第26話「今川 氏真」24(全192回)
『戦国時代の群像』「今川 氏真」24(全192回)
「今川 氏真」(1538~1614)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、文化人。今川氏10代当主。父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は後北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府の下で高家として家名を残し、米沢藩上杉氏にその血筋を伝えた。天文7年(1538)、義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。永禄3年(1560)5月19日、尾張に侵攻した義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたため、氏真は名実共に今川家の領国を継承することとなった。桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。しかし、西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康の勢力下に入った。永禄4年(1561)正月には足利義輝が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。東三河でも、国人領主らは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年(1561年)、今川家から離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立って、小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。元康は永禄5年(1562)正月には信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562)2月、氏真は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・武田信虎の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう。 永禄7年(1564)6月には東三河の拠点である吉田城が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。同時期に武田家では世子・諏訪勝頼の正室に信長養女・龍勝院を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行ったというが、武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569)5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以て戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。同年、今川家臣の堀江城主・大沢基胤が、徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しているが、その際に基胤は氏真に「奮戦してきたが、最早耐えきれない。城を枕に討死しても良いが、それは誠の主家への奉公にはならないでしょう」と、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っている。氏真は今川家の逼迫した情勢を考慮して基胤の意見を受け入れ、「随意にして構わない、これまでの忠誠には感謝している」と、家康の軍門へ下ることを許可しており、また基胤のこれまでの働きを労っている。基胤は家康に降伏し、堀江城主としての地位は容認され、徳川家臣となった。掛川城の開城後、氏真は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った(大平城との見解もある)。のち小田原に移り、早川に屋敷を与えられる。永禄12年(1569)5月23日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で嫡男の範以はまだ生まれていない)。また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。 しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、元亀2年(1571)頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった。元亀2年(1571)10月に氏康が没すると、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は相模を離れ、家康の庇護下に入った。 掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年(1572)に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573)には伊勢大湊の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、各地に放火している。7月中旬には諏訪原城攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた。しかし、天正5年(1577)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では宗誾(と号している。この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。牧野城主解任後の動向は不明であるが、。天正11年(1583)7月、近衛前久が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している[21]。この後しばらくの消息は再び不明となる。天正19年(1591)9月、山科言経の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。 慶長3年(1598)、氏真の次男・品川高久が徳川秀忠に出仕している。慶長12年(1607)には長男・範以が京都で没する。慶長16年(1611)には、範以の遺児・範英(直房)が徳川秀忠に出仕した。『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年(1612)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している[。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、慶長18年(1613)に長年連れ添った早川殿と死別した。慶長19年(1615)12月28日、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟・一月長得が江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られた。寛文2年(1662)、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓と共に、今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある宝珠山観泉寺に移された。
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