第24話 自分を捨てればその分だけ自由になる

確固とした自分を持つこと、自分の意志と力でもって人生を切り開くこと、というのは、一昔前と比べて、その価値が多少低くなったのか、あるいは、ますます高まったのか詳しくは知らないけれど、少なくともすたれた考え方ではないと思う。


さて、ここで言われるところの、「自分」とは一体何だろうか? 自分とはまずは肉体のことだろう。その肉体は誰が作り出したものか。親である。


自分は肉体だけにとどまらない。人間には精神がある。精神こそが「自分」だ、という意見があるだろう。では、その精神は誰が作り出したものか。社会である。


すなわち、あなたの肉体も精神もあなた自身が作り出したものではなく、自分というのは、親なり社会なりと、外から与えられたものにすぎない。あなたが自分の意志で何かをしているように思っても、そのための条件は、全て所与のものである。


だとしたら、自分、自分とそんなに息巻くことはないだろう。何かを成し遂げてもそれは自分の力でしたことではない。日本語の古語には、「~できる」という個人の能力を表す表現はなかった。稲が実るのは人の技ではなく、天の仕業というわけである。


自分が為したことは自分の力によるのではないから周囲に感謝しましょうと言えば、説教である。わたしは坊主ではないのでそんなことは言わない。自分の力ではないということはただの事実なのだから、事実に感謝するかしないかは、性格や気分の問題だろう。


自己実現や社会的成功のためにがんばっている人は多いと思うが、実現すべき「自己」や、社会的成功を得る「自分」などというものは、いったん脇に置いてみたらどうだろうか。あなたは、たまたま今の自分だっただけで、そのたまたまの自分のために何かを実現したり、成功を得たりする必要は無いのだと。そう考えることができると、その分だけ自由になることができる。他人を見て羨むこともない。あの人はたまたまそういう人だったのだと考えればいいからだ。


確実な意志的な主体としての自分というものが好まれているようだが、そんなもの捨ててしまおう。チェーホフという作家は、『風邪を引いても世界観は変わる。よって、世界観とは風邪の症状にすぎない』と言った。世界観=自分だと考えてみれば、風邪を引いたくらいで変わるものが自分なのだから、そんなものはそう大したものではないのだ。

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