第2話 皇太子フランシスと宰相の娘カロリーヌの結婚
「さぁ、今宵は皆の門出を祝う時。酒を持て。踊り明かすがよい」
宰相ヴィカンデル侯爵の言葉に楽器を奏でることを忘れていた楽師達が音をつまびき始め、静かだった会場がにわかに色めき出す。
遠目からフランシスに向けられる好奇の目から隠すようにカロリーヌは彼を別室へ促す。心あらずといった様子のフランシスの足取りは重く、今にも倒れてしまいそうだ。
「マリーが……うぅぅっ、信じられない」
自ら彼女に別れを告げたというのにフランシスの心の中はマリーで占められている。なにを置いても彼女を一番に思ってきた彼にとって、マリーの居ないこれからの生活が想像出来ないのだ。今までの二人で過ごしてきた、たわいの無い日々が思い出されるばかりだった。
情けなく女の名を口に涙するフランシスの背をカロリーヌは優しく撫でていた。皇太子を警護する騎士から見たその姿は慈愛に満ち、本当にフランシスを心配しているように見えた。
彼を傷つけ泣かせているのが彼女だとは誰も思いもしないだろう。
フランシスだって彼女の言葉を信じ切っているのだ。だからこそ、愛しいマリーに衆人観衆の前で別れを告げるような事が出来てしまうのだ。
「本当に、マリーは……」
「はい……父から聞きましたの。皇太子の婚約者を男爵令嬢から選出した事が間違いだったと、後悔しておりますわ」
カロリーヌの言葉にフランシスは顔を埋める。これから国を背負って行く男が女々しく泣くものではないと思っても、涙が溢れて仕方がない。
「フランシス殿下が傷つかれる前に彼女をどうにか出来なかったのかと……」
むせび泣くフランシスの頭をカロリーヌは抱きしめる。母のように、恋人のように彼の頭を愛おしげに抱く彼女にフランシスは暖かいものを感じていた。
――それから間もなく皇太子フランシスと宰相の娘カロリーヌの結婚が報じられた。
マリーが恋人の結婚を聞いたのは、薄い壁に大きなシミのある部屋でだ。
彼女の滑からだった亜麻色の髪は全て刈られ、下着姿となんら変わらない薄っぺらなドレスを着せられた変わり果てた姿に、巷を賑わせた噂の姫君だとは誰も思いもしないだろう。
父親の横領したという金額に目を丸くするだけでは許されなかったのだ。
「せめて、父と話をさせて下さい!」
愛おしいフランシスと引き裂かれる程の罪を父が犯したとは信じられなかった。娘に対して小さな嘘を付くだけでも額に汗を浮かべるような人が大それた事を出来るとは思えず、ちぐはぐとしたものを感じていた。
「ヴレットブラード男爵でしたら既に処刑されております」
役人の声が耳を素通りしていく。
あり得ない。あるはずがない。父の罪を聞いて一刻も経っていない。なんの調べもなく、処刑されるものだったのだろうか。だから、横領した罪人の娘に対して荒縄で動きを封じるような真似が許されているかと、目の前に置かれた父ヴレットブラード男爵の首に疑問ばかりが浮かぶ。そこに悲しむ間などなかった 。
「……母は? ……お母様はどう、されていますの?」
絞り出した声は小さく、役人は聞き返す。聞き返されたところでそれ以上声は大きくならない。擦れた声に聞き取りづらくなるばかりだ。
「男爵夫人は自害された。それで……」
焦点の合わない目を役人に向けたままマリーは聞いていた。
男爵家は取り潰され、父の横領した金の全額返済。一人娘だったマリーに、身寄りのなくなった娘に返せるあてなど当然ない。頼みの綱のフランシスには会えそうもなかった。罪人の娘となったマリーに皇太子を面会させるはずもなく、衆人の前で別れを告げられたばかりなのだ。
「……私も、処刑されるのですね?」
今のマリーにとって死は希望のように思えた。
「貴女は仮にも皇太子殿下の婚約者であった人ですよ。軽々しく処刑できません」
忌々しそうに話す高位貴族の男に表情の消えた顔を向ける。
「貴女はまず、ヴレットブラード男爵の罪を全て償わなければなりません。それから、これ以上皇太子殿下に近づくことのないように……」
先に続く言葉にマリーは抵抗する。当たり前だ。父親の罪といっても覚えがない罪を被らされるだけでなく、悪所へ落とされるというのだ。
皇太子の婚約者だったからではない。
貴族の娘だからではない。
誰も望んでいくような場所ではない。
嫌がり、抵抗の激しいマリーを兵士らは押さえつける。
「これは、誰がどう見たって冤罪です!」
「私は、皇太子フランシス殿下の婚約者ですわ!」
「どうか、お慈悲を……いや……止め、いやぁぁぁぁ!」
マリーの豊かな亜麻色の髪は全て刈られ、頭皮に烙印を押される。それは罪人であるという証だ。
「……お願い、殺して」
祈りに似た想いも踏みにじられる。
「貴女が生かされることが最大の慈悲なのですよ」
そこにいた誰が言ったのかわからない言葉が頭の奥にこびり付いて離れなかった。
マリーが送られたのは貧民街の安い娼館だった。
とうに希望などなくなっていたが、ここまで酷い待遇なのかと息を吐く。末席とはいえ貴族の令嬢が落ちぶれるには相応しくない場所だ。ここがどういう場所であるのか、初心な生娘でも一晩過ごせば理解する。マリーが皇太子の元婚約者であったにしても、下働きで済むはずがない。横領した金を返すためと大義名分を付けられ、到着したその日の夜には客を取らされた。
少しでも抵抗を見せようものなら容赦なく暴力が飛び交う場所だ。目の前で娼婦が殴り殺される姿を何度も目にした。幾度となくフランシスへの恨み言は浮かんでは消える。
どうして信じてくれなかったの……
私がなにをしたの……
私ではなく彼女の言葉を聞くのは何故……
愛していると言っていたのは……
浮かんでは消えていく恨み言の最後に必ず
――それでも私は貴方が愛おしくてたまらない
と、言葉がついて回った。恨みきれずにフランシスへの想いが募っていく。いつかフランシスが迎えに来てくれると、信じるしか生きる気力が沸かなかった。無理矢理にでも希望を見出さなくては狂ってしまいそうなくらい過酷な環境にいたのだ。
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