「AIに仕事を奪われる」
私は人より少しだけ「悩むこと」が好き。
インターネットや書籍でいろんな人の意見を見ては「ああでもない、こうでもない」と自分なりに考えてみることが好き。
自分で考え抜いて出した結論が、少なくとも自分に取っては最高の結論であるはずだ。
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「あぁ〜、もう何もしたくない」
4時過ぎに授業を終えた私は、その後図書館でしばらく勉強し、帰宅と同時にベッドに溶けてしまった。お腹は減ったしシャワーも浴びたい。けどもう何もしたくないや。今何時だろう、時計を確認するのもめんどくさいな。
「Hey, Siri. 今何時?」
便利なものだ。スマートアシスタントに聞けばある程度の情報が得られてしまうんだから。うちにはAlexaも居るが、音楽再生から電話、果てはピザの注文までしてくれる。さては私を堕落させるつもりだな。
“Sorry, I don’t understand.”
最悪だ。そう言えば昨日設定を英語にしてみたんだ。くたばれ、昨日の私。無駄なカロリーを消費させたな。
英語で質問すればいいのだけど、なんとなく気恥ずかしくなってしまったので、脱ぎ捨てられたコートから愛機を取り出す。一人きりなのに恥ずかしいなんて馬鹿みたいだ。
「もう9時か、そりゃお腹も空くわけだよ」
一人暮らしの辛いところは身の回りの家事を全て自分でこなさなければいけないところだ。実家暮らしをしていた頃は気にも止めなかったが、母は毎日私のために家事をしていてくれていたのだ。面倒くさがらずに料理、洗濯、掃除。私は一生、同じようになんてなれそうもない。
そう、人間はできれば楽をしたい生き物なんじゃないかと私は思う。まっすぐいけば5分で着く場所に、迂回しながら3時間かけて向かうのは馬鹿げている。たまには違う道を行ってもいいかな、とは思うけれど、より苦労することを美徳とするのはどうなんだろう。
そりゃあ歩いてだって地球を一周できなくはないかもしれないけれど、動物に乗れば楽ができるし、車に乗れば雨風もしのいで何処へだって行ける。狩猟と採取だけでも人は生きて行けるかもしれないけど、蓄えておけばいざという時に死なずに済むし、何よりたくさん作っておけたら楽だ。
人類の進歩の一部はきっと「楽をしたい」気持ちが先導してきた道だと思う。単純な好奇心に突き動かされることだってあったかもしれないけれど、そのためにも面倒なことは簡単に片付いたほうがいい。料理、洗濯、掃除、好きでもないのなら誰かがやってくれたほうが絶対に楽チンで幸せだ。そのぶん絵を描いたり、ゲームをしたり、好きなことをする時間に充てることができるんだから。
日本では「AIに仕事を奪われる」だとかいう話がTwitterを騒がせているらしい。
仕事を"奪われる"というのはどういうことなんだろう。私にとっての「家事やりたくないよ〜」っていう気持ちに対して、ルンバが代わりに掃除してくれるのは「仕事を奪われた」ことになるのだろうか?やりたくもないのに?どうぞ代わりにやってください。
きっと彼らが言っているのはこういうことだ。「AIが人間の代わりに働くようになったら、雇用の機会が減ってしまう。ただでさえ仕事がなくて困っているのに。」
これはきっと私の考えている「仕事」と彼らの考えている「仕事」の間に違いがある。
私の考えている「仕事」はどちらかというと「作業」であり、できればやりたくない単純な反復作業だ。そして機械やAIが真に得意としているのはこの仕事であると思う。一方彼らが主張している「仕事」は「職業」の方だと思うのだけれど、私にはこれがピンとこない。
AIは私たちの職業を”奪う”のだろうか?ゴミを拾ってくれたり掃除してくれる機械があれば、「ゴミ拾い」という仕事は必要なくなるかもしれない。しかしそれは問題なのかな?みんなできればゴミ拾いなどしたくないだろうし、綺麗にすることに生きがいを感じてゴミ拾いをしたい人は、心のままにゴミを拾えばいいと思う。そう言った可能性を増やしてくれるのが代用品の「仕事」なんじゃないだろうか。
そうか、私にとって機械は労働力の代替品という認識なのだ。
単純作業でしか生きていけない人にとってこれはピンチなのだろうか?
ひょっとすると短いスパンでは問題なのかもしれないなあ、と思う。
機械が働いたぶん私たちが楽をできれば、働かなくても生きていける社会に、いつかきっとなる。機械の労働力が浸透すれば、きっと多くの「作業」をやらなくてよくなり、単純作業で生計を立てていた人たちは機械に生かしてもらえるようになる。でもその過渡期に、きっと行き場を失う「人間である必要のない人間」が生まれてしまうのだ。これは結構問題だ。
作業はみんな機械にやらせて、私たちはクリエイティブなことをしよう。というのは素晴らしい未来観だけれど、その道のりが曖昧なままではいけないんだろうな。いくらチャンスであるといえど、チャンスをつかめない人、初めから掴む気すらない人に「人間である意味ある?」と聞くのはかなり残酷だ。
なんだか余計疲れてしまったのでお風呂に入ろう。そういえばお湯を張るのもスイッチ一つで簡単だな。温度も私好みに設定してある。38度くらいがいいな、あんまり熱いとのぼせてしまうから。
じゃあ人間が人間である意味を持てるのはどういう時だろう。人間にしかできないことをしていればいいのだろうか?なら人間らしさとはなんだろう。機械と違うのは自由に、ランダムであれることだろうか?ならばやはり「やりたいことに情熱を注ぐ」生き方が最も人間らしくいられる気がする。素敵な話だ。
絵を描くことに喜びを感じる人は絵を描けばいい。いくら人工知能が絵を学んで描けるようになったところで、それは「絵画」という情報の集合であり、オリジナリティとは最も遠い絵だ。ランダムに特別な絵を描画できても、それを個性とするのは苦手だ。その点、人間だけはどこまで行っても「自分の絵」を表現することができる。自分独自のランダム性と、個人のパーソナリティに紐つけられた作品群。これはAIに代替されることはないと思う。ならば絵を描く職業は「画家のオリジナリティ」に根ざす限り不滅の職業なのだ。
「お湯が沸きました」
さっと服を脱いでお湯に浸かる。身体の境界線がお湯に溶けるようでいて、お湯の温かさが身体の輪郭を感じさせてくれる。ああ、生きてるなあ。
誰にでもできて、誰もやりたくない仕事。それを代わりにやってくれる文句を言わない存在がどうして嫌なんだろう。きっと彼らと私とで「働くことの尊さ」が違うのだ。
彼らは「働くこと」をその荷重で定義していて、楽をするのは良くないことだと思っているのかもしれない。人一倍努力してそれなりの成果を出す人が好まれる。反面、楽して大儲け、みたいな人は彼らにとって悪なのだ。
「できれば楽して生活したいなあ」
きっと人類は私みたいなめんどくさがりが進歩させてきたのだ。面倒くさがり万歳。楽するためには努力を惜しまない。そして私たちは文化を発展させていくんだ。
めんどくさいことは誰かにやってもらう。そして私の情熱は私という生きた作品を作ることに集中させる。ひょっとすると古代ギリシャ人や戦国武将なんかはそういう生き方ができていたんじゃないだろうか?羨ましいなあ。
お湯に浸かっていたらさらにお腹が空いてしまったけれど、まだ代わりに料理してくれるような機械は家にはない。残念だけれどお腹が空いたのでAlexaに注文してもらおう。
「Alexa, ドミノでいつものピザを注文して」
“Sorry, I don’t understand.”
最悪だ。
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