~奇跡のターフ~ 3

 真樹は実に、人から話を聞き出す能力に長けている。それは話術などというテクニックとは違い、人に『話をしたい』と思わせる、安心感のようなものがあった。山城もこれまで自分の生い立ちなど、牧村ら親しい友人たちにしか話してこなかった。まあ、親しい友人そのものが少ないこともあったのだが、この日初めて会った人物にここまで打ち明けていることに自身でも正直不思議だった。

「それは何故なんです?」

「ソウタに乗れなかった理由ですか?ええ、ソウタも亡くなってしまったんです」

 「なるほど」と真樹は目を閉じて深く頷く。

「ソウタはね、私が騎手学校を卒業したときにすでにデビューしていました。私の見立てはやはり正しかった。初出走から三連勝と破竹の勢いで勝ち進んでいきました。ですが、日本ダービーのトライアルである弥生賞への出走前でした。ソウタもね、足を骨折したんですよ。

牧場へ放牧中に柵に足をぶつけてね。予後不良で安楽死処分となりました。私の周りの大切な存在は次々と死んでいきました。母親、ソウタ、そして五年前に父も交通事故で突然、亡くなりました。同じ騎手仲間の親友も病気で他界しました。私が生きているだけで、周囲に居る者が不幸になるのではと、今でも思っています」

「なるほど。ただ貴方がこれまで騎手として成績を残せなかったのは、それが理由なのですか?」

 この男は鋭い。

「いいえ、違います。私は十年ほど前に一度、大きなレースに出たことがあります。ただ、その時に乗っていた馬も同じように足を骨折し、安楽死となった。その時の馬の顔にソウタの顔が重なり、馬に乗るのが、怖くなってしまったんです。一度目は何とかソウタの死を受け入れましたが、二頭目となると、もう自分の力で立ち直るのは無理でした」

「貴方が日本ダービーで騎乗したウインドブラスト…ですか」

 真樹はウインドブラストを知っている?熱烈な競馬ファンなら知っていてもおかしくはないが、この男が競馬を見るような人間には見えなかった。

「何故それを?」

 真樹は「ははっ」と、肯定とも否定ともとれる乾いた笑いを発した。

「私はウインドブラストのことも、そのレースも見た記憶はありません。でもね、知っているんです。あの日、何が起こったのか」

 真樹がそう言った時。


カラン。

店のドアが開いた。新たな客が入ってきたようだった。山城は、真樹との話を切る良いタイミングだと考えた。視点をドアの前に向ける。一瞬、息が止まった。

 牧村だった。いや、今ここに牧村がいるはずがない。

「久しぶりだな」

 何度も目をこらす山城の様子に牧村は大声で笑った。山城は当然のように笑えなかった。いや、動けなかったという方が正しいだろうか。牧村はそんな山城を横目にカウンターに座り、モスコミュールを注文した。

「本当に牧村なのか?」

 ただ立ち尽くす山城はそう問うのが精一杯だった。

「見たら分かるだろうが。俺以外に誰が居る?疑うんなら俺の顔触ってみるか?マスクなんかは被っちゃいねえぞ」

 山城は混乱し、その場に倒れそうになった。それを何とか自力で堪え、手招きをする牧村の隣の席にどうにか辿り着いた。

「俺は何か悪い夢でも見てるのか」

「悪い夢ってどういうことだ?俺が出てきたんだから良い夢だろうが」

 やはり、この会話も口調も「牧村」だ。見た目も「牧村」に違いない。総合すれば、やはり目の前に居るのは「牧村」だということだった。

「ほら、とりあえず乾杯だ」

 牧村が差し出したマグカップに、山城は慌ててマグカップを手にとって、軽く合わせた。

「お前、何か悩んでんだろう?」

「いや、もう吹っ切れたよ。俺さ、引退するんだ」

 牧村が、ふんっと鼻息を出し、モスコミュールをあおった。

「お前さ、約束忘れたのか?」

 山城は言葉に詰まった。そう言われたら何も言い返せなかった。

「まだ、日本ダービー勝ってねえんだろ?なのに引退すんのか?くそっ、なんで俺は死んだんだろう。俺がお前の立場なら勝つまで絶対に辞めないのにな」

 山城はまたも口をつぐんだ。確かに牧村の思いに応えられなかったのは悪い。だが、自分の限界は自分が一番知っている。このまま何年続けたってダービーなんて勝てやしない。そう心の中で呟いた瞬間だった。

 牧村の右手が山城の右頬に飛び、クリーンヒットした。椅子に座っていた山城は思いっきり吹っ飛び、床に転げ落ちた。

「てめえ、全部聞こえてんだよ!」

 山城はまたも言い返せなかった。ただ、それは反論できなかったからではなく、自分の心中のつぶやきが牧村に届いてしまった事への驚愕から来るものだった。

「俺はな、もっと乗りたかったよ」

 牧村は涙ぐみながら小さくそう言った。

 山城は何とか身体を起こして再び椅子を戻す。もう一度椅子に腰掛けようとした時、牧村が山城の手を引っ張った。「ちょっと来い」。山城は牧村に引きずられるように店内の出入り口とは反対の方向にあったドアの前に連れて行かれた。

「しょうがねえ。奥の手だ」

 真樹が腰を上げて山城の近くに歩み寄ってきた。

「山城様、今から起きることは小さな奇跡だと思ってください。ただ、それを夢だと思うか現実だと思うかは貴方が判断することです。そこはお任せします。ただ、そのドアの向こうで起きたことは全てが現実の世界に跳ね返ってきます。決して無茶な行動は起こさないようにお願い致します」

「大丈夫だ。何かあったら俺が止めるから」

 牧村の言葉に真樹は笑顔で深く頷く。

「そうですね。それでは行ってらっしゃいませ」

 牧村が勢いよくドアを開けると、そこはこれまで何万回と見てきた、青々と広がった東京競馬場のターフだった。

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