第三節 現行犯

 丁度その頃、劉備は諸葛亮、龐統両軍師と会談していた。

 つくえの上には、荊州から益州への道程図が広げられている。

 その絹に描かれた地形の上で、劉備の家臣達の名が書かれた札が、二つに振り分けられていた。

 関羽、張飛、趙雲、諸葛亮の札は、荊州に。

 黄忠、魏延、龐統、そして劉備自身の札は、益州の側に。

 益州攻めの布陣が、三者会談の議題だった。


 と。

 不意に諸葛亮が顔を上げた。劉備がそれに気付き、

「どうした、孔明?」

 諸葛亮はうっすらと笑みを浮かべて、

「御客人です」

 手にしていた羽扇うせんを部屋の入り口の方へ差し伸べた。

 羽扇の先には簡雍と王索が立っている。

御主君とのさまには、そろそろ小難しいにも飽きてこられる時間だと思いましてな」

 満面の笑みで簡雍が言う。

「やれ、相変わらず口の悪い男だ」

 劉備は力無く笑う。

「で、どのような退屈しのぎを提案に参った?」

「城下の散策などいかがでしょうか? 孔明殿、士元殿、御主君の身柄を二時ふたときほどお借りしたいが、よろしいか?」

 簡雍は劉備にではなく、軍師達に同意を求めた。たとえ劉備が「嫌だ」と言ったとしても、彼は主君を連れ出すつもりだった。

「歓迎致しますよ。我が君にはご休息が必要です」

 諸葛亮はニコと笑んだ。


 事実、劉備には休息が必要だった。

 既に歳五十。年々体力を失いつつある初老の劉備は、若い軍師達との長時間の議論に疲れ果てていた。

 それ以上に、この程度で疲れ果てる己に苛立いらだっている。

 長きに渡り自ら戦場を駆けてきた劉備である。着実に訪れる「老い」と「衰え」に、彼はおびえていた。

 ここ数日間、彼の口元からは笑みが消えているのは、そのためかも知れない。

 諸葛亮は主君の「疲れ」を憂い、気晴らしという名の休息に賛同したのだ。

 しかし龐統は僅かに眉をしかめ、

「条件があり申す」

 と言う。そして険しい表情で、

「お戻りの際には土産を。そう、蓮の実の菓子を」

 まるで子供のようにねだった。

 すると簡雍は、

「相解った。干し杏があればおまけに付けましょうぞ」

 やはり険しい顔で答える。

 このやり取りは、果たして正気か冗談か。二人の顔色があまりに真剣であったので判断が付かない。

 どちらであったとしても、むさ苦しい男が二人、顔を突き合わしている様は、滑稽こっけい以外のなにものでもない。

 諸葛亮は瞼を固く閉じ、口元に羽扇を当てがった。どうやら笑いを堪えているようだ。その証拠に、肩が小刻みに震えている。

 堪え切れずに吹き出してしまったのは王索だった。

 それでも室内に居る間は声を出して笑いはしなかったが、劉備に中庭まで連れ出された頃にはケラケラと笑い出し、息を吸う事ができなくなる始末だった。


 伯父は呼吸困難に陥りかけている「甥」を伴って中庭を抜け、通用門へと向かった。

 衛兵は主君が突然外出すると言うのに驚き、慌てて馬を引こうとしたが、劉備はそれを制して足早に門をくぐった。

 そしてまだ笑いが抜けきれずにいる王索の顔を見ながら、呟くように言った。

「あの二人を益州に連れて行くと、荊州は火が消えたようになるやも知れんな」

 すると取り残されていた簡雍の声が二人を追ってきた。

「心配ご無用。翼徳めが残れば火種は残りましょう。あるいは火事になるやも知れませぬが」

 劉備が応えて曰く、

「案ずるな。子守に雲長と子龍を残す」

「父や叔父上達が、荊州に残るのですか?」

 王索は元から大きい目を、更に大きく見開いた。

 張飛も関羽も趙雲も自軍の主力であるのに、従軍させないと言うのが解せなかった。

 彼女の疑問に答えたのは、劉備ではなく簡雍だった。

で出駆けりゃ、に入られるだろうが」

 魏王曹操そうそうも、呉王孫権そんけんも、常に荊州の覇権を狙っている。

 こちらの軍備が手薄となれば、すぐにでもどちらかが……いや、両軍が攻め込んで来るだろう。その危険に対処し、更に魏・呉を牽制し続ける為には、強力な主力部隊を荊州に残して行かねばならない。

