三忍拍子

瀬良ニウム

第一章



時は延享三年。

長く続く徳川の世にも、少しずつ陰りが見えるようになっていた頃。

江戸の町には、秋の寒さが感じられるようになっていた。


長雨の季節が過ぎ、昼はにわかに活気づく町も、夜には虫の声が聞こえる程に静かだ。


「おせん、誰か外に来たようだ、様子を見てきてくれるかい?」


古い長屋の一角に、おせん、と呼ばれる少女が父親と二人で暮らしていた。

歳は十ほどで、賢く、器量が良いと幼くして評判の娘だ。


「はい」


おせんは父親に言われ、布団を整える手を止め土間へと降りた。

草鞋を履き、戸へ少し耳を貸す。



物音などはせず、外は静まりかえっている。

「おとっつあん、誰か居るようには思えないけれど・・・・」

そう言いながら戸を引き、ふ、と目の前にある何かに目を丸くした。


誰かが、立っていた。


おせんの鼻先が触れそうなくらいの場所に、微動だにせずにいる。


恐る恐る顔を上げると、ひっ!と息を飲んだ。


月明かりに照らされ、闇夜に妖しく浮かび上がる灰色の長い髪。

そして顔には鼻から上だけの猫の面をつけ、唇は紅をさしているかのように赤かった。

口端をつり上げ、笑っているようだ。


色白で、女のようにも男のようにも見えるが、その体格は男そのものだった。


「可愛い大きな目が落ちそうだよ、せん。おとっつあんは居るかい?」


顎に細く長い指を添え、首を傾げる所作は女のようで、声だけが少し低く妖艶だ。


そして、自分の名を呼ばれたことにおせんはハッとした。


「ど、どなた様で・・・・」


心当たりは無い。

震える声で訊ねると、言い終えるより先に奥から父親が顔を出した。


「おせん、どうかしたのかい?」


ふいに父親も、おせんの先に佇む人影に目をやり、息を飲んだ。

「あっ、ああっ!!」

その人影に、目を見開き、声を上げながら立てずに後ずさる。


おせんはすぐに、父親はこの者を知っているのだと悟った。

そしてこの者も、父親を訪ねてきた。


嫌な汗が、おせんの頬を伝う。


「おとっつあん!!」


おせんの叫び声に押されるかのように、父親は手をついて立ち上がり、部屋の隅の壁板に背をつけた。


「ほう、俺が誰だか分かるんだねえ」


男はおせんの両肩を優しく押すと、邪魔するよ、と言いながらひらりと跳びはねて座敷へ上がった。

身のこなしが軽く、まるで重さなど無いかのようだ。

白と紺で重ね合わせた着物の裾が、蝶のように舞った。


「その面に、その髪!お、おまえ!」


じりじりと近づく男から逃げるように壁をつたい、父親は裸足のまま土間に立つおせんの所まで降りてきた。


こんなに怯えた父親は、見た事が無かった。


優しく、常に笑っていた父親の面影は無く、目を見開き蒼白な顔で震えている。

額からは汗が噴き出し、足元もおぼつかない。


「お、おとっつあん、あれは・・・・」


おせんが問おうとしたその時、父親はおせんの肩を思いきり押して戸から外へと飛び出した。

その反動でおせんは倒れ、腰を土間へと打ちつけた。


猫面の男は、またひらりと土間へ跳び降り、父親を追いかけて外へと走っていく。


後を追おうにも、おせんの腰は上がらずにいた。


「おとっつあん!」


必死に叫ぶが、二人が走り去る音しか聞こえない。

目から頬へ涙が伝い、おせんはそれを拭った。

怖い、けれどそれよりも、自分の声をまるで聞かずに逃げて行った父親が、何故かたまらなく悲しかった。


そんなおせんの気持ちに応えるかのように、誰かが後ろから腕を持ち、グイとおせんを立たせる。

他に人のいるような気配はしなかったと、驚いて振り返った。

先の男とはまた少し違う風体の、やはり妖しい男が立っている。


顔に猫のような面をつけてはいるが、今度は鼻から下の半面で、口元は隠れている。

紺色の髪に、瞼には赤く紅が引かれ、大きい目がより際立って見えた。


「おまえを置いて逃げていく、あれがおとっつあんか?」


話し方は男らしく、灰髪の男よりも柔らかい。


おせんの涙を袖で拭うと、頭を撫でた。

先の男は随分と色の珍しい着流し姿をしていたが、こちらの男は薄青い小袖に黒い袴の裾を括り、随分と対照的だ。


それなのにどこか、似ている空気を持つ・・・・。

そんな風にぼんやり考えていたおせんを見て、男は笑った。


「怖かったんじゃないのか?」


その言葉に我に返り、数歩後ずさる。


「お、おとっつあんをどうするの?どうして追うの?何しに来たの!?」


段々と口調が強まり、また涙が溢れそうになる。

男はそんなおせんを黙って見つめ、溜め息を吐いた。


「やっぱり、覚えちゃいないんだな、俺たちのこと」


悲しそうに、笑う。

口元は見えないが、おせんには男の表情がそんな風に映った。


「覚えて・・・・?」


目を細め、男を見つめ返す。

どこかで、会ったことがあるのだろうか。

五つの時にこの長屋へ来てから、こんな男は見た事がない。

むしろ、こんな風体の男たちを見た事があれば、忘れる訳がない。


しかし、男が嘘をついているようには見えなかった。


何か、言葉をかけるべきか・・・・おせんがそう思った時、遠くで父親の叫び声が響いた。

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