第19話「尼子 経久」18(全192回)


『戦国時代の群像』「尼子 経久」18(全192回)「尼子 経久」(1458~1541)戦国時代の武将・大名。出雲守護代。長禄2年(1458)11月20日、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国に生まれる。幼名は又四郎。文明6年(1474)、人質として出雲・飛騨・隠岐・近江守護を務める主君・京極政経の京都屋敷へ送られ、この後5年間、京都に滞在する。滞在中に元服し、京極政経の偏諱を賜り、経久と名乗る。5年目に京都の滞在生活を終え、出雲国に下向する。文明10年(1478年)までに父から家督を譲られた。当初は京極氏側の立場であったが、次第に国人衆と結びつきを強くし、室町幕府の命令を無視して政経の寺社領を押領し、美保関公用銭の段銭の徴収拒否などを続けて独自に権力基盤を築く。だが、その権力基盤の拡大途上で西出雲の塩冶氏と対立するなど、権力拡大には限界があった。更に、これらの行動が原因となり幕府・守護・国人からも反発を受け、文明16年(1484年)に居城を包囲され、守護代の職を剥奪されて出雲から追放されたと後世の軍記物では書かれているが、守護代の職を追われたのみであり、出雲に在国したまま一定の権力は保有していたものと思われる。実際に長享2年(1488)、出雲の国人・三沢氏を攻撃し降伏させるなど、その権力が衰えてはいなかったことが確認出来る。ただ、守護代の地位に返り咲き、完全復権を果たしたのは明応9年(1500)であり、近江国でお家騒動(京極騒乱)に敗れて下向してきた政経との関係は修復した。そして政経の死後、出雲大社の造営を行ったうえで、経久は宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の統治者としての地位を確立しはじめる。なお、政経は孫の吉童子丸に家督を譲り永正5年(1508)に死去、経久は吉童子丸の後見を託されたとされるが、吉童子丸は程無く行方不明となり、経久が事実上出雲の主となっていった。ただし、永正9年(1512)、備後国人の大場山城主・古志為信の大内氏への反乱を支援している。この時期に次男の尼子国久は細川高国から、3男の塩冶興久は大内義興から偏諱を受けており、両者との関係を親密にしようとしていたものと思われる。永正10年(1513)、経久は弟の久幸に伯耆国の南条宗勝を攻めさせる一方、嫡男・尼子政久を叛旗を翻した桜井入道宗的の籠もる阿用城へ差し向けた。しかしその最中、政久は矢に当たって命を落とした。永正14年(1517)、大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護山名氏と手を結び、石見国内の大内方の城を攻めている。ただし、この時の大内氏との戦いは小競り合い程度のものであり、永正15年(1518)に本国・周防国に帰還する事になる大内義興の在京中より、経久が大内領の侵略を行っていたとする見方は正確なものではない。また、同年に備中国北部に力を持つ新見氏と手を結び、三村氏を攻撃している。永正17年(1520)、経久は出雲国西部の支配をようやく確立することになる。だが、一方で備後国の山内氏や安芸国の宍戸氏など国境を接する国人領主達との対立を生み、特に山内氏の出雲国内への影響力は無視しえないものであった。そのため、備後・安芸への進出は出雲の国内支配の安定化の必要上欠かせないものであり、それは同地域に利害関係を持つ大内氏との軍事的衝突をも意味していた。大永元年(1521)以降、尼子氏は石見国に侵入した。安芸国へも手を伸ばし、大永3年(1523)には重臣・亀井秀綱の命で傘下の安芸国人である毛利氏に、大内氏の安芸経営の拠点である鏡山城を攻めさせた。毛利家当主・毛利幸松丸の叔父である元就は策略を使い、城主・蔵田房信の叔父・蔵田直信を寝返らせ、城主・房信が自害し鏡山城は落城した。後に直信も自害させられた(鏡山城の戦い)。大永4年(1524)、経久は軍勢を率い西伯耆に侵攻し、南条宗勝を破り更に守護・山名澄之を敗走させた。敗北した伯耆国人の多くは因幡・但馬へと逃亡し、南条宗勝は但馬山名氏を頼った(大永の五月崩れ)。しかし、同年には尼子方であった安芸武田氏・友田氏が大内氏に敗北し、毛利元就は異母弟である相合元綱との内紛の後の大永5年(1525)に尼子との関係を解消して大内氏に所属を変えた。これらにより、尼子氏に傾いていた安芸国内の勢力バランスが変わることになった。毛利氏の離反は、毛利氏の後継争いに尼子家臣・亀井秀綱が介入したことが大きな原因とされているが、実際には経久の強い意向が働いていたと思われる。大永6年(1526)、伯耆・備後守護職であった山名氏が反尼子方であることを鮮明とし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲される形で窮地に立たされる。翌大永7年(1527年)、経久は自ら備後国へと兵を出兵させるも細沢山の戦いにて陶興房に敗走し、尼子方であった備後国人の大半が大内氏へと寝返った。享禄元年(1528)、再び経久は自ら備後国へと赴き多賀山氏の蔀山城攻めこれを陥落させるも、同年5月には石見国における尼子方の高橋氏が毛利・和智氏により滅ぼされている。享禄3年(1530)、三男・塩冶興久が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが伺える。また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。当時の大内氏家臣・陶興房が享禄3年5月28日に記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが伺える。また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している。だが、この反乱は天文3年(1534)に鎮圧され、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり自害した。その後に首検証の為、塩漬けにした興久の首を尼子側へ送っている。興久の遺領は経久の次男・尼子国久が継いだ。また、同時期には隠岐国の国人・隠岐為清が反乱を起こしているが、すぐに鎮圧されている。同年には詮久は美作国へと侵攻し、これを尼子氏の影響下に置く。また、その後も備前へと侵攻するなど勢力を徐々に東へと拡大していった。この後、詮久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加している。天文6年(1537)、経久は家督を嫡孫の詮久(後の尼子晴久)に譲っている。同年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取している。大友氏と大内氏の争いが続いていたこともあり(または大内氏とは表面上は和睦状態だった為)、東部への勢力を更に拡大すべく播磨守護の赤松政祐と戦い大勝する。これに政祐は一時、淡路国へと逃亡する。翌年の天文8年(1539)、別所氏が籠城する三木城が尼子方へと寝返ったため、政祐は堺へと逃亡。これにより詮久は京へ上洛する構えを見せたが、大友氏が大内氏と和解、更には尼子氏との和睦を破棄され石見銀山を奪回された。同年、大内氏によって尼子氏から援兵を受けていた安芸尼子方の武田氏居城佐東銀山城が落城、当主・武田信実は一時、若狭国へと逃亡する。そのため、詮久は出雲国へと撤退した。これにより大内氏との和睦は完全に破綻し、天文9年(1540)、大内氏との早期決戦を目指し大内氏勢力下にある安芸国人の毛利氏の討伐を武田信実の要請も受け入れ詮久は出陣。周囲の形勢は尼子氏に有利であり、その軍勢は諸外国からの援兵も加わり30,000騎へと膨れ上がっていた。この大軍を率い吉田郡山城を包囲、大内との決戦に備えるも翌年には厳島神社にて戦勝祈願を終えた陶隆房率いる大内援兵20,000騎との激戦の末に敗北し、尼子氏は安芸での基盤を失った(吉田郡山城の戦い)。天文10年(1541)11月13日、月山富田城内で死去した。享年84(満82歳没)。


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