第19話 月下の決別



 オーブルが用意した夕食を食べ終え、大浴場で一日の汗を流したアリスの姿はロイス・マリーの屋上にあった。まだ発展途上の都市であるためか、駅舎とその周辺は明るさを保っているものの、ここら一帯は街灯も少なく、蛍火のような頼りない光が道路に散らばっているだけである。大した景観は望めないが、周りに高層建築が存在しない三階建ての屋上は、心地の良い夜風が通ってなんとも清々しい。

 

 足元からは、少女たちの愉快な笑い声が聞こえてくる。店を滅茶苦茶にしてしまったアリスたちは、その損害額を返済するまでの間、三階の客室を間借りすることになった。宿泊客がおらず、また近くその予定も無いために下した措置だが、その宿泊費用も(実際に支払われることはない)給料から天引きするようで、無償提供しようとしたオーブルを怒鳴り散らし、然るべき所は線引きするチェロットの硬骨さは、几帳面を通り越して末恐ろしさすら覚える。まあ、それまでの光熱費等や朝昼晩の三食はサービスしてくれるようなので、全くの鬼というワケではないが。

 

 そのチェロットは現在、アリスたちの部屋に遊びに来ている。夜も深まり、ロイス・マリーは終業を迎えていた。本来、宿泊施設であれば夜通し開いているものだが、食堂の経営でなんとか生計を立てているこの店に他の従業員を雇う経済的余裕は無く、故に受付係を付けられないために泣く泣く深夜には閉めなければならない。が、結局、宿泊客は来ないので、それが問題化することはなく、今日まで無難にやってこれたのは皮肉なのかなんなのか。

 

 聞こえてくる話し声は、専らカイルの話題だった。写真で見るよりカッコ良かっただの、話で聞いてたよりも紳士的だっただの、台本でもあるかのように会話が途切れることはない。女3人寄ればなんとやら、と思ったが、よくよく聞いていると、声はリリィとチェロットの二つしか確認できなかった。

 

 「逃げたかと思ったわ」

 

 そのことを不思議に感じている時、思い描いていた声色が自分のすぐ後ろから聞こえてきて、アリスは振り返る。腿までのゆったりとしたチュニックとホットパンツを合わせた服飾のリオナが、搭屋の中から自分を見つめていた。

 

 「逃げたよ。女どもの話なんて、おっさんがついていけるわけねえだろ」

 「そっちじゃないわよ」

 「知ってるよ」

 

 軽口を交わす間にリオナはアリスの隣まで歩き、屋上周りの鉄柵に上体を被せる。重力に引っ張られ、彼女のそれなりに大きな乳房が弛んだチュニックの生地をさらに押し上げた。

 

 少し頭を動かせば、胸元の隙間からその豊かな谷を窺うことができるだろう。そう思い、だけど実行に移す気が起きなかったのは、自分が女になったせいだろうか……なんて馬鹿なことを考え、少しだけ失笑したアリスは、宙ぶらりんとなっている会話を再会させる。

 

 「まあ、逃げようなんて思わないことはなかったわな。ほんの一瞬だが」

 「残念。そしたら今度こそ自警団に連絡してアンタをしょっ引いてやれたのに」

 「まあ、こんないたいけな少女を警察に突き出そうなんて、なんて酷い人なのかしら」

 「おっさんはどうしたおっさん」

 

 リオナの声に、少しだけ笑気が宿る。鉄柵にうつ伏せる彼女の表情を想像し、アリスも口の端を緩めた。

 

 そして、無言。

 静かな、けれど決して息苦しくは無い時間が、涼やかな風と一緒に流れていく。

 

 「…………悪かった、な」

 

 今なら、風に乗せて言える気がした。

 「なにが?」と、リオナはそこで初めて顔を上げる。アリスは答えた。

 

 「水晶のことだよ。ほら、お前らが大事にしてた、あの」

 「……へぇ、悪いと思ってたんだ?」

 「茶化すなよ」

 

 意地悪な笑みを浮かべるリオナに、アリスが鬱陶しそうに手を振る。

 くくく、とそれにまた笑い、リオナはスッと背筋を伸ばした。

 

 「別にもういいわよ。怒ってないから」

 「……いいのか?」

 「アンタを責めたところで元に戻るワケないし、いつまでも引き摺ってるのも私らしくないしね。それに……どこかで感謝もしてんのよ」

 「感謝? 俺にか?」

 

 アリスは目を見開いた。どんな理由か知らないが、大切にしている宝物を壊してしまったのだ。だからこそあの剣幕だったのだろう。憎まれて当然、この謝罪も自身のケジメでしかなく、贖罪になるとは思っていなかったからだ。

 それが、感謝しているという。動揺せずにはいられなかった。

 

 「……まあ、そりゃあ、ね。まだ燻ってるのが本音よ。なんて言ったって、あれは大事なお母さんの形見だもの」

 「母親の、形見? だったら尚更……」


 ――俺のことを恨むべきじゃないのか?

