第5話 一度も彼の名を呼んでいない
フランシスとマリーが再会してから一年経ち、正式にマリーは愛人としてフランシスに輿入れすることになった。一年の時を待ったのはマリーが娼館にいたため、汚れを落とすためだといった。カロリーヌが妊娠する様子もないことからフランシスに愛人を求める声は元々多かったのだ。迎えられた愛人がマリーであることは国民には伏せられ、 ニネット・ヴォールファートとマリーは名を改めた。リュックの手腕に宰相であるヴィカンデル侯爵ですらニネットを愛人として認めざるを得なかったのだ。
「何度謝ってもマリー……いや、ニネットにはすまないことをした」
「うふふふ……若気の至りですわ。こうして陛下と共に過ごせる時間が何よりも嬉しいですわ」
フランシスから別れを告げられた理由が、浮気を疑われたせいだと知ったのは再会してからだった。父ヴレットブラード男爵の罪ではないとわかっても後の祭りだと傷ついたニネットの心は冷え切っていた。こうしてフランシスの愛人となったことも、娼館にいることと何も変わらないと感じているのだ。その証拠にニネットはフランシスと再会してから一度も彼の名を呼んでいない。
そのことにフランシスは気が付いていたが、長い間離れていたせいと、分別のつく大人になった為と、相も変わらず都合良く考えていた。
「カロリーヌ王妃様。ご機嫌麗しゅうございます」
目ざとくカロリーヌの姿を見つけたニネットは当てつけるかのように頭を下げる。隣にフランシスが居るからこそ出来るのだ。
笑顔で挨拶を返すカロリーヌの心中は穏やかではない。彼の隣を許されているのはカロリーヌだけという自負があり、彼女をはめたのはカロリーヌだと、いつフランシスに告げ口をされるのかと怯えているせいもある。だが、それは杞憂にすぎなかった。ニネットはフランシスになにも話さなかったのだ。彼女がなにを思って話さないでいるのか、皆目検討もつかないカロリーヌは生きた心地がしない。隙あらばと狙っていても、いつどんな時でもフランシスがニネットの側に居るせいでこの一年カロリーヌはニネットに手を出せなかった。
リュックが補佐に居たといってもその間の仕事は全て王妃のカロリーヌに任されていた。二人の邪魔をする間も、夫婦の時間もなかったのだ。勿論子供なんか望めるわけもないほど、フランシスとカロリーヌの間は破綻していた。
ニネットが愛人になってしばらくすると妊娠した。フランシスの喜びようは凄まじく、カロリーヌは悔しさに鬼ような形相を隠せなかった。
「カロリーヌ王妃様。折角の麗しいお顔が台無しになってしまいますわ。お忙しいとは聞いていますが、御自愛下さいませ」
妊娠によりふっくらとした様子のニネットは幸せを体現しているように見え、その姿はカロリーヌの神経を逆なでする。隣に寄り添うフランシスにはカロリーヌの想いなど考えもしないのだろうと、その満ち足りた表情に苛立った。
「……ご心配ありがとうございます。ニネット様もお体大切になさって下さいな」
「はい。元気な御子を産むことが私の役目ですもの。例え毒を盛られても元気な御子を産んで見せますわ」
カロリーヌのニネットに対する感情が城の外に出ることのないよう細心の注意が払われた。優しい国王と美しく聡明な王妃と民の間では人気のある二人だ。王妃の醜い感情でその人気を陰らす必要などないのだ。表向きカロリーヌはニネットの懐妊を喜んでいるとされ、彼女の脅威がニネットに向かわないようにと念には念を入れられた。実際、ニネットの食事の毒味を勝手出ていたのはフランシスだ。初めての子にフランシスが舞い上がっていたせいもある。
「ああ、ニネット。この子はきっとニネットそっくりに愛らしい顔をしているのだろうな」
相互を崩した顔でニネットの肩を寄せ、その膨らんだ腹をさすっているフランシスにニネットは微笑みかける。
「私はこの子を陛下のように愛せるのでしょうか?」
その微笑みの下にある感情を彼に知らしめるにはどうしたものかと考える日が増えていた。
