第37話 とある青年とキャバ嬢
――今宵もまた、見ず知らずの人に拳を振るう。
「ぐあっ! げほっ。えっ、かはっ……おぅえっ!」
繁華街の賑わいが微かに届く、薄暗い路地裏。腹部を押さえて蹲る中年男性が、地面に吐瀉物を撒き散らす。そんな男の後頭部に足を沿え、一思いに踏み付けた。
「ぶぅえっ?! あう”っ、ず、ずみません! あぶっ、はぁ、もう……もぉ、勘弁してください。許してください……お願いします……」
固形物はほとんど見当たらない飴色の溜まりに溺れながら、中年男性は掠れた声で必死に懇願してくる。
そんな男の手を振り払い、青年は彼の尻のポケットから露出している財布を抜き取った。そこにある紙幣を全て回収し、さらに運転免許書を取り出して、それをスマートフォンのカメラ機能で撮影してから地面に財布ごと放り捨てる。
「さっさと失せろ。そして、店に二度と来るな。お前の素性は記録したから、警察に言えば命はねえぞ。分かったな?
「わ、分かりました! すみません! すみません!」
田山という男性は落ちた財布と免許書を急いで拾い、よたよたと覚束ない足取りで路地を駆けていく。そうして彼が路地の闇に消えるまで、青年はその情けない後姿を厳しい目付きで睨み続けていた。
その時、ぽたり、と耳元で音がする。頭の切り傷から滲み出た一筋の血が、頬を伝って顎からスカジャンの襟に流れ落ちたのだ。
青年は慌てて踵を返し、近くの店舗の裏口のドアを開けた。そこの通路にはウェイター姿の男性が待ち受けていて、青年を見るなりビクついた調子で頭を下げてくる。
そんなウェイターに回収した数枚の紙幣を渡し、ついでに救急箱を持ってくるように頼んだ。彼は急いで返事し、バタバタと通路を走り出していく。
足音が遠ざかった後、青年は煤けた壁に背中を預けて、虚空に溜息を溶かしたのだった。
暴力が全てだった。青年がまだ少年だった頃から、彼の世界は暴力によって構成されていた。
世界の中心にいたのは父親だ。少年の人生は、常に彼の都合の上にあった。
朝は誰よりも早く起きて眠っている父親の傍に待機し、目覚めた彼に新聞と飲み物を手渡す。洗顔と着替えを済ませる間に朝食の用意の手伝いをし、両親の食事の給仕を務める。
母親が仕事に出かけた後は、父親がいるなら彼の世話を、そうでないなら家事をしつつ留守番。学校なんて行かせてもらえなかった。隣人に自分の存在が悟られないよう、出来るだけ物音を立ててはならず、全てが済んだらどちらかが帰ってくるまでジッと息を潜めてなければならない。
2人が帰宅した後は、再び彼らの手伝いをし、そして彼が床に就いたのを見届けて、ようやく一日が終わる。
それが少年の日常だった。常に完璧を求められ、何か粗相を起こせば、問答無用に暴力を振るわれる。上手くできれば、束の間の安寧を享受できた。
一度だけ逆らったことがある。いや、実際はそんな大層なことではなく、発端は同じアパートの住人から報告を受けた児相の職員が家を訪れたことだ。
〝子どもの泣き声を聞いた住人がいるが、そちらでは子どもがいるのか?〟
そう追求してくる調査員をなんとか追い返した父親から理不尽に責められ、髪の毛を掴まれて引き摺り回されたのだ。
あまりに痛くて、つい手が出てしまい、不幸にもそれが父親の手を傷つける原因になってしまった。それで怒り狂った彼により、水を張った浴槽に顔を押し込まれて溺れかけたことがある。
結局、母親の介入によって一命は取り留めた。
「こいつが死んだら誰が掃除や洗濯をするのよ!」
そう叫んで、父親を渋々納得させて。
要するに、味方なんて1人もいなかったのだ。自分の身は自分で守るしかない。
だから、人をよく観察する癖がついた。父親の逆鱗に触れないために、常に彼の望むような行動を心がけるようになった。
決して怒らせないように。決して機嫌を損ねないように。
そうやって慎ましく過ごしていた生活はある日、唐突に終了を迎える。父親が傷害罪で現行犯逮捕されたのだ。それも相手を自前の折り畳みナイフで刺した挙句、前科もあったため実刑は免れないとのこと。
