~奇跡のターフ~ 1

 山城秀一郎がそのバーを訪れたのは初めてだった。デビューした時から騎手仲間である牧村良和に「良い隠れ家的な場所がある」と連れてこられたのが、ここ「BAR Eternity」だった。確かに、外からちょっと見るだけでは入り口の所に掲げられている看板も全く目立たない。この店を意図して目指さない限り、何の店かも気付かないまま通り過ぎてしまう人も多いだろう。牧村に続いて店内に入ると、若い女性のバーテンダーが迎えてくれた。見回しても他に客の気配は無い。カウンター席に腰を落ち着けると、流れているジャズが心地よく脳内に響いてきた。

「モスコミュールを二つください」

 牧村が山城の意見も聞かずにそう注文すると、バーテンダーも「承知致しました」とだけ言って、作業に取りかかった。

 山城は二週間後にある大レースを控えていた。

「日本ダービー」。三歳馬のみが挑戦できる、クラシックレースと呼ばれるうちの一つで、馬主、調教師、騎手、関係者の誰もが制覇を憧れる日本競馬界で最高峰のレースだ。

 山城はデビューして十年目になる。だが、俗に言う、一流ジョッキーと呼ばれる人達とは全く違う道程を歩んできた。人気馬に乗せてもらえることはほとんど無く、こつこつと地味に勝ちを積み重ねてきた。確かに、これまでもクラシックレースを狙えるチャンス自体はあった。デビュー戦で任せられた馬が自身の騎乗で新馬戦、条件戦と順調に勝ち上がり、最高クラスのGⅠレースを任せられそうになったこともあった。だが、大レースでは経験と実績がものを言う。そういう時には決まって、「次はもっと実績のある騎手に任せる」と告げられてきた。

 それに対して山城も幾分か納得する部分があった。これまでGⅡ、GⅢのレースなどの重賞レースに騎乗しても結果は僅か一勝のみ。そんな騎手にGⅠレースを任せるなど、自分が調教師でも考えられないと納得していた。

 ただ、今回ばかりは少し様相が違っていた。デビュー時から山城の面倒を見てきた調教師が「とっておきの馬だ」と任せてくれた馬が快走を見せた。名前は「ウインドブラスト」。デビュー戦で山城が受けた衝撃は計り知れなかった。第四コーナーまで前方に着けると、最後の直線では自分でレースを理解しているかのように抜け出し、さらにスピードを上げてムチを入れずとも六馬身差の圧勝。続く500万以下の条件戦、さらに次のオープン戦もいずれも三馬身差を着けての一着と力の差を見せつけ、日本ダービーでも上位人気になることが予想されていた。

 一週間前に調教師の田代善嗣から告げられた言葉はこれからも忘れることはないだろう。

「あの馬はお前が乗ってると嬉しそうな顔して、気持ちよく走るんだよ。だから、日本ダービーにはお前が乗れ。負けたって構わん。お前が乗って負けたんなら、多分誰が乗っても負けるよ」

山城は涙が止まらなかった。これまで、日本ダービーなど、夢のまた夢の舞台。もう一生手が届くことは無いと思っていた分、その言葉が心底、ありがたかった。


 バーテンダーが銅製のマグカップにウオッカとジンジャーエール、ライムジュースを手早く注ぎ、それを滑らかな手つきでステアする。その風格というか、雰囲気というか、バーテンダーが持つ空気感は一流だと感じた。そう、日頃自分たちが目の当たりにしているベテランのトップ騎手たちも持つ特別なものだと、山城は感じていた。

「お待たせしました」と、バーテンダーが目の前に二つのカップを置く。牧村はそれを手にして掲げた。

「いよいよだな。俺たちの誰もが憧れる最高の舞台だ。必ず勝てよ」

 山城もマグカップを持って牧村のそれにわずかにぶつけた。

「ありがとう。頑張るよ」

 山城はそう答えて、モスコミュールを口にする。ライムの風味とジンジャーエールの爽やかさにアルコールの重厚さが交わり、一体となって口の中に広がった。

 美味い。他に言葉はいらなかった。ただ、美味い。これまで存在こそ知っていたが、初めて飲んだカクテルというものは、美しさのようなものを持ち合わせた一つの芸術作品だった。

