第42話 とある男の咆哮
それからのことは、よく覚えていない。
状況をよく飲み込めないまま奥さんが呼んだタクシーに乗って病院へ。幸いにも信号機に恵まれ、ほとんど止まることなく流れる窓の景色を見ながら、心はどこか自分とは離れた場所を浮かんでいるようだった。
病院に到着し、外来外科の受付に赴く。看護師に引率され、しかし案内されたのは病室でも手術室でもなく、地下にある冷たい空気に満ちた部屋。霊安室。
部屋の前にはスーツ姿の男が数人いた。刑事だった。男を里香の旦那と知るなり、彼らは慰めの言葉を口々に唱え始める。内容は全く耳に入ってこなかったが。
その後、霊安室へ通される。そして、彼ら立会いの元、里香の本人確認をさせられた。
ベッドに横たわる里香は、頬や手足に痣がいくつか見受けられた。
だけど、とても死んでいるようには見えなくて。声を掛ければ、いつでも瞼を開いて、自分に笑いかけてくれるんじゃないか、と。
「我が院に運ばれた時にはもう、奥様は……」
しかし、医師は言うのだ。
里香が死んだ要因。車に撥ね飛ばされ、道路に強く頭を打ち付けた。それが原因の頭蓋骨陥没骨折による脳挫傷でほぼ即死状態。
そして、医師は言うのだ。
「せめて、お腹のお子様だけは、と思ったのですが…………我らの力が足りず、申し訳ありません……」
犯人は20歳の男。事故発生直後、一度は逃走したものの、のちに警察署に自首をして今は取り調べの真っ最中だと言う。
現場の目撃情報、近くのコンビニの監視カメラの映像と、その男の自供が合致し、犯人が確定したため司法解剖はしない。
そのため、すぐに遺体を移送することはできるのだが、事が急なだけに、夜まで病院に安置しておく。その間に自宅に戻り、近親者へ連絡と葬儀の段取りなどの諸々を決めてくれ、と言われて帰された。
そうして独り歩く、夜の道。
夕方になる前に病院を出たはずなのに、どうして自分はまだ外を歩いているんだろう。病院から家まで、徒歩で一時間も掛からないのに。
細い街路の真ん中で立ち止まり、ぼんやりと自分の行動を振り返る。病院から出て、自宅に向かった。少なくとも、男はそのつもりだった。
しかし、頭とは裏腹に体は遠回りの道を選び続け、さらに途中にある公園のベンチで休憩したり、近くの本屋に寄って立ち読みすらせずに出てきたり、なぜか目に付く花屋を巡ったりと、意味不明な言動を取っていたことを、白で埋め尽くす記憶の貯蔵庫から断片的に思い出す。
そりゃ夜になるはずだ、と乾いた笑みを禁じえなかった。
急がなきゃならない。いろんな人たちに連絡しなきゃいけない。これからの事を考えないといけない。分かってる。分かってる。
だけど、それでもまだ現実が追いついてこない。今まで見聞きしたこと全て、夢のように思えて仕方が無い。頭も心も納得しようとしてくれない。このまま、誰もいない真っ暗な部屋に帰ることが、どうしようもなく怖い。
そういえば、里香と初めて出会ったのもこんな夜だった。酔っ払いから助けたことを理由に、いくら追い払っても家の前まで付き纏ってきた彼女。
もしかしたら、振り返ればそこにいるんじゃないか……と。
振り返ってみても、一時停止の標識の影が右足の脛辺りを踏みつけているだけで。
「……帰ろう……」
今は、正解を見つけられそうにない。それならば、せめてやるべき事をやろう。そう思い、今度こそ家への道を歩き出す。