母親は母親で、すぐに父親を見切って密かに作っていた浮気相手のところへ単身で転がり込み。
そうして少年は独りになった。
身寄りの無い少年に行き場など無く。
誰も帰ってこない部屋の中で、ただ死を待つだけのあまりに若過ぎる余生。そんな時、少年の前に現れたのは、
とある暴力団の幹部であり、チンピラ崩れの父親とちょっとした親交のあった彼は少年を引き取り、組が借りているマンションの一室に住まわせた。そこで元から暮らしている下っ端構成員たちとの共同生活を強いられ、少年は主従関係と組への絶対服従を徹底的に叩き込まれ――
――そして、今に至る。
皮肉なものだ。子どもの頃から受けていた暴力を、今度は自分が誰かに振るっているのだから。
ただ、青年の周りはそんな人間がザラだった。常に何かに怒っている人。感情がコントロールできない人。そのような人たちが上手く世渡りできている現実が、他の生き方を知らない成年にとって、これ以上に無い教材だった。
それ故に、青年は暴力を拠り所にすることが多くなった。力こそが全てだと言わんばかりに、何事にもそれを行使する。
だが、そんな中にあっても、青年は次第に荻野から重宝される人材になっていく。幼少の頃より人間観察に努めていた活眼と、状況に応じて臨機に振舞う回転の速さは非常に優れており、それらは仕事上の様々なところで大いに役立った。
相手の逃走経路から脱出ルートを瞬時に割り出して先回りしたり。相手の視線から隠し物を発見したり。もぬけの殻になった部屋にある僅かな手掛かりから潜伏先を掴んだり。
そうやって誰かを追い詰めることに思考を注ぐ反面、それ以外のことは考えないようになった。
ぼったくられて憤慨する客を殴って黙らせた時。負債を返せずに自殺した父親の遺族に借金を取り立てる時。家庭が崩壊すると分かっているのに母親にクスリを売り付ける時。年端もいかない異国の少女を風俗店に流した時。
自分の仕事を全うすることだけを考えて、彼らの眼差しを無視した。分からないこととして切り捨てた。
やがて、そんな彼らと対峙する時、自分でも気付かないうちに、満面の笑顔を携えるようになった。
ああ、自分よりも不幸な人間がいる。
そう、無意識に感じていたのだろうか。
青年の活躍によって荻野はどんどんと評価を上げていき、いつしか青年は荻野の懐刀と目されるようになった。
現在の青年は、荻野の忠実な配下という立場の一方で、組の便利屋的な側面も併せ持っていた。いわゆる遊撃隊、と言えばいいだろうか。仕事に際して不都合や想定外の事態が生じた時、状況に合わせて独断で動くことを許容されていた。尤も、飽くまで荻野の命令の範疇での自由だが。今回の、組と契約を結んだ店で揉め事が発生した時、それに対処するための用心棒という役割もそうである。
その特性ゆえか、単独での行動が多く、組の中でも浮いた存在になっていた。まともに話すのは直属の上司である荻野だけで、それも仕事上の付き合いに終始する程度だ。
貸し与えられたオンボロのアパートの一室で寝泊りし、仕事が出来ればどんな時間でも駆り出され、事が終わればまた独りで部屋に引きこもる。青年の青春は、その繰り返しで消化されていった。
そんな日々に疑問を持たず、
けれど、心に幾ばくかの淋しさを抱く毎日。
頭の治療を受けた青年は再び裏口から外に出て、冷えた空気に
それとも、寒いのは自分の中なのだろうか。
酸っぱい臭いが立ち込める路地で独り歩く自分を不意に客観視し、青年は正体不明の笑みを浮かべる。だが、それもすぐに消え、多くの通行人で賑わう大通りへと出た。その時だった。
「さっきは助けてくれてありがとね」
彼女と、出会った。
ブラウン系のボアブルゾンとブラックのロングスカートを合わせた地味目な格好。ウェーブをかけていた髪を後ろで縛っていて、眼鏡を掛けている見知らぬ女性。
青年は訝しんだ。なぜなら、彼女の素性に全く心当たりが無かったからだ。
そうして戸惑っている間にも、彼女は今まで寄りかかっていたキャバクラ店の入り口横の壁から離れて、彼の許へパタパタと駆け寄ってくる。そして、今だ眉根を潜める青年を見上げて、小さく小首を傾げた。