 美味い、とバーテンダーに山城が告げると、「ありがとうございます」という言葉と、そっとした笑みだけが返された。

「ここのカクテルはな、別格なんだ。多分、日本で、いや世界でも一、二を争うんじゃないか?」

 牧村がそうバーテンダーを見やると、彼女はグラスを磨き始めた手を止めること無く「いえいえ」と謙遜した。

 山城は自身の晴れの舞台を心から祝福してくれている牧村に礼を言った。

「ありがとうな、牧村。たぶん、これは人生で数回あるかないかの大きなチャンスだと思っている。俺は必ずこのチャンスをものにしてみせる」

 牧村は山城の背中をバンッと叩き、笑う。

「そうだ。その意気だ。世間をあっと言わせてやれ」

 今振り返ると、山城にとってその日の酒は、生きてきた人生の中で最高の酒だった。






―十二年後。






 東京都内で桜も花開き始めた四月上旬のある日。山城は一人、BAR Eternityを訪れていた。

 手元には銅製のマグカップが置かれている。

「実はね、引退することになりまして」

 バーテンダーは当時と同じ女性だった。見た感じではそれほど時の経過を感じさせないほど、若々しい。

「そうなんですね。これまで本当にお疲れ様でした」

 バーテンダーは頭を下げながら、そう山城をねぎらった。

「私はね、これまで地道に騎手をやってきました。大きなレースに勝ったわけではないですが、なんとかここまでやってこられました。でもね、それは私に力や才能があったわけではないんです。ここまで騎手を続けてこれたのは周りの皆のおかげなんです」

 バーテンダーは頷きながら、山城の語りを受け止めている。

「だから、引退するまでに、大きなレースで勝って少しでも恩返しを、と考えてきました。ただ勝てないまま、ここまで来てしまったんですよ。だから、私は本当に申し訳ないんです。田代調教師、牧村、そして、ウインドブラスト。私は、皆に何もすることができず、ここまで来てしまいました」

 山城はテーブルの上に乗せたままの両拳を、強く握りしめた。


 十二年前の日本ダービー。山城は田代の計らいでウインドブラストに予定通り乗ることになった。

 レース当日は二番人気。一番人気こそ、他馬に譲ったが山城は確信していた。「ウインドブラストなら日本ダービーを勝てる」と。

 スタートは順調だった。元々気性が荒いわけでは無い。むしろ、自分で「競馬」というものを理解して考えながら走っているかのように、力の入れどころ、抜きどころをきちんと分かっていた。その日も好スタートを切ると前から四番手の好位に付け、順調にレースを進めた。

 ただ、何かが違う気がした。何処がどう違うのかと問われても分からない。底知れぬ不安のような違和感。しかし、山城はそこの部分に特別な注意を払うことはなかった。道中の手応えも申し分なく、抑えずとも的確なペースで走ってくれる。間違いない。今日のウインドブラストなら行ける、そう確信した瞬間だった。

 その息遣いが突如乱れた。

 第三コーナーに差し掛かった時だった。山城のビジョンは、突如ガクンと大きく揺れた。一瞬、振り落とされるかと思ったが、何とかバランスを保ち体勢を立て直す。何が起こったのかを懸命に把握しようとウインドブラストを確認すると、スピードが急激に減速していく。「故障だ」と感じた。「他馬と接触してはまずい」。山城は慌てて手綱を操り、進路を大外へと向けた。ウインドブラストは左前足を引きずるように懸命に歩いて行く。

 観客席からわき起こる悲鳴を背に、山城はようやく外に出したウインドブラストから降りた。

 ウインドブラストは山城が降りたのを確認すると、左前方へと崩れるように倒れた。骨折だった。ウインドブラストは山城にけがをさせないように懸命に歩き、そして、安全を確認してから力尽きたのだった。

 ウインドブラストはまっすぐに山城を見つめていた。

 山城は泣いていた。この誰もが憧れるレースに自分を連れてきてくれたのはウインドブラストだ。だが、自分はその盟友の異変にも気付けなかった。もし、違和感を感じた時にレースを中止していたらウインドブラストは骨折しなかったかもしれない。山城は安楽死にだけはならないことだけを祈った。「自分はこれから大レースに勝てなくても良い。ただ、こいつだけは助けてやって欲しい」。ただ神は無情な決断を下した。


 ウインドブラストは左前足を粉砕骨折しており、安楽死処分となった。


 山城はあの日本ダービーを忘れたことはない。

 何度も夢に見た。あの視界が大きくぶれた瞬間のビジョンと乗っている感触を、幾度となく幻の世界で蘇らされた。「もういい。やめてくれ」。ただ、その世界では自分の意思とは関係なく身体が動いていく。そして、降りるとあの日のように大きく巨体を崩れさせ、あのウインドブラストの目が自分の方をまっすぐ見つめる。ただ、その身体はもう動いていないのだった。目にも生気は宿っていない。微動だにしない。その姿を何も出来ず、山城はただ見つめている。そして、そこでいつも目が覚めた。

