名前―I
それから三十分ほどが経っただろうか。ミラは相変わらず煙草ばかり吸っていて、私は私で手にした本を静かに読み込んでいた。
ようやく落ち着けた、と心からの安らぎを覚える。当たり前のようにそこにあった静寂が、実は絶妙な均衡の上に成り立っていたのだと言うことを、私は百年かけて思い知ったようだった。
これからどうしようか、とぼんやり考え始めたところで、図ったように子供が目を覚ました。
ぱちくりとまばたきをし、傍らにいる私を見上げ、対面で行儀悪く寝転がりながら煙をふかすミラを見た。
どうやらこちらの方が話しかけやすいと思ったのか、美しい黒髪の少年か少女かは私へと再び視線を戻した。
「ミラ、目を覚ましたよ」
小さくそう伝えると、彼女はがばりと勢い良く飛び起き、手で包み込めるように幼い子を嬉しそうに撫でた。
「おはようさん」
親戚のおじさんみたいだ、と感じて、その可笑しさにくすりと笑った。子供は澄み切った表情で彼女の掌をまじまじと見て、口を開いた。
どんな声だろう、と二人で呼吸も忘れるほどにじっと待ち構える。が、子供は不明瞭な音を零すばかりで、中々言葉を紡ぎ出せない。
怖がっているのかと思ったが、どうやらミラは別の可能性を考えたらしい。不意に立ち上がり、子供をひょいと持ち上げた。
すーい、すーいと上下左右に揺らすと子供は嬉しそうに声を上げ、地面スレスレにまで落としたり、少し強めに振り回したり、一通りあやした後にそっとソファへと下ろした。
次にごめんな、と謝り、優しくデコピンをした。ぺち、と可愛い音がすると、子供はううー、と獣のような声を漏らした。
再びソファへと寄りかかり、彼女は囁いた。
「この子、喋れないのかもしれない」
「何で分かるの?」
「舌の動きを観察したんだが、生まれたての赤ん坊みたいな、拙い動かし方をしていた。三歳前後のそれと大きく異なる」
「それじゃあ、やっぱり捨て子なのかな……」
ミラが立ち上がり、カウンターのペン立てへ行くのを目で追った。ゴボウみたいな細さのペンを持ってきて、すらすらと空中を走らせた。
ホロペンシルというそれは、空中にペンを走らせると粒子が酸素と結合し、化学反応によって発光する仕組みを持っている。空気抵抗によってその場にしばらく留まるが、粒子の力が弱まれば自然と消えていくし、手で払えばたちまち形を失う。
すなわち保存性は皆無だが、知育玩具やコミュニケーションツールとしての利便性は高い。
喋ることが出来なくとも、文字は読めるんじゃないか。その可能性も確かめることにしたらしい。
ミラは空中に「なまえは?」と書いた。光の反射でランダムに移り変わる色を目で追いながら、子供はペンを持ってすらすらと先端を走らせた。
でたらめな曲線が浮かび上がると、少年は目を丸くしてそれに手を伸ばす。当然、それを掴むことはかなわない。霧散してしまった事実に気付くと、もう一度線を描いて遊びだした。
「おい少年、こっちの質問に答えてくれねぇか」
ミラは先刻書いた文字をぐるぐると囲んだ。少年は思い出したようにその平仮名四文字に視線を移し、じっと見つめた。
やがてペンを持ち上げ、子供らしい加減の知らない豪快な動きで一つの記号を描いた。
「?」
その形に、私達は顔を見合わせた。
恐らく、言語は理解できている。しかし年齢に見合うだけの知識が伴っていない。何とも歪な生き物だが、しかしそれが人間というものなのだろう。
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