第78話

「園芸学研究室の中って、鉢物のお花や、観葉植物がいっぱいあると思ってました」


みどりちゃんが植物が何も無い部屋を眺めて気になったらしい。


「植物は、できるだけ本来居るべき環境に置いておく。これが教授のポリシーなの」


「だから植物は、地植えしたり、鉢植えして温室に置いたり、熱帯温室に置いたり」


「切り花以外は部屋には置かないの」


恵ちゃんが説明する。


「部屋に植物を置いて、枯らしたりなんかしたら研究室の沽券に関わるから。そう思っていた」


義雄が呟く。


「それも無いとは言えないけど、やはり居心地のいいところにある植物が、一番生き生きしてる」


「本来のあるべき姿。それを発揮する環境に置かないと。植物も人も」


「正くんのいう通りね」



「しかし、みどりちゃんのおかげで、カーネーションの黄色花の秘密や、オレンジ色になる秘密が遺伝子レベルで解明されてきて助かるよ」


「いいえ、義雄さんの熱意の賜物です。エクソンにのみ特異的に挿入されるとても珍しいトランスポゾンが見つかったり」


「今は、カルコンを配糖化する遺伝子、すなわち、黄色花でカルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成するGT遺伝子も探し始めているんです」


「それ、大事だよね。とても」


僕は身を乗り出す。


「まず、黄色花の蕾中の花弁から全てのRNAを抽出してmRNAを調製し、cDNA、つまりmRNAから逆転写酵素を用いた逆転写反応によって合成された二本鎖DNAを準備しました」


「カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成する遺伝子、GT遺伝子の候補となるcDNAは、縮重プライマーによる PCRスクリーニングという方法で単離、得られたPCR産物をベクターに導入した後、シークエンス解析を行ないました」


「そして、遺伝子の相同性からGTをコードすると思われるcDNAを二十数種類単離したところなんです」


「なるほど、細胞から全てのmRNAを抽出し、逆転写酵素を使って、DNAを作り、そこからcDNAを合成すると、もともと細胞内にあったすべての種類のmRNAがまるごと安定したcDNAに写し取られることになる」


「そこから、他の植物などのGT遺伝子に似ているものを選択したんだ」


「そうだよね?」


「そうなんです。今、まだその段階ですけど、義雄さんに手伝っていただいているので、思ったより今後の進展が早そうです」


「これからどんなことをするの?」


「これから二十数種類のGTをコードすると思われるcDNAの全長を5’および3’RACEによって単離。そしてこれらをベクターにクローニングした後、大腸菌に導入し、培養した後、ホモジナイザーで破砕。これを遠心し、上澄み液を酵素液として活性の測定に用います」


「その際の反応基質としてはアントシアニンの生合成経路の中間代謝産物などを用います。この酵素液について、TLC分析、HPLCおよび14CUDP-グルコースを用いた液体シンチレーターによる分析を行います」


「難しくて分からないこともあるけど何だか遺伝子取り、上手くいきそうだね」


「それはまだわかりません」


「カルコノナリンゲニンを基質とし、カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成する遺伝子が拾えればいいんですが……」


「義雄は、何だか面白い研究や、みどりちゃんもいて今後、明るい未来が開けてるね」


「自分でも、目の前が明るく、色々な研究が面白くなって来たんだ」


「みどりちゃんのおかげ……」


義雄は恥ずかしげに答える。


みどりちゃんも恥ずかしげ。


「カルコノナリンゲニン2’-O-グルコシドを生成する遺伝子については、今作成している二つの論文には、まだ含めることはできないね」


「でも、さらに近未来の論文がまた一つ増えた」



「おう、皆んな」


「はいっ! 浅野教授」


「義雄はどこだ?」


「今日はおじさんのところにカーネーションの花のサンプリングに行ってます」


「そうか」


「アメリカ行き、候補は決まったか?」


「いや、昨日の今日では……」


「俺がアメリカに人を送りたい理由は、園芸とは何か、すなわちHorticultureの真髄を知ってもらう若者を育てたい、そして後輩を育てて欲しいんだ」


「園芸の芸とは”植える”こと、つまり園芸は”植物を園に植える”という意味なんだ」


「文化的な園芸とは、植物を絶対的な素材とした美的文化、芸術。園芸は武道や詩歌、音楽などの諸芸道と同等の存在として列する」


「もちろん、文化としての観賞園芸だけでなく、産業としての生産園芸もある」


「今ここで誰かに、園芸、それが何かを学んで来て欲しいと思っている」


「そして、その場所を準備した」


僕は少しこの言葉に心がなびいた。


園芸。文化としての園芸。素敵な響きだ。



「花色研究、遺伝子工学も、生命工学もいい」


「ただ、園芸を身につけて、それらの研究に当たる資質の人間が必要だ」


「園芸あっての花色、遺伝子の研究」


「花色、遺伝子の研究のための園芸じゃないんだ」


浅野教授は教授室に去っていく。



「すごい勢いの教授がおられるんですね」


みどりちゃんは教授の話に圧倒されて少し驚いたらしい。


「アメリカ……、誰か行かれるんですか?」


皆んなの視線が僕に集まる。

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