 王索は得心した。同時に羞恥もした。養父達が荊州に残される意味を悟る事ができなかったのが口惜しかった。

 そんな彼女の心中を逸早く察した簡雍は、彼女の背をポンと叩いた。

「気にするな。処世術なんてヤツは歳喰ってから憶えりゃいいんだ。気の回り過ぎる餓鬼なんてなぁ気味の悪いだけだぜ」

 すると劉備が眉を曇らせた。

「それでは遅いのだ」

 二人が主君の顔を仰ぎ見ると、彼は深く息を吐いた。

「これより先、荊益両州を治めて行くに、我が配下には人材が足りぬ。特に蕭何しょうか、あるいは淳于髠じゅんうこんの輩がな」


 蕭何とは漢帝国の高祖こうそ――つまり、劉備の遠い遠い先祖である――劉邦りゅうほうの功臣で、内地にあって戦地を扶けた名宰相さいしょう

 また淳于髠は、更にさかのぼった戦国時代、斉の学者で、弁舌に長け、良く王を諌めた忠臣だった。


 劉備の陣営にこう言った「王佐の才」を持つ者が少ないというのは、否めない事実だった。

「索。私は、お前にはその才があると見ている。憲和、お前もそう思わんか?」

「こいつは、まだ餓鬼ですよ」

 簡雍はちらと王索を見た。

 不安そうに、頬を膨らましている。

「だが、筋はいい。……お主がこれを鍛えてはくれぬか? その才をできるだけ早く開花させて貰いたいのだ。そのためにお主共々、索も益州に連れて行きたい」

 主君が自分の才を買ってくれている……若い家臣にとってこれほど嬉しい言葉はない。

 しかし王索は素直に喜べないでいる。

「これはまた、随分と重い任ですな……」

 師となる予定の男が不安そうに呟いた。

 王索は恐れていた。

 若輩の己では益州攻略の足手まといになる。もそれを案じている、と。

 だが簡雍の不安はそんなところにはなかった。

「俺がコレを預かった後、コレに万が一の事があれば……俺は雲長兄ィに殺される」

 彼は不精髭を撫でて唸った。

 王索はまた吹き出してしまった。

 簡雍の言うような事が『有り得る』と思ったからだ。


 関羽が彼女を可愛がる様は、実子に対するそれと同等か、それ以上だった。

 養父が赤ら顔を更に紅潮させ、愛馬を駆って師の元に乗り込んでくる様子は想像に安かった。

「だが、それは有り得ぬぞ」

 劉備の脳裏にも王索のそれと同じ光景が映し出されていたが、あえて否定した。

「雲長のは確かに名馬だが、荊州よりから益州までは日数がかかろう。その前にがお主を切り伏せるだろうからな」

 劉備は人通り少ない裏通りの、遥か彼方を指さした。

 家臣達が望むと、一頭のがこちらを指して駆けてくるのが見えた。劉備の指先はその馬上に向けられていた。

「あの馬は『小兎こと』! ……兄上!」

 王索は喜々として叫び、大きく両手を振った。

 主命を帯び、使者として江陵を守護する関羽の元へ出向いていた関平が、伯父への返信を父から預かり、戻って来たのだ。


 王索は、武術の師でもある五歳違いの義兄あにを慕っていた。

 関平は、真綿が水を吸うように自分が教えた事を憶えて行く、聡明な『義弟おとうと』を自慢に思っていた。

 血はつながらないが、関家の三兄弟は……二人の間に間にもう一人・関興かんこう安国あんこくという男子があり、これは常に父の傍に置かれている……大変に仲が良い。

 簡雍は首をすくめた。

主公とのの仰せの通り」

 先ほど二軍師の卓上を覗き見た折、関平の名札は益州攻略部隊の側に置かれていた。

 確かに、荊州に残る父親の堰月刀えんげつとうよりも、益州に進む兄の佩剣はいけんの方が、自分の首に近い。


 関平の騎馬「小兎」は、関羽の愛馬の仔である。

 父似の駿馬は、あっと言う間に騎手を主君の元へ運んだ。

 関平は小兎の背からひらりと飛び降りると、劉備の前に片膝をついた。

「主公。関平、只今戻りました。父よりの書状は臣の懐中に御座います。いかが致しましょうか?」

 仰々しい帰還の挨拶に、劉備も眉を引き締めた。

「ご苦労。書状は後ほど見よう。今暫く其方そのほうが預かれ。最早休んでよいぞ」

「はっ」

 一礼の後上げられた関平の顔は晴れやかに笑んでいた。

 そして先ほどの挨拶の堅苦しさはどこへ消えたかと思われる程、爽やかに伯父へ問いかけた。

「伯父上、お散歩ですか?」

「うむ、気晴らしにな。……お前は先に戻って良いぞ」

 伯父は眉を下げる。そして年下の甥へ向き直った。

「索、お前の兄は疲れておる様子だ。馬を引いてやれ」

 遠回しに『二人で帰れ』と言われたことを、内心、王索は喜んでいた。

 兄から江陵こうりょうにいる父母の様子を聞くのも楽しみだが、何より彼と二人で語り合えるのが嬉しい。

「ですが……」

 彼女はちらりと簡雍を見た。自分を散歩に誘ったのは彼なのだ。帰るにも彼の許しがいるだろう。

 簡雍は欠伸を一つした。

 そして、まるで野良犬でも追い払うような手つきをする。『とっとと帰れ』と言っているのだろう。

「お言葉に甘えさせて頂きます」

 王索は深々と頭を下げた。顔からは今にも笑みがこぼれ落ちんばかりだった。

伯父上おじさま叔父上おじうえ、それでは先に役宅へ戻っております」

 関平も一礼した。二人は仲良く小兎の手綱を引いて、劉備達と分かれた。


 ほんの数歩進んだ頃だった。二人は背で簡雍の声を聞いた。


「御主君、あの二人を捕縛なさいませ」

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