誤:異国にて

 レースカーテンから柔らかい陽光が降り注いでいる。屋外はおそらく好天なのだろう。気分転換に外に出てみてもいいかも。そんなことを思ったが結局は視線を手元に戻した。開いた本には人体図が載っており、その横には英文が連なっている。それを眼で追いながら気になる単語をサイドテーブルに置いた辞書でひとつひとつ引いていく。

 元々耳は良いらしい、なんとなくだが聞き取りだけは出来るようになってきた。しかし、話すことはまだ不得手だ。どうしても伝えたい場合は堪能な清世に仲介してもらう形を取るが、日常ではそういったことも煩わしい場面がある。単語の羅列や身振り手振りで周囲の人間とはなんとなくコミュニケーションが図れているようでもあるが、周囲に甘えっぱなしというのも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 すごく。ものすごく言葉が悪いが、昏睡したままの自分を了解も同意もなく勝手に遠く離れた異国へ連れてきたのは清世だ。それはもちろん自分の身を護るためでもあるし、何よりあのまま日本に居ても居場所なんてなかった。いずれ追い詰められて飼い殺しか軟禁か、まぁそこまでいかなくてもそれに限りなく近い状態に置かれてしまうだろう。

 恩を感じていないと言ったら嘘になる。その反面、どこかで「あのまま死なせてくれたら良かったのに」という気持ちがないわけではない。けれどもそれを清世の前で言うのは憚られた。救けてくれた恩人に聞かせてて良い言葉ではない。

そんな恨み言を言う暇があるなら、衣食住すべてをまかなってくれている清世へどうやったら恩を返せるか考えた方がまだ幾分か建設的だ。


 ……正直なところ、「今まで」と「今」では自分の取り巻く環境が天と地ほどの差があって、それに適応しようとするだけで精一杯な感がある。生活様式も環境も何もかもが違うのだ。毎日の食事だって箸を使えば綺麗に食べきれる自信があるのにナイフとフォークだし。ごはんとお味噌汁と焼き魚でもあれば十分なのに出てくる料理はパイだのプディングだのとなんだか大味でそっけないし。お醤油かけたいと何度思ったことか。

 入浴だって身体を洗ってから浴槽に浸かりたいのにシャワーで身体を洗ってそのままバスタブに溜めるようになっているし。

 冷静に考えるとこっちに来てストレスしかないような気もする。気のせいだと思いたい。


 思考だけがぐるぐる回ってちっとも知識が脳に入ってこないことを自覚して、これ以上は時間の無駄だと思った。気分転換をしよう。部屋に閉じこもるのもたまには良いが毎日はだめだ、気分がどんどん沈んでくる。

 勉強机から離れて、窓を開けて深呼吸。青い草の匂いがする。吹き込む風はやわらかくて暖かい。空の青と広がる緑と庭園に植えてある花の色が目に眩しい。考えてみれば此処―と言っても「英国です」と告げられたっきり英国のどのあたりとかどうして自分が英国にいるのかとかどうやって渡英したのかとかそういう初歩的な疑念を持つこともなかった。

 空気の味が、自分が知っているそれとは全く違うことに。嗚呼、此処は異国なのだと実感を伴った理解として漸く自分の中に受け入れられた気もした。


 色々思い返しながら窓の外の風景を楽しんでいると、こんこん、とドアのノックされた。

 はい、と返しながらしまった、英語で返すべきだったかと少しだけ反省。


「失礼します」


 ドアを静かに閉めて丁寧に一礼する男性から発せられた日本語に安心する。


「本日の昼食ですが、ガーデンでのランチに変更になりましたのでお知らせいたします」

「わざわざありがとうございます、えっと、何かお手伝いできることはありませんか?」

「準備は整えてありますので結構でございます。お心遣いありがとうございます」

「そうですか、」

「それでは、」

「あの、」


 退室しようとしたところを不意に呼び留める形で声が出る。男性はドアノブから手を放してこちらへと向き直る。徹底されたその態度は、確かに「使用人」としては正しいのだろう。


「良かったらお名前を訊いてもいいですか、その、私はまだ英語が得意ではないというか、うまく話せないので清世さん以外とあまりお話をしたことがなくて、この家にいらっしゃるひとたちの名前から少しずつ憶えていきたいのです」

「……私の名前はアレクセイ・ワタナベと申します。日系三世でイギリス人の祖母と日本人の祖父が居ます」

「渡辺さん」

「失礼ですがお嬢様、」

「はい!?」

「お嬢様はずっと日本におられたと旦那様より伺っております。日本人の美点として謙虚と勤勉が挙げられますが、UKでは卑屈や陰気と捉えられる場合があります。特に欧州人にはアジア人の顔の見分けが難しいところもあり、お嬢様の今の言動では控えめに申し上げても卑下にしか聞こえません」

「お、おおぅ……」


 「お嬢様」と呼ばれることもだが、丁寧な口調でズバズバと指摘してくる渡辺に変な声が喉から零れ落ちた。


「私ども使用人は旦那様のお人柄によって助けられたものが多くおります。そのお傍におられますお嬢様においても最大限の敬意と礼節をもって接するようにと心がけております。

……どうか、堂々と胸を張ってお過ごしください。此処には貴女様を害するものはおりません」


 丁寧に一礼し退室する渡辺に、どう言って応えたら良かったのかわからずに困惑する。慇懃無礼にも、嫌みのようにも聞こえる言葉だったが、要するに嫌ってないから堂々としてろ、今の状態だと根暗に見えるぞってことだろうか。






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