繰り返し

「別の婚約者でもできたのでしょうか」

 マスターがそっと目を閉じた。回答がイエスでもノーでも驚かないようにするためだろうか。

 俺は軽く首を横に振った。

「残念ながら。むしろあの一件で女性恐怖症──は大袈裟かもしれないですが、信用することが怖くなりました」

 困らせるつもりはなかったのだが、気になってマスターに目をやると伏し目がちに慣れた手つきで同じカクテルを作っている。このまま続けていいのか少し迷ったが、仕事柄愚痴を聞くのにも慣れているのだろうと勝手に決めつけることにした。

「あれ以来、ずっと抜け殻のような生活をしてるんですよ。決まった時間に起きて会社へ行き、帰ったら寝る。その繰り返しばかり」

 両手をカウンターの上で組み、そっと視線を下へ向ける。そしてコツンと指先にガラスが触れた。新しいダイキリがカウンターに置かれていたのだ。それを一口含んだ。再び顔をあげる。

「はじめの頃は仕事に打ち込んで忘れようとしていたんですよ。でも、じき慣れてしまいました。新たな出会いを求める気持ちもなく、こんな頭にしたんですよ」

 右手で頭部を撫でる。ざらりとした感触が手のひらいっぱいに広がった。

「似合っていると思いますよ?」

 マスターは少し首を傾けながら微笑む。俺は急に恥ずかしくなって右手を下ろせなくなり、そのまま頭を掻き続けた。

「朝のセットが面倒だったからですよ。狙っていたわけじゃありません。少しでも長く寝ていたいからね」

 睡眠は一時的とはいえ現実から目を逸らすことができる。惰眠を貪り続けることができるのであれば、それに越したことはないのだ。

「なるほど。しかし、動機はどうあれ似合っていると思います」

 まっすぐに告げられると目のやり場に困ってしまう。慌ててグラスを呷る。

「あの頃に比べると、少し太られましたか?」

「え? ええ。食生活が乱れていますからね。コンビニ弁当やスーパーの惣菜で済ませてしまっています。昔は彼女が手料理を振舞ってくれていたのですが」

「料理の味はうるさかった」

「よく憶えてますね」

「プロですから」

 マスターは嫌味なく言い切る。

 5年前は彼女がときどき夕飯を作ってくれていた。同棲していたわけではないので毎日ではなかったし、だからこそ味に注文をつけていた。料理以外の家事をさせていたわけではなかったが、もしかしたら、これも振られた原因だったのかもしれないと今になって思う。

 俺は再び空になったグラスを右手の指3本でマスターの方へ少し滑らせた。何を意図しているのか察したマスターは、静かにダイキリを作り始める。

 カラカラカラカラ──シェーカの中の氷が小気味いい音を立て、微かに流れる曲のアクセントとなる。

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