 そんなアリスの言葉は、リオナが眼前まで伸ばした人差し指によって阻まれる。

 

 「そう。そんな大事な宝物をね、私たちは売り捌くつもりだったの。この街での活動資金にするために」

 

 リオナの独白は、静かな衝撃を以ってアリスの心に染み込んでいった。

 リオナは眼下の街並みに目を向け、訥々と始める。

 

 「私たちがヴェネロッテに来たのはそのため。魔工まこう技術士になって一旗揚げるために、ここまでやってきた」

 「魔工技術士?」

 「要は魔法具を作る技師のことよ。私が通っていた学校もその専門校だったしね。癪だけど、あのクソ親父の影響でそっち方面の道に進んじゃったのよ。まあ、こんな時代だから手に職をつけるのは悪くなかったんだけど」

 

 言って、冷笑を浮かべるリオナ。

 

 「……その技術屋になるためにここまで来たのか? ああ、そういえばパイロトキアとの国交が樹立するとかで、壁の外の街はさらに発展するらしいもんな」

 

 カイルたちとの会話を基にアリスが言うと、「どこで耳に入れてきたんだか」とリオナは苦笑を灯らせる。

 

 「そう。ヴェネロッテの壁外地域はこれからますます発展する。でも、それだけじゃないわ。ここで評価されるということは、すなわち世界市場への切符を意味するの。なんか色々と情報を手に入れてきたようだけど、それじゃあヴェネロッテが周辺国と盟約同盟を結んでいることは知ってるかしら?」

 

 アリスはふるふると頭を横に振る。

 

 「ヴェネロッテを巡って多くの国が争ったのはすでに話したわよね? まあ、そのほとんどが周辺国で、北のインカディ連合国、その隣のオースロ、西のレインローズ、東のパイロトキア、そして南のマリナグースがそれなんだけど、ヴェネロッテ独立後、工業化を推進するパイロトキア以外の四国はヴェネロッテとの修好条約を締結したんだけど、じゃあその四国同士がすぐに仲良くなれましたか、と言うとそうでもないの」

 「そりゃまあ、そうだろうな。ヴェネロッテを巡って戦ってたんだし、そうでなくとも近隣国同士ってのは何かと問題を抱えてるもんだ」

 「そうなのよ。だからね、フィリア教が仲介役となって二カ国の間に入り、二度と争わない、という不戦の契り、すなわち盟約関係を形成していったの。そうして四国は次々と盟約を結んでいき、このヴェネロッテを中心とする四国の体制を『盟約同盟』と呼ぶわ。これが現在の世界情勢の基底だと言われているわね」

 「うまいやり方だな。国家の安定、つまりは安全保障の根幹にフィリア教団を据え置いたんだ。こうなると他所の国は下手にヴェネロッテに手出しできねえ。ヴェネロッテの存在が脅かされることは、盟約同盟の存続が危ぶまれることも同義だから、四国は是が非でもヴェネロッテを守らなくちゃいけなくなる」

 「そう。だからヴェネロッテには軍隊が無いの。まあ、騎士団はあるけど、あれはもう実質的な戦力とは見做されていないみたいだしね」

 「なるほど。……ってことはつまり、お前の言う世界市場への切符ってのは、その盟約同盟のことになるのか?」

 

 アリスが訊ねると、リオナは「それだけじゃないわ」と即答する。

 

 「飽くまで今のは安全保障の話。それもフィリア教団が取り持っての同盟だから、政府の思惑もあるし、国民感情もある。特に酷かったのが貿易関連で、相手国の輸入品にバカ高い関税を掛けたり、関税法に適しているはずなのに不当な理由で没収したりと、まあすごかったのよ。で、それで一番被害を受けるのが商業界なのよね」

 「そりゃなあ。国の意向に振り回されちゃあ、満足に商売できねえだろうよ」

 「そう。そこで各国の企業が目をつけたのがヴェネロッテの壁外地域ってワケ」

 「……なーぁるほどねぇ……」

 

 アリスはゆるりと反転し、鉄柵に背中を預けた。柵の上に肘を置き、夜の街を睨み付ける瞳が勝気に潤う。

 

 「単純な話だ。二カ国での貿易に支障を来たすなら、両国に中立な第三国を経由して取引すればいい。そういうことだな?」

 「その通り。各国の企業はヴェネロッテの壁外地域に貿易拠点を作り、そこを軸に商売を始めた。要は中継貿易ね」

 「だが、それだと政府が黙っちゃいないんじゃないか?」

 「ううん。四国の政府はこのやり方を揃って黙認したの。まあ、実際のところ、政府のお偉いさん方も貿易戦争なんて本当はしたくなかったのよ。そんなことしても経済は成長しないし。でも、国民には外国に屈しない強いリーダーシップを見せなきゃなんないから。引くに引けない状態を打開する唯一の手段がこれだったワケ」

