第69話 嫌いなものを好きにならない努力

嫌いなものを好きにならせようとする言説があふれる世の中である。


いわく、「嫌いな仕事にも楽しいところがある」。

いわく、「嫌いなあいつにもいいところがある」。

いわく、「嫌いな食べ物にも栄養がある」。


このような言説に乗せられると、すぐに嫌いなものも好きになってしまう。まことに意志薄弱と言わねばなるまい。わたしは、意志を固く持って、このような言説に乗せられることなく、嫌いなものは嫌いなままでい続けようと思う。嫌いな仕事はできるだけやらないし、嫌いなあいつとは話はしないし、嫌いなグリーンピースは食べない。


嫌いなものを好きにならせようとする言説の裏には、嫌いであることよりも、好きである方がいいだろうという価値判断がある。何かを嫌いであるということは、その人にストレスを招き、その人の見方を狭くする。そう信じられている。加えて、価値相対主義という価値観も潜んでいる。これは全ての価値は相対的であるというものだ。「きみはあいつのことを嫌いかもしれないが、ぼくからみたらあいつはなかなかいいやつなんだよ。きみはあいつの一面しか見ることができていないのではないかな」というやつである。


何かを嫌いであるということは、その人にストレスを招くかもしれない。認めよう。しかし、わたしはそのストレスに耐えようと思う。嫌いを好きに転換してストレスを避けるのではなく、ストレスに耐える。なんと潔いことではないか。


何かを嫌いであるということは、その人の見方を狭くするだろうか? わたしは、そうは思わない。何かを嫌いであることを誠実に認め、しかし、その存在を排斥しない。グリーンピースを嫌いであることを認めつつ、「グリーンピースよ、世の中からなくなれ!」とは、思わない。このようにすることで、ものごとを、「好き―嫌い」によってとらえるという、狭い見方から逃れることができる。返って視野は広がる。


価値相対主義については、ほとんど述べることは無い。その考え方自体が絶対化していると言えば足りる。


嫌いなものを好きになろうという言説には、どこか倒錯的な匂いがある。なぜ人は嫌いなものを嫌いなままでいられないのか。嫌いなものを好きになるより、他に好きなことを見つければいいじゃないか。嫌いなものを好きになろうとしている人は、他に好きなものを見つけようとする努力を怠っているのではないか。グリーンピース以外にも栄養のある食物はたくさんあるし、あの人以外にもステキな人はたくさんいるし、この仕事以外にもすべきことはたくさんある。世界の広さを信頼して、それらのものを探す努力をすべきなのではないか。そのような考えによって、わたしは、嫌いなグリーンピースは食べないし、嫌いな人とは話さないし、嫌いな仕事はしないようにしているのである。


今後も、嫌いなものを好きにならせようとする言説があふれる世の中において、嫌いなものを好きにならないよう努力し続けようと思う。

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