吹き荒れるその風の名は【旧題:明日の黒板】
毛糸
前篇
気がついた時には夕暮れだった。
朱に染まり始めた空の上を、薄紅色の花びらが、逝く宛もなくさまよっている。
「……」
鉛のように重くなった身体を、公園のベンチに投げ出して、ただひたすらに空を仰いでいた。
「──はぁぁ──」
口から溢れ出すそれは、留まるところを知らない。吐く度に身体にのしかかり、まとわりついて離れない。
その重圧から逃れるように身をよじり、誰にも見られないように腕で顔を覆い目を閉じた。
「なんで……」
気がつけば俺の頭は、数時間前の事を思い出そうとしていた。今一番、思い出したくない記憶が、強引に瞼に映し出される。
✱✱✱
「起立! 先生! 三年間、ありがとうございました!──」
クラス委員長の涙声に続くように、生徒全員が声を張り上げた。その合唱が、このクラスの三年間を締め括った。
「──」
教室は、いつも以上の賑わいを見せていた。それも当然だ。今日は高校最後の日、卒業式だ。長いようで一瞬だった怒涛の三年間を、共に戦った仲間達と過ごせる最後の日。皆が別れを惜しむように語らいでいる。
これみよがしに黒板に落書きをする者、卒業アルバムに互いの友情を記し合う者、ひたすらに涙し背中をさすられる者。
永遠に続くかと思われたその光景は、時計の針が頂上を通り過ぎる頃には、別棟でのランチパーティへと移っていた。
もれなく賑わうその会場をするりと抜け出して、俺は
静まり返った昼下がりの教室には、一人の少女の姿があった。みんなが別れを惜しんでいる中、人知れずメッセージを送って呼び出したのだ。まさか、俺よりも早くいるなんて思ってもみなかった。
彼女は、窓際の最前線に設けられた自席の机に腰を下ろして、窓の向こうを眺めていた。
「お、ようやく来たな──」
出入口に佇む俺の気配に気がついて、彼女は振り返りながら席を立つ。
春の風を纏うようにふわりと揺れる長い髪。澄み切った空のように澄んだ瞳。艶やかに潤う桜色の唇。
「話って……何?」
穏やかに微笑みながら、凛とした瞳が俺に向けられる。
これまで何度も目にしてきた彼女の姿に、これまで以上に胸が熱くなる。
時に激しく、時に穏やかにその表情を変える彼女は、まさしく春に吹く風そのものだった。そんな彼女に──
気がつけば俺は、恋をしていた──
「あー、えっと……その……だな──」
いつからだろう──彼女を視線で追いかけていたのは──
「それより、いつまで廊下で立ってるつもり? そろそろ入れば?」
「あ、ああ──」
からかう様に笑う彼女の言葉に従って、教室の敷居またぐ。
いつからだろう──彼女の視線を意識し始めたのは──
一歩、また一歩と歩を進め、窓際に立つ春色の彼女に歩み寄る。教壇に上がり、黒板を横切る。教卓を越えて、彼女の側へ。
──いつからだろう──彼女を想うようになったのは──
「あー、えっと……待ったか?」
「うん。待った──」
首を傾け、はにかみながら彼女は答える。艶髪が揺れ、ほのかに香る花の匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……」
「……」
温もりに満ちた春風が教室内を吹き抜ける。彼女は後ろ手を組んで俯き、俺は視線を泳がせて、乾いた口を動かしていた。
言葉は幾つか用意した。だがそのどれもが、喉の奥から出てこない。いつもの様な軽口も、吐く息に混ざって逃げていく。たった一言が出てこない。
汗ばんだ手を握りしめ、深く深く息を吸う。
彼女もきっと、俺が今から言う言葉に気がついているはずだ。ならもういっそ、簡単でいい。たった一言を言葉にすれば、あとは勝手についてくるだろう。
覚悟を決めて、短く、素早く息を吐いた。
「私ね──」
声を出そうとした瞬間、彼女の透き通る声が響く。
「私ね……この街を出るの──」
彼女の発したその言葉が、俺の世界から音を消した。景色が次第に色褪せていく。そして目の前にいる彼女との距離が、しだいに遠くなっていくような、そんな錯覚に見舞われた。
「え……」
未だ彼女は俯いたまま。その姿に、徐々に心臓が軋みを上げて視界が揺らぐ。そのせいか、彼女の細くて華奢な肢体が、僅かに震えているように見え始めた。
「だったら会いに行けばいい。何処にだって会いに行くさ」
「無理だよ……だって遠いもの」
離れた距離を取り戻そうと、手を伸ばすように言葉を返すと、彼女は俯いたまま弱々しい言葉を返す。
「そりゃあ難しいかもしれない。でもバイトすれば、新幹線でも飛行機でも、国内だったらどこへだっ、て……」
そこで俺の言葉は詰まってしまった。気がついてしまったから、彼女の言葉の本当の意味に。
俯いていた彼女は、ゆっくりと顔を上げた。鏡のように澄んだ瞳は、溢れる涙で揺れていた。
「嘘……だよな……?」
衝撃のあまり、気の抜けた声が口から漏れる。彼女はすすり泣きながら、首をゆっくりと、涙をこぼさないように横に振る。
「……ごめん──」
振り絞るように出てきたその言葉は、俺の気力を根こそぎ奪い去っていく絶望的なものだった。
「……帰って、来るんだよな?」
「……」
涙を必死にこらえながら、揺れる瞳を横へ逸らす。言葉すら返ってこなかった。その仕草には
「こんなのって、アリかよ……」
目眩がして視界が揺れる。ふらつく足で踏みとどまりながら、頭に手を当て考える。
本当に選択肢は無いのか、何が一番最適なのか、何が一番重要なのか、大事なものは何なのか──
思考を巡らせていく中で、まだあの言葉を伝えてないことに気がついた。そして次の瞬間には、口を開いていた。
「お前が何処に行ったって関係ない、俺はそれでも──」
せめて顔を見て伝えようと、限界に近い身体に鞭を打って顔を上げた。
「もう……無理だよ──」
顔を上げた時、彼女は正面にはいなかった。俺の横で苦しみ混じりにそう呟いて、風のように通り過ぎていく。その言葉にトドメを刺され、俺の身体は膝をついた。
廊下を鳴らす靴音が、足速に遠くなっていく。
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