 「……どの世界でも変わんねーなぁ。政治家共の見栄の張り合いってのは」

 「まあ、そういうことで各国がヴェネロッテの壁外地域に投資するようになり、さらに手数料やなんやらでヴェネロッテに莫大な金が流れ込むようになった。一方の企業側も、安定した貿易が可能になり、しかもヴェネロッテを介することで活動域が広がって業績も上がり、盟約同盟全体の流通はどんどん加速していった。そうしてヴェネロッテを中心とする巨大経済圏が出来上がり、その規模は世界経済の六割を占めているの。経済学では、この盟約同盟を基にした経済統合体そのものを『ヴィラハン経済体』と呼んでいるわ。フィリア教で戒律を破った背反者を指す『ヴィラハ』。それを捩り、営利主義に走る革新派の人々を『ヴィラハン』と蔑んだそれが、いつしか壁外地域の名称として定着し、今やヴェネロッテに多大な恩恵を齎す存在になっているんだから笑えるわよね。後ろめたいのか、この国の人たちはヴィラハンという蔑称を口にすることすらしなくなったみたいだけど」

 

 そうしてリオナは目を細める。昼間の賑わいが嘘のように静まり返っている街並みに何かを見据えるように、鋭く。

 

 「そう、ヴィラハンは世界最大の物流拠点ステープル。その中でリドラルド領は特に開放的な市場であり、ここには世界中の様々な商品が流れ込んでくる。それはつまり、世界中のバイヤーもまた集まってくる……ということ」

 「……世界市場への切符ってのはそういう意味か」

 

 「そうよ」と、力強く首肯するリオナ。

 

 「ここでの成功は、世界へ羽ばたくチャンスなの。だから私はここでなにがなんでも結果を出さなくちゃならなかった。そして、そのためには元手が必要だった」

 「…………それが、あの水晶だったのか。だけど……」

 「……言ったでしょ、もういいって。それに、ここで働くことも悪いことじゃないのよ? この街には、私と同じような夢を持った技術者たちが集まっている。その人たちと情報交換ができる良い機会だもの。だからそんな顔しなさんなって。せっかくの可愛い顔が台無しじゃない」

 「ふにに……」

 

 罪悪感で強張るアリスのほっぺが、リオナの指によって柔らかく伸びる。そうして存分にそのもち肌を弄んだ後、リオナは静かな微笑を浮かべた。

 

 「生まれ育った町を出て、それからずっと当ての無い渡り鳥。何度も何度も挫けそうになった。男は働きに出て、女は家事と子育てをするのが一般的な世間で、魔工技術士を目指す志を何回バカにされたか分からない。同情するフリをしながら近づいてくるジジイ共に身体を要求されたのも一度や二度じゃなかった。もう、リリィと心中しようか。その方がラクだ……そう思ったことだって……」

 

 瞳が一瞬、揺らぎ、しかし気丈な笑みが陰りかけた表情を彩る。

 

 「その度に、あの水晶を見て奮い立ってきたの。お母さんに胸を張れる生き方をしよう。最期まで自分たちのことを心配してくれたお母さんのためにも、ここで諦めちゃいけないんだ。絶対に絶対にリリィと幸せになるんだ。そう、水晶に誓ってきたの。だから、本当に本当に大切なものだから、売りたくなんてなかった。そのためにお母さんから譲り受けたものだとしても……手放したくなんてなかった」

 「リオナ……」

 「あんなになっちゃったら、もうあの水晶は売り物にならない。だから、ガッカリしたけど……ホッともしたの。どんな形になっても、あれはお母さんとの思い出の宝物に変わりないから。もうね、こうなったらやる事は一つよ。お金を貯めて貯めていつか自分の工房を持って、そこでとんでもない発明品を開発して特許を取って、それで大金持ちになってやる。あのクソ親父が作った借金なんて全てチャラにして、そしたら故郷に帰ってあの日できなかったお母さんの葬式をするの。だから、いつまでも過ぎたことにクヨクヨしてる暇なんて私には無いの」

 

 「だからね」と、リオナは言葉を切り、アリスを見つめる。

 感情を失った顔に佇む双眸は、決意と言うにはあまりに熱を感じない光を孕んでいた。

 

 「アンタにこれ以上、振り回されるつもりもない。チェロットたちへの償いが終わるまでは、私はアンタと協力するわ。でも、それが済んだら、私たちの関係もそこで終わり。私たちはアンタの目の前から消える。そこから先はアンタが自力でなんとかしなさい」

 「……まあ、それはそうだろうな」

 「冷たい言い方かもしれないけど、私たちにも他人を案じてる余裕なんてないのよ。絶対に大成して、故郷へ錦を飾る。それが、私の目標なんだから」

 「目標、か……」

 

 アリスは笑った。切実な現実が迫ってくることへの焦燥感からではない。彼女の口調が、性格が、そして立振舞い全てが、記憶の中の面影と被ってしまったからだ。

 

 ――まるで、あいつみたいだな。

 

 明らかな絶縁宣言にあって、それでも恨みどころか、むしろ感謝の情が溢れ出てきて仕方がない。

 それと同時に、胸の内で大きくなる、今日という一日への虚しさ。

 

 「どうしたの? 急に笑って」

 「いや……」

 

 何よりも、遥かな目標に向かって邁進するリオナが眩しくて。

 そして、そんな彼女に比べて、全く前に進めていない自分がもどかしくて。

 

 アリスは鉄柵に額を落とし、呟いた。


 

 「俺、こんな所で何やってんだろうなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

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