「あれ? まだ気付かない? ほら、さっき助けてもらった……」
「……ああ、お前。さっきの……!」
メガネを外して微笑む女性の言葉を受けて、青年の脳裏で、まだ記憶に新しい情景が蘇っていく。
そこは怒声が飛び交う現場だった。組が援助する店の一つ、少々値が張る都会のキャバクラで客と口喧嘩している1人のキャバ嬢がいた。
なんでもそのキャバ嬢は、今日が仕事の初日らしい。経験上、新人はベテラン先輩の隣でギクシャクしているのがほとんどなのだが、否が応でも聞こえてくる口論の内容からするに、その男性客のセクハラがひどく、それに憤慨している様子だ。それを、この男性優位の空間で物怖じせずに指摘できるとは、随分と気の強い女である。
と、傍観者気取りで感心してみたものの、溢れ出す溜息は止められなかった。トラブルを解決してこい、と命じられて馳せ参じた青年からすれば、どんな理由や道理があっても2人は単なる面倒事でしかない。
余計な手間を増やすな。
心の中で叫び、そして事態の解決のために歩みを始める。
まさにその時だった。激昂した男性客が、ウィスキーのボトルを持って大きく振り被ったのだ。それを目にした瞬間、青年は床を蹴り、キャバ嬢と男性客の間に割って入った。
結果、その女性と向き合う形になる。男性を相手取るキャバ嬢らしい濃い化粧と、その中にあっても際立つ生まれ持った美貌。きりりと吊り上がった目は強い意思の表れだろうか、その瞳が見開かれた時、容赦無く振り落とされたボトルが頭部で木っ端微塵に砕け散った。
ガラス片が床を跳ねる音と、女性たちの甲高い悲鳴。
ボトボトと流れ落ちるウィスキーが作る水溜りに、赤い波紋が広がる。案の定、頭を切ってしまったらしい。頭頂部から頬にかける生暖かい感覚が、俄かに痛みを自覚させる。
「ンだテメェはぁ? 邪魔してんじゃねえぞ、ああっ?!」
もはや凶器と化した割れたボトルを振って男性客が言う。先ほどから羅列が回っておらず、顔もかなり紅潮して、だいぶ酔っているようだ。そうでなければ、人の頭を叩き割っておいて、平然とその相手に啖呵を切る真似はできないだろう。
「お客さん、かなり酔っているようですね。ちょっと外に行きましょうか」
目の前で唖然としているキャバ嬢から振り返り、青年は努めて冷静な口調で男性客を外へと誘う。こういう修羅場を何度も経験している彼にすれば自分の被害など度外視されるもので、優先すべきは店の経営である。この男性客はすでに理性を失っており、他の客に危害を加える前に追い出さなければならない。
「ああ? なんで外なんか行かなくちゃならねえんだよふざけんな。あの女が悪いんだろうが全部! おれは客だぞ! 金払ってんだぞ!」
「ええ、分かってます。でもね、そんなに大声出されると他のお客さんに迷惑なんですよ。少し落ち着く、という意味で外に出ましょう。空気を吸いに行きましょう」
「さーわーんーなっ。あの女がよー。あの女がよー。ちょっと、ちょぉぉっと手が尻に触れたくらいでセクハラだとかぬかしやがってよぉ。名誉毀損だぞ? この店訴えてもいいんだからな? なあ?! いっ――」
「っせえな。いいから出ろやクソ親父が」
「いでっ、でででででぇ?!」
掴んだ腕を曲がらない方向に捻じ曲げ、悶絶する男性客を力尽くでホールから連れ出し、裏口から外に放り投げる。
それが、先ほど叩きのめした田山だ。
そして、目の前にいる彼女こそ、田山と口論していたキャバ嬢なのだ。店内で着用していた派手な赤のドレス姿を脱ぎ、化粧も落としているから一見すると分からなかった。
まあ、分かったところでどうでもいいのだが。
青年は女性を無視して歩き出す。彼女は慌てて追いかけてきて、隣について不機嫌な顔を向けてきた。
「ちょっと。無視しなくてもいいじゃない」
「話しかけるな」
キャバ嬢の文句を潰す、強い一言。
目を丸くして、それでも歩調を合わせてくる彼女に青年は続ける。
「店のヤツから聞かされているはずだ。俺には関わるな、と。俺は裏の人間。表で生きるヤツが関わっていい相手じゃない」
「裏って、水商売相手に言う? それ」