「ここに来るのは二回目ですが、私のことは覚えていますか?」

 バーテンダーは「もちろん」と頷いた。

「私はプロですから。一度来られたお客様の顔は忘れませんよ。確かその時はご友人と一緒に来られていたのではなかったですか?」

 山城は牧村の顔を思い浮かべる。

「ええ、あいつは五年前に亡くなりました。牧村と言うんですがね、本当に頑固な男で。それでもガンであっけなく逝っちゃいました」

「そうでしたか。それはお辛かったでしょう」


 山城はベッドの上で横たわったままの牧村の姿を忘れられない。かつて筋肉に包まれていたがっちりとした身体は抗がん剤による治療で、老人のように痩せ細っていた。

「や、山城、お前、このままでいいのか?」

「どういうことだ?」

 牧村は呼吸も辛そうだったが、それでも何かを伝えようと山城を見つめていた。

「あ、あの日本ダービーだ。あの時からお前の、手綱さばきは、変わった。自分では、分からないかもしれないけどな。だ、だから勝ち星も増えない」

 山城は心を揺さぶられながらも平静を装いながら答える。

「いや、俺は何も変わってないよ。いつでもベストを尽くすことだけを考えている」

 だが、牧村の表情は緩まなかった。

「嘘だ。お、お前は、怖いんじゃ、ないのか?乗ることが」

 核心を突かれていた。技術がどうのこうのではなかった。精神的に攻める姿勢が山城の中に消え失せていたからだ。「もし、また、馬の異変に気づけなかったらどうしようか」。レース中にはいつもそんな考えばかりが頭の中を巡っていた。

「俺はもう駄目だと思う」

 牧村は声を絞り出した。

「何を言っているんだよ。お前こそ、人の心配をする前にさっさと病気を治してターフに戻ってこい」

 山城は涙を堪えるのに必死だった。どんなに我慢しようとしても、目の脇からこぼれ落ちようとしてくる。

 牧村はそっと微笑むと、山城に優しく訴えかけた。

「俺も、に、日本ダービーは勝てなかった。も、もしだ、お前がまた、日本ダービーに乗ることが、あったら、必ず、勝ってくれ。これは、俺の、果たせなかった夢なんだ」

 牧村がベッド脇に座っていた山城へと左手を差し出してきた。山城は「分かった」と答えて、その手をしっかりと握りしめた。


 あの日の約束はまだ果たすことができていない。そして今、引退の時を静かに待つ身となった。引退は春のG1戦線が終了した六月末。約二ヶ月後には日本ダービーが開かれるが今のところ自分に騎乗依頼が来る気配はない。引退間近の老いぼれた騎手に誰もが渇望する舞台を任せようなどと、誰もが考えない。よほどの物好きでない限り。


 パチン。


その音はどこか心地よい響きだった。何の音なのかは山城には分からない。聞こえるかどうかというほどの小さな音だったが、心にすっと響き渡るような、そんな音だった。


「山城様」

 カウンターの端に居た一人の男が山城に声を掛けた。

 話しかけられるとは思っていなかった山城は、その声に思わず腰を浮かしそうになった。

「な、何ですか?」

長身に顎髭が整えられている男は、席から立ち上がるとゆったりとした足取りで山城に近づいた。

「驚かせてしまいましたか?申し訳ございません。私はここのオーナーで真樹と申します」

 差し出された名刺には『真樹真』と書かれている。

「あ、そのままで結構です。お互い座ったままお話ししましょう」

 何故か立ち上がろうとしてしまった山城を、真樹は制して隣の席に腰を落ち着けた。

「今回ですね、実はある方からのご依頼によって、あることを頼まれました」

「あること?」

 山城にとっては身に覚えのないことであり「人違いではないですか?」と確認してみたものの、それは真樹に丁寧に否定された。

「いえ、間違いなく、山城秀一郎様へと。実際にあなたは今日ここに見えられた。これこそが決定的な事実です」

 山城は狼狽えた。もしかしたら新手の宗教勧誘か、それともマルチ商法とかの類いなのか。自分がここに来たのは全くの気まぐれであり、しかも前に来たのは十二年も前の話だ。再び来るかどうかなど分かるわけがない。

「あ、今、怪しい宗教の勧誘じゃないかって思いませんでした?大丈夫ですよ。私は貴方からここの御代以外はいただきません。私は趣味でご依頼を受けただけですから、貴方はそのことに対してお金を払う必要はありませんから」

「趣味?それは一体どんな趣味なんですか?」

 真樹はその言葉を待っていたかのように、身を乗り出して説明を始めた。

「私はね、お金というものに執着がありません。思いませんか?お金というものは、言ってしまえば、価値があるのはこの地球だけなんですよ。他の星で使おうとしてもただの紙切れと金属の固形物です。お金を生みだし、それに価値を与えたのは、私たち人間です。ただ、それによってこの世界は成り立っている。不思議ではありませんか?」

 やはり新手の宗教の勧誘のようだと山城は疑った。この男は綺麗なスーツを着こなし、見た目は真面目そうだが、話の内容がどうにも胡散臭い。

「あ、今、この男胡散臭い、とか思いませんでした?」

 そう言って、真樹はけたけたと笑った。山城は、笑えなかった。

「あ、すいません。確かにそんな話をされても胡散臭いですよね。終着点から言うと、私はお金というものはただの紙切れだと思ってきたわけです。不思議ですよ。お金に執着しないと、お金は集まってくるんです。ただ、私はお金を使うことがありませんでした。そこで私は、そのお金というものを使って何が出来るだろうかと考え、一軒のバーを開きました。それがこのバーです。道楽で開いたこの店で私はあることを考えました」

「あること?それが趣味ってことですか?」

 真樹は深く頷くと続けた。

「バーという場所は、人が自分自身を振り返る場所だと思っています。私はその人たちの話を聞き、私たちが出来ることをしようと考えました。他人の人生というものは、とても興味深いものです。どんな人生であろうが、そこに必ず一つは、すぐにでも小説に出来てしまいそうなドラマがあります。それらを聞くことで私たちは、大勢の人たちの人生を、あたかも自分も一緒に歩んできたような錯覚に陥ります。こんなに贅沢なことはあるでしょうか。私は無いと思います。だからこそ、その人たちのドラマがさらに心に残るような手助けをしているのです」

 完全に嵌められた。言葉こそ綺麗だが、その話の中身が全く見えてこない。これは詐欺だ。山城は適当にあしらい店を出ようと考えた。が、その時。

「いいんですか?ここで帰ってしまえば貴方は一生後悔することになりますよ。そして、あなたは友人たちの夢を叶えるチャンスを捨ててしまうことにもなります」

「何を言ってるんだ。ここに残ったら夢が叶う?ばかばかしい」。そう、心中で呟いて席を立とうとした。

「まあまあ、とにかく落ち着いて座ってください。そういえば、先ほど引退なさるとおっしゃっていましたね。ただ、貴方には迷いがあるように見受けられる。このまま引退しても良いものかどうか、それを気に病んでいらっしゃる。何故、そのようにお考えになるのか、私たちに話してはいただけませんか」

 山城は眉をひそめた。何故、自分が見ず知らずの胡散臭い男に、自分の話をしなければならないのか。

「申し訳ありませんが、お話しするほどのことでもありません。私はただの二流騎手ですから」

 真樹は「ふうっ」と溜息を一つ吐く。

「お言葉ですが、その表現は正しくありません。正確には『三流騎手』ですね」

 その一言に山城は我慢していたものが一気に噴出し、カウンターを両拳で激しく一度、叩いた。

「あんた!一体何様なんだ!何が言いたい!俺を、俺をこけにしたいだけだろ!」

 真樹の涼しい表情は一切変化することはなかった。

「確かに、あなたには辛い過去があったかもしれない。ただ、私にはどうしても、あなたがその過去に向き合おうとしていない、一人の三流騎手にしか見えないのです。教えてください。あなたが何を考え、何を背負い、何を後悔してここまで生きてきたのかを」

 山城は興奮から荒くなった鼻息を後回しにして、心だけでも先に冷静さを取り戻すよう努めた。少しずつ、真樹の言葉を心中で反芻し、飲み込んでいく。と、その行為に並行して、山城の目には熱いものがこみ上げてきた。

「確かに、確かにそうです。私はここまで逃げてきたのかもしれません」

 真樹は何も言わない。表情も変えない。ただ、山城の反応をじっと伺っている。

「分かりました。そこまでというなら、お話しさせていただきます」

 山城は観念したかのようにぽつり、ぽつりと歩んできた人生を語り出した。

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