第32話
「おはよう。恵ちゃん」
「おはよう。正くん」
「大樹、行ったね。歩ちゃんと二人で」
「うん。行ったね」
「歩ちゃんに、実は心底カーネーション見せてあげたいんだよ、きっと」
八ヶ岳の登山で、何か大樹の心に変化が起きたのだろうか。
いつも距離を置いていた歩ちゃんと急接近。
「大樹と、歩ちゃん、お似合いだよね」
「うん」
「さっき、生協をチラッと見たら、義雄くんが可愛い女の子とお茶しながら、何かお話ししてたわよ。ラブラブかな?」
「なんだか、皆んな急に色気付いたね」
「そんな、恵ちゃん。皆んな盛りが来た雄呼ばわりする様な口調で話さないでよ」
「あら、極めて普通の口調よ」
「私、正くんしかいなくなっちゃうのかな〜」
「さみしいな〜」
恵ちゃんは三毛にゃんを撫でながら、ぶちぶち呟く。
「正。遺伝子来たぞ」
「おう、来たか」
「義雄、可愛い女の子とお茶してたんだって?」
「ああ。遺伝子取りをお願いしていた子。生命工学の三年生。みどりちゃん、浜野みどりちゃん」
「なんだ、みどりちゃんか。オーケストラのバイオリンの子だね」
「みどりちゃんも正のこと話してた。割と正、サークルでモテるんだってね」
「あら、皆、やはり難攻不落の私と知って去っていくのかしら?」
恵ちゃんがぼやく。
「僕は違うよ」
恵ちゃんは、優しく微笑む。
義雄が話す。
「恵ちゃん。大樹は口に出してしまったから、仕方なく歩ちゃんを連れて行っている」
「僕もみどりちゃんが忙しい中、遺伝子取りだしてくれたからねんごろにお礼していた」
「正は、誰かさんしか見えない」
「な〜んだ。まだ皆んな、私の手のひらの上じゃない」
恵ちゃんは、クスクスと笑う。
「そういえば、オレンジ花のプレゼン、恵ちゃんまとめてくれたけど、濃いオレンジのF55だけにしちゃったね」
「すっかり薄いオレンジ色のサンプルF57の採取、忘れちゃってた」
「でも、オレンジ色は一つ分かればいいんでしょ?」
「恵ちゃんの言う通りだけど、濃いオレンジは蕾のステージで黄色のカルコンがたまり、開花時にアントシアニンが生成され混合される」
「薄いオレンジは、もしかして、蕾の段階では無色で、開花と同時にカルコンとアントシアニンが同時に生成されているかもしれない」
「僕、大樹にLINEしておくよ。F57の二つのステージ採取してくる様に」
「なるほどね……、そうなるともう一つの大発見よね」
「正。さっそく俺、黄色花とオレンジ花のCHI遺伝子のノーザン・ハイブリダイゼーションしてくる」
「これで各々のタイプ、ステージ別のCHI遺伝子の発現度合いが確かめられる」
「うん。よろしく」
「僕は、夏の色素研究会のプレゼンを作成してるから」
「私はラン温室に行くわ」
「了解」
義雄は実験室へと姿を消した。
「おはよう」
「おはようございます。有田先生」
「プレゼン資料、作りかけのを少し見せてもらったよ」
「恵ちゃんの資料。よくできている」
「正くんのはまだだけど、フラボノイド生合成遺伝子の経路図なんか見やすくできているね」
「義雄くんの解析結果がわかれば、グンと面白くなりそうだね」
「はい。そこそこインパクトのあるプレゼンになりそうです」
「先生、まとめ上がる頃、プレゼン資料と、口頭文書の英文の外部校閲をお願いしたいのですが」
「いいよ。研究室の予算。それくらいは取ってあるから」
「ありがとうございます」
「あのね……、君たちにはちょっと酷なお願いになるんだけど……」
有田先生が、いつもの人差し指でこめかみをこする仕草をする。
何かの頼みごとだ。
「実は皆んなに、今年から園芸学研究室で始める、植物検定という非公認資格を取ってもらいたいんだ」
「ゆくゆくは何らかの公的な資格にできればいいと考えているんだけど……」
「どういう検定ですか?」
「野菜、花卉、果樹の和名とラテン語の属名を覚えてもらう」
「もちろん、実物を見て答える試験もある」
「一級は500属、二級は300属、三級は200属を覚えてもらう」
「先生、どうして降って湧いた様にそんな話が出てきたんですか?」
「今、南米に行っている教授が温めていた計画だよ」
「これから世界に旅立つかもしれない君たちが、いくら植物を知っていても、属名で会話しなければ世界では何にも通用しない。そんな、教授の想いからなんだ」
「今年の四人は、特段よく花や植物を知っているから、植物検定の開始、第一期生にもってこいだと言っている」
「試験は毎月僕が行う」
「卒業までに、最低でも三級は取ってもらいたい」
「え〜え。きついですよ、先生。卒論、色素研究会、そしてオーケストラ」
「僕にはちょっと無理です」
「あら、私やるわよ。面白そうじゃない。一級取るわよ」
恵ちゃんはやる気満々。
「大樹と義雄がなんて言うか……」
「これからの園芸学教室の四年生には、この試験、必須にしようと思っているんだ」
「まあ、考えといて。受ける方向で」
有田先生は、逃げる様に自分の研究室に戻って行った。
「まあ、考えといて」
恵ちゃんは僕の肩をぽんと叩き、微笑みながら、ラン温室へと向かっていった。
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