第3話「徳川 家康」3(全192回)

『戦国時代の群像』3(全192回)「徳川 家康」

「徳川 家康」(1542~1616)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍[1]。三英傑の一人で海道一の弓取りの異名を持つ。家系は三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日(1567)に勅許を得て、徳川氏に改めた。松平元信時代からの通称は次郎三郎。幼名は竹千代(たけちよ)[1]。本姓は私的には源氏を称していたが、徳川氏改姓と従五位の叙任に当たって藤原氏を名乗り、少なくとも天正20年(1592年)以降にはふたたび源氏を称している。馬印は金扇。兜は歯朶獅嚙輪貫前立大黒頭巾形兜。徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した[1]。家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代。松平氏は弱小な一地方豪族(国人)であった。家康の祖父・松平清康の代で中興したが、清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により清康の嫡男・広忠が命を狙われ、伊勢に逃れる事態により衰退。帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、同盟者であった戸田康光に奪われ、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏(今川義元)の元で人質として忍従の日々を過ごした。この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(もとのぶ)と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康(もとやす)と名を改めた。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川氏(義元の子・氏真)と決別し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)。この際、(義元からの偏諱(一字)を捨てる意味で)名を元康から(松平)家康(いえやす)に改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国・遠江国に版図を広げていくこととなる。永禄9年(1567)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった。以後近江、遠江、三河などを転戦し、天正10年(1582)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、神流川の戦いにより空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって関東の後北条氏、越後の上杉氏と争い(天正壬午の乱)、この二ヶ国を手中にしてさらに勢力を広げた。天正12年(1584)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉との対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙した[1]。この戦いで家康は軍略的には勝利したものの、政略的には後れをとり、しかし屈服せずに講和[1]。豊臣秀吉が実母を人質にさし出した後に、上洛して豊臣氏に臣下の礼をとった。天正18年(1590)、小田原征伐において関東を支配していた後北条氏が敗北し退けられた後、秀吉から関東への領地替えを命じられ(関東移封)、長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となった。三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542)12月26日寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。3歳のころ、水野忠政没後の水野氏当主・水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。6歳のころ、広忠は織田氏に対抗するため駿河国の今川氏に従属し、竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への従属を貫いたため、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。このときに織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。2年後に広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(前年の天文18年(1549)、安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府(『東照宮御実紀』では少将宮町、武徳編年集成』では宮カ崎とされている)に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領のうち山中三百貫文の地を返付し、腰刀を贈った。永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。翌19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした。義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い段階で今川からの独立を果たそうとする。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある。永禄4年(1561年)4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした。折しも今川氏の盟友であった武田信玄・北条氏康は、関東管領上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる。なお、この2か月前には将軍足利義輝に嵐鹿毛とよばれる早道馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府に認めて貰おうとしている。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている。その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。永祿7年(1564年)三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。天正18年(1590)7月5日北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり[注釈 14]、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが、結局北条氏の旧領国に移されることになった。この移封によって150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした小田原城ではなく、江戸城を居城とした(江戸入府、8月1日)。関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて対抗勢力に勝利し、その覇権を決定づけた。慶長8年(1603年)には、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させた。慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の陣において豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)。元和2年(1616年)、駿府城にて死去する。享年75。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)。家康は薬師如来を本地とする東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、信仰の対象となった。また、江戸幕府の祖として「神祖」、「烈祖」などとも称された。

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