そうして自宅マンション前の路地に差し掛かった時だった。後方からゴロゴロとタイヤの音が聞こえて、後ろに目を向ける。ヘッドライトをつけてないワンボックスカーが路地を静かに徐行していた。
なんでこの細い道を、ライトもつけずに選んだのか。若干の違和感を抱きつつ、男はやり過ごそうと路地の端に寄り、車が通り過ぎるのを待った。
が、車はなぜか男の目の前で停まり、その瞬間、いきなり後部座席のドアが開いて中から複数の手が伸びてくる。
「なんだお前ら?! はな――、っ」
抵抗する間も無く内部に引き込まれ、速やかに口の中にタオルらしき布が詰め込まれる。さらに目隠しをされ、両手は縛られ、完全に自由を奪われてしまった。
「出せ!」
男性の声の後、ドアの閉まる音がして、車の走行する振動が伝わってくる。そこで男は全てを悟り、目隠しの下で瞼を閉じた。
車は、およそ一時間後に停まった。男は無理やり引き摺り出されて、冷たい地面に放り捨てられる。
そして、男に対する容赦無い暴行が始まった。無防備の腹に蹴りを叩き込まれ、顔を踏みつけられ、髪を掴んで振り回される。前歯は折れ、口の中に血が溜まり、自分でも意図せずに小便を垂れ流した。それでも暴力の雨は尽きることなくこの身に降り注ぐ。
やがて、全ての感覚が遠のき、意識が朦朧としてきた頃に暴行は終わった。
暗闇の中、一つの足音が聞こえてきて、間も無く視界が開かれる。殴られ過ぎて焦点が合わないピンボケの世界で、それでも認識できる見知った顔が、冷たく自分を見下ろしていた。
「よぉ。お久しぶり~」
荻野。自分を闇の世界へ導いた男。
だが、男は特段、驚くことはなかった。車に連れ込まれた時点でなんとなく気付いていたからだ。この誘拐の手法も、よく知っているやり方である。
ならば、全てを受け入れよう。散々、痛めつけられ、そして命の保証すらないこの絶望的な状況において、されど男の心は穏やかだった。
これはあの日、つけられなかったケジメ。恩人を裏切り、あまつさえその責任すらも背負わなかった男の当然の末路なのだ。
荻野をよく観察すると、目隠しを持つ右手の小指が無い。きっと、逃げた自分の尻拭いをさせられたのだ。顔にも以前にはなかった大きな傷跡があって……だから、男に対する恨みは相当のものだろう。
なので、ここで殺されても文句は言えない。里香や子どものいないこの世界に未練も無い。喜んで、彼の復讐劇のキャストとして果てよう。道具として生きてきた自分に相応しい最期だ。
そう観念して、男は腫れ上がった瞼を閉じた。
そんな男の態度を見て、荻野は舌打ちをする。せっかくの復讐劇なのに、あまりのリアクションの薄さに苛立ったのだろう。
しかし、荻野の仏頂面は、すぐにイヤらしい笑みに変わる。頬を叩いて男に目を開かせ、銜えていたタバコを口から離した。
「おいおい、五年振りの再会だってのにずいぶんと淡白じゃねーかぁ。こっちはお前に会いたくてしょうがなかったって言うのによぉ。そんでようやく見つけたと思ったらお前、結婚してたんだって? それだったら披露宴に呼んでくれたっていいじゃねえかよ。御祝儀くらい包んでやるのに、水
そう言って、荻野はタバコを顔に押し付けてくる。祝儀のつもりなのだろうか、皮膚が焼ける痛みに男は頬を引き攣らせた。
男の反応に荻野は口の端を歪め、さらに言葉を重ねる。
「で? ガキまでこさえてたって? でも、可哀想に。死んじゃったんだよなぁ? 美人の奥さん諸共、交通事故で」
「…………!」
なぜ、それを知っている?