ずっと待っていた愛おしいはずの人が迎えに来てくれた。黒い感情を抑えなければと、娼館から連れ出された日は考えていた。それから過ぎて行く日々の中で、変容した感情は腐敗したかのように混濁していく。喜びであるはずの妊娠は体を掻きむしる程の吐き気となって体を巡り、吐き出せない感情は澱のように沈んでいく。
――いつまで経っても腹の子を愛おしいと思えなかった。
ニネットが産気づいたのは満月の晩だった。今か今かと落ち着きのないフランシスを宥めているのはカロリーヌだ。愛人の子が産まれる時は王と王妃は一緒にいることが定められているため、二人は同じ部屋で時を過ごしていた。二人が長く共に過ごすのはニネットが城に来て以来だ。式典などで仲の良い夫婦を演じることはあっても、こうして顔を突き合わせることは殆どなかった。
「フランシス、いくら貴方が歩き回ったところですぐに産まれるものではありませんわ」
「わかってはいるが、落ち着かないのだ。なんでもいい。出来る事はないだろうか?」
「ではまず、腰を落ち着け下さいな」
フランシスはカロリーヌの言う通り近くの椅子に腰を下ろす。
「カロリーヌ、すまなかった……」
唐突に謝るフランシスにカロリーヌは意表を突かれる。
「カロリーヌは出来損ないの余にこれでもかというほど尽してくれたというのに、余はマリーを忘れられなかった」
何を語るのかと、カロリーヌは耳を傾ける。先に言葉を続けさせてはいけないと警鐘が鳴り響く。
「子供が産まれたら、もう『傀儡の王』では駄目だと思うんだ。だから」
「貴方は『傀儡の王』などではありませんわ! だって……」
フランシスは今まで見たことがないと断言出来るほど、気概に満ちていた。父になるということは男をここまで変えるのかと驚くばかりだ。
「カロリーヌには新しい幸せを……」
「フランシスの側を離れて幸せになんてなれませんわ!」
コレまでの事を精算しようとするフランシスにカロリーヌは縋り付くしか出来なかった。聡明と名高い彼女にとってフランシスは唯一無二の存在だ。それは幼い頃よりかわらない。マリー・ヴレットブラードがフランシスの前に現われる前よりもずっと前から慕ってきた。破綻していようとも、夫婦であり続けたいのだ。
「陛下! 王子がお産まれになりました。おめでとうございます!」
今ここで別れ話がなされているなど露ほども知らず、飛び込んできた吉報にフランシスは部屋を飛び出していく。今すぐに自身の子を抱くのだと、今すぐにニネットにねぎらいの言葉を掛けたいのだ。取り縋るカロリーヌの事などもう既に蚊帳の外へ追いやられていた。
「ニネット!」
引き止める者を振り解き、ニネットのいる部屋の扉を開け放つ。いつもは誰かが扉を開けるまで待つのだが、喜びを早く伝えたいフランシスは自ら押し開けた。
目の前に疲れた顔をして幸せそうに微笑むニネットがいると信じて疑うことのなかったフランシスだが、今目の前で繰り広げられている光景に時が止まったように感じる。
「陛下によく似た黒い瞳の可愛らしい王子です」
産婆が清められたばかりの王子をフランシスの前に連れてくるも、その声も姿も目に入っていない。
御殿医達の怒号と力無く横たわるニネットの姿に心ここにあらずといった様子だ。
「フランシス……これは……?」
追いかけてきたカロリーヌもニネットの蘇生術を施されている状況に息を呑む。腰が抜け座り込むフランシスを労るように支える。
別れ話を切り出したというのに優しく労る彼女にフランシスは頭が上がらない。いつだったか、マリーに別れを告げた時と同じ匂いが鼻につく。
二人の様子を見ていた者達は、愛しい人の危機に項垂れる王を支える王妃の姿を聖女のようだと感じ、その口元がにやけているなど誰も思いもせず、気が付くことはなかった。
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