24個の小型爆雷がクラァケンの潜伏海域へばらまかれた。


 数十秒後に水柱が数本立ち上がり、バラバラになった肉片が浮き上がってきた。歓声を上げる間もなく、再び儀堂は喉頭式マイクのスイッチを入れた。


「ネシス、もういいぞ。ヤツは眠った」


 念のため数秒の間をおいてから、右耳に耳当てを装着する。以前うっかり彼女が歌い終える前に装着してしまい、その場で昏倒したことがあったのだ。


 ネシスの使った魔導は、睡眠効果ヒュプノスを及ぼすものだった。まさに神話に伝わるローレライに似たようなもので、聞いたものの意識を奪い、昏倒させてしまう。それは有機生命体ならば、人魔問わず効果のある業だった。水中拡声器で増幅させることで、大型の魔獣すら昏倒させることが可能となる。敵味方無差別に影響を及ぼしてしまうのが唯一の弱点だった。


「ネシス、どうかしたか?」

『別に……どうもせん』


 やはり、声にいつもの覇気が感じられなかった。儀堂はあえて問いただすべきか考えたが、敵獣は彼に迷う隙すら与えてくれなかった。


「外周哨戒艦より警報。敵獣3体が警戒線を突破。こちらへ向ってきます」


 興津が高声電話を握りしめて言った。


「水測室へ、聴音を再開させろ。一匹残らず、例外なく駆除する」


 <宵月>が駆除を完了させたのは、それから3時間後のことだった。彼女宵月と第三航空艦隊は30体分の肉片を太平洋の海洋生物へ提供した。


◇========◇

ここまで読んでいただき、有り難うございます。

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今後も宜しくお願い致します。

弐進座

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