第23話 見えない場所
そこまで送っていくという緑川の申し出を固辞して、司は幾分頼りない足取りで帰路に着いた。
愛真病院前というバス停から、まずは駅行きのバスに乗る。平日の五時過ぎのバスは空いていