相棒 ~彫物兄弟~

@oshizu0609

第1話

 天保14年2月24日、午前10時過ぎ、江戸城本丸御殿、中奥(なかおく)にある御座之間(ござのま)において、ある一人の男の人事が発令された。


「遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)景元(かげもと)、大目付に任ずる」


 第12代将軍・徳川(とくがわ)家慶(いえよし)の声が響いた。景元(かげもと)は北町奉行であり、大目付への転任は栄転であった。家慶(いえよし)は恒例行事とも言える吹上(ふきあげ)御庭(おにわ)で行われる公事(くじ)上聴(じょうちょう)…、将軍の御前にてある事件につき、寺社奉行、南北両町奉行、公事方勘定奉行に裁かせる、いわば将軍の裁判見学の折、家慶(いえよし)はとりわけ景元(かげもと)の名裁きぶりにいたく感服し、見学後、やはり恒例行事である、奉行らに時服(じふく)を与えた後で、景元(かげもと)だけ特別に召しだし、その名裁きぶりを褒めたのであった。これは極めて異例のことで、且(か)つ、大変名誉なことであった。それだけ家慶(いえよし)は景元(かげもと)のことを買っていたのだ。


 その景元(かげもと)の昇進人事の発令だけに、普通なら声が弾(はず)むべきところであったが、しかし、案に相違して家慶(いえよし)の声は弾(はず)むどころか、沈(しず)んでおり、微量の同情さえ含んでいた。


 現に家慶(いえよし)はこの人事にいたく同情しており、それは家慶(いえよし)のみならず、この場に…、御座之間(ござのま)にいるすべての者…、老中や若年寄、御側御用人(おそばごようにん)や御側御用取次(おそばごようとりつぎ)らにしてもこの人事にいたく同情を寄せており、平伏(へいふく)したままの景元(かげもと)に代わって、


「結構、仰(おお)せ付けられ、ありがたき旨(むね)」


 そうお礼を言上(ごんじょう)した月番老中の眞田(さなだ)信濃守(しなののかみ)幸貫(ゆきつら)にしても同情心から声が沈んでいた。


 そんな中で唯一、勝手掛老中の水野(みずの)越前守(えちぜんのかみ)忠邦(ただくに)のみ、この人事にいたく満足しており、実際、口元が緩(ゆる)んでいた。将軍の御前であるので笑みを浮かべるわけにはゆかなかったが、しかし、笑みを堪(こら)えるのに苦心した。何しろ忠邦(ただくに)こそ、この人事を強行した張本人だからだ。

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