揚げ足を取る物言いをするキャバ嬢を鋭く睨み付ける。彼女は、めんどくさそうに肩を竦めた。
「はいはい。聞かされてますよ。でも、お礼を言うくらいいいじゃない。怪我をしてまで助けてくれたんだから」
「それが仕事だ。お前のためじゃない」
「ふーん…………仕事、ねえ……」
キャバ嬢の目付きが、嫌らしく細まる。今の発言にどこかおかしいところがあっただろうか。
「なんだその目は」
「ううん、なにも。それよりも頭の怪我、大丈夫?」
「少し切った程度だ、問題ない。それよりもいつまでついてくる気だ。とっとと店に戻れ」
「あはは。残念、今日はもう上がりですのよ。お客様に楯突くとは何事かーっ。とは言われなかったけど、まあ、頭を冷やせ的な? おかげでまた明日から教習期間に逆戻りだけどね。まあ、クビにされないだけマシか」
「…………」
こういった風俗店では、人材の確保が悩みの種である。性的サービスを提供する場ではないものの、やはり水商売という職業は公言できるものではないし、客とのトラブルも多いため、人員はなかなか安定しない。また、頻繁に嬢が入れ替わっては固定客もできにくく、店長の資質も問われるため、切りたかったけど切れなかった、というのが本音だろう。
それをいちいち教えてあげることはしないが。
「でもね、今回のは向こうが悪いのよ? 私とほとんど同期の子が、あんまり強く言えない性格なのをいいことに、抱き付いたりスカートを捲ろうとしたり。それでとうとうその子が泣き出しちゃって、だから注意したのよ。そしたらキャバ嬢風情が生意気な! って怒り出してさ」
「なんだ、お前がセクハラを受けたんじゃなかったのか」
「私がぁ? はっ、私だったらその指をへし折ってやってたわ」
「…………わざわざ他のヤツのために。正義の味方気取りか」
呆れた口振りで言うと、キャバ嬢は大きく吹き出した。
「正義の味方ぁ? ないない。だって正義の味方って要するに潔癖症って意味でしょ? 私ってほら、家とかけっこう散らかってるし」
「……知らねーよ」
青年が答えると、キャバ嬢はまた大声で笑う。そうして思う存分肩を揺らした後、瞼を少しだけ下ろした。
「私は正義の味方なんかじゃないわ。ただ……自分の生き方に後悔したくないだけよ」
「…………とにかく、これ以上、店で面倒を起こすな。その度に俺が出てこなきゃならなくなるんだからな」
「あら。ということは、お店で面倒を起こせばまたあなたに会えるってワケね?」
「……お前」
「きゃーっ。怒った、こわーいっ」
本気の忠告を茶化してくるキャバ嬢に、つい短気が擽られる。なのに、彼女は女学生のような振る舞いで、そそくさと自分から離れていって。
付き合ってられるか。
何かを期待している二つの瞳を見捨てて、青年はアパートの敷地に入っていく。会話している間に、自身の住処に着いてしまったのだ。
「ここが家なの?」
アパートの庭を進み、二階の階段に回り込んだ時、キャバ嬢はいつの間にか背後にいた。
「入ってくるな」
「お店から近いわねー。ああ、そっか。近くなくちゃ急な時、駆け付けられないもんね」
「聞けよ」
「そっかそっか……んんー、良いこと知っちゃったなぁ」
キャバ嬢の目付きが、また嫌らしく細まった。その意図は分からないが、良からぬことを考えているのは明白である。
「なんだ。おい、お前。何を考えてる」
「
「は?」
「
「ンなことどうでも……ああったく、もう知るか」
一方的なキャバ嬢の話に付いていけず、嫌気が差した青年は階段を上り始めた。二階の一番奥のドアの前まで歩き、ポケットの中の鍵を手探りで探していると、下から声が沸いてくる。
「今日はありがとね。じゃあ、おやすみなさーい」
そして、キャバ嬢は手を振って、街灯に照らされる街路へと向かっていった。
「…………なんなんだあの女は」
独りごち、鍵を取り出してドアを開ける。締め切った室内に漂う、生暖かく湿った空気。その中に一歩、足を踏み入れて、なんの気なしに振り返った。
当たり前だけど、そこにはもう、誰も佇んではいなかった。
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