第146話 人を論破しても意味ない件
人を論破しまくる「論破王」として有名な、ひろゆき氏がどこかで言っていたが、本当に頭のいい人は他人を論破などしないということである。というのも、論破することなく他人を思い通りに操るのが本当に頭のいい人だから、と。
なるほど。
ひろゆき氏の話と通じるところがあるのか無いのか分からないけれど、わたしは、論破の無意味について語りたい。
人を論破しても意味ないです。
なぜか。
それは、論破したところで何らの効果も生まないから。
あなたは論破されたことがあるだろうか。論破されて、「確かに相手の言うとおりだな。じゃあ、その通りにしよう」と思ったことがあるだろうか。そんなことはないだろう。それどころか、論破されたことに腹が立って、いっそうこんなヤツの言う通りになどしないと固く心に誓ったのではないだろうか。
まずは、そういうことである。
人を論破しても、論破された方は行動を改めることはない。
効果が無い。
だから意味が無い。
次に、「いや、わたしは他人の意見を尊重して、論破されたら必ず、その他人の言う通りにしています!」などと言う人がいたとして、これはただのアホである。
もう一度言います、ただのアホ。
なぜか。
ある人に論破されたとしても、その人が正しいとは限らない。あなただから論破されたのかもしれない。あなたではない他の人なら論破されなかったかもしれない。あるいは、今のあなただから論破されたのかもしれない。もう少し未来のあなたなら論破されなかったかもしれない。
つまり、相手が正しいのはそのときの対あなたとの関係の中だけであって、それが真実であるとは限らない。
本当に正しいかどうか分からない相手の言葉に従う、それをアホという
というわけで、論破というのは、第一に効果が発生することがほとんど無く、第二に効果が発生したとしてそれは正しさによるものではない、という点で無意味なのである。
もちろん、どうしても相手を論破しなければいけない場面というのも存在する。たとえば、裁判である。裁判の場合は、相手方を論破した、あるいは、少なくとも論破したのだという印象を持たせないと、裁判官にこちらの主張を受け入れてもらうことができない。そういうときは、是が非でも、相手を論破しなければいけない。
ただし、これは例外である。裁判以外で他人を論破しないといけない時というのが、どのくらいあるのだろうか。
まずないだろう。
論破しようがしまいが、事態は変わらない。
事態は何によって変わるか。それは現実の力関係によってということになる。力が強い方が事態を変える。正しい方が変えるのではない。これは、あんまり面白くない話かもしれないがやむをえない。そうして、そういう面白くない話を直視できない限り、本当の意味でものを考えることはできない。論破したりされたり、くだらないことを繰り返して、一生を過ごすことになる。
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