ユートピア

サトミサラ

ふたりの食卓【お題:朝ごはん】

 ――もしも死ぬのなら、朝がいいなあ。

 いつもみたいに、彼が少し困ったように笑って言ったのを、今でも覚えている。彼の声は、いつも感情の起伏をめいっぱい押し込めたみたいで、私はなんて返せばいいのかわからなくなる。このときも、私は何も言えないまま彼の横顔を見つめていた。

 それから彼がいなくなったのは、数か月が過ぎたころだった。たくさんの荷物を家に残したまま、何も言わずにふらっと出て行った。彼は元から気ままな猫みたいだったけれど、まさか身ひとつで出ていくとは予想もつかず、どこかで事故に遭ったんじゃないかと心配をしてみたり、そろそろ帰ってくるかなと玄関で待ってみたり、つまり私は、彼のことなんてよくわかっていなかった。

 ある冬の日、彼から手紙が届いた。いなくなってから、月と太陽が入れ替わるのを百回は見ただろうか。

「ほんとうにごめんなさい。僕のことはわすれてください」

 手紙の内容は、それだけだった。なんだか、彼の困ったような笑顔みたいな文面だった。几帳面に折りたたまれた薄い青の便せんも、線の細いうつくしい文字も、全部彼そのものみたいで私はすこしだけ泣いてしまった。丁寧に線をなぞるようにたたみ、封筒にしまう。捨てることはできないから、箱に入れて、さらにクローゼットの奥にしまった。これを開けるころには、私は彼を忘れているんだろうか。

 ――もしも死ぬのなら、朝がいいなあ。きみの作った朝ごはんを食べて、ふたりで笑いあって、さわやかな気持ちのまま死ぬことができるなら、僕はとてもしあわせ者だと思わない?

 反芻する声はしあわせなはずなのに、彼がなにを思っていたのか、私は今もよくわからない。

 クローゼットを閉めて、台所へ向かった。もうすっかり、二度目の朝ごはんにも慣れてしまった。彼が私を置いていかないよう、こっそりとかけた呪いだ。私はきっと明日も明後日も、ふたり分の朝ごはんを食卓に並べて、彼の帰りを待つのだろう。

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