荻野の口振りから、自分たちの身辺情報を事前にリサーチしていたことは分かった。しかし、交通事故は今日、ほんの数時間前に起こったものだ。里香の遺体は病院にあり、まだ葬儀も行っていない今、いかに情報を掻き集めようと2人の死を決定付ける証拠は存在しないはず。
もし、それが分かるとするならば。
死を断言できるヤツがいるならば……それは、里香を轢き殺した張本人。
「…………まさ、か。まさか、お前が……」
「……ひっ。ひひっ」
「お前が、里香を。里香をおおおおおぉぉぉ!!!」
「ひははっ! ひゃーっはっはっはああああああああっ!!」
狂ったように笑い出す荻野を見て確信する。荻野こそが里香を殺した真犯人である、ということを。
つまり、警察に自首したのは影武者。出所後にある程度の地位や報酬を約束されて荻野の身代わりとなった、下っ端の構成員。
「お前のその顔が見たかったんだよ! だからこの俺自ら手を下したんだ! その甲斐あって……ひひっ、やっぱり死んでたんだなぁ! しかもガキまで! まあ、その手応えがあったもんな、思いっ切り跳ねた時によぉ!」
「手を外せえ! 殺してやる! てめえ絶対殺してやるぁあ!!」
「ひひひひひっ。だぁれが外すかよ馬鹿が。そんで……殺すのも俺だ」
荻野は、背後に屹立する部下から大型のナイフを受け取り、それを男に構えた。
「お前だけは俺が殺したかった。てめえのせいで大損こいて、俺がどんだけの目にあったか…………正直、まだまだ足りねえが、これで終いにしておいてやるよ。感謝しな」
「ざけんなぁ! だったら俺を狙えばいいだろうが! どうして里香をぉ!」
「はっ、ついでだよ。女房やガキ程度じゃお釣りにもならねえがな。まあ、死んだって寂しくねえだろ? だってあの世であいつらに会えるんだからなぁ!」
そして、荻野はまたけたたましい笑い声を上げる。
倉庫らしきだだっ広い空間に木霊する、悪魔が如きおぞましい歓声。その反響音の中で、荻野は男の耳元に顔を寄せた。
「あの女も可哀想に。お前なんかと出会わなかったらもっと生きれたろうに。あれだけの美人なんだ、お前よりもっと良い男を捕まえて、そんでちゃあんと子どもも産めて、幸せな人生を送れたろうになぁ」
「黙れえ! 里香のことを何も知らないくせに! あいつは、あいつはぁ……!」
「ははっ、なんだお前、まさかマジで幸せにできると思ってたのか? たくさんの人を不幸にしてきた、社会の底辺を這いずるゴミ虫のお前が?」
「うるさい! 黙れ黙れだまれえええええ!」
「結局、あの女を死に追いやったのはお前なんだよ。お前が分不相応な幸せを求めたから、その代償をガキと一緒に支払う羽目になった。自覚しろ。お前に誰かを幸せにする力は無い。お前は……人を不幸にすることしかできない人間なんだよ」
「――――っ!」
荻野の言葉が、矢鱈と脳内に響き渡る。その影響か、思考回路が完全にストップし、脱力する体の奥底で、心臓だけがいやに激しく動いていた。
全身の血液が加速する。過剰に配給される酸素が脳みそを叩き、おぼろげになりかけていた意識の中で記憶の扉が開かれた。里香と過ごした日々が、まるで走馬灯のように駆け巡り、えも言われる陶酔感がじゃぶじゃぶと脳から溢れ出る。
だけど、彼女はもう、いない。
熱くなる体とは対照的に、冷え込んでいく心。
現実が、一気に押し寄せてくる。里香は死んだ。誰が殺した? 荻野が殺した。自分と結婚してしまったせいで。恋してしまったせいで。出会ってしまったせいで。
じゃあ、里香を殺したのは、やっぱり――
――俺。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
導き出された一つの解が、胸の中で激しく暴れまわる。衰弱した体に獰猛な力が満ちていき、視界は見る見る赤に染まっていった。
「じゃあ、あばよ」
真紅の世界でケラケラと笑う荻野が、両手でナイフを高く構えて、振り落とす。
――その刹那、男が飛び上がるように上体を起こし、荻野の喉笛に食らい付いた!
「ぎぃえっ?!」
突然のことに、首を捻られた鶏のような悲鳴を上げる荻野。男は顎に力を注ぎ、深々と犬歯を皮膚に食い込ませた状態で頭を一気に後ろへ振り抜いた。
「ぎぃやあああああああ?!」
ぶちぶちぶち、という何段階の抵抗と、皮膚と肉が裂ける音。金切り声を上げる荻野は、鮮血を撒き散らしながら地面にひっくり返った。
その隙を見逃す男ではない。噛み千切った肉を吐き捨てて、彼は荻野に飛び掛かる。
「ひぃっ?! 来るなぁ!」
怯える荻野は、咄嗟にナイフで応戦した。しかし、その行動は悪手だった。
男は差し出された刃を、手首を縛るロープで受け止める。そうして激しく左右に振れば、三重に巻かれたそれの一部を断つことができた。
拘束具としての意義を失い、するすると男の腕から滑り落ちていくロープ。
「ぐうぅっ。お、お前ら! やれ! 全員でこいつを殺せええええええ!!!」
地面に倒れたまま必死に後ずさりする荻野が、部下たちをけしかける。しかし、1人として動こうとしない。獣が如き眼光を誇る彼に、誰が立ち向かえるというのか。
その間にも男は徐々に荻野たちとの距離を縮めていき、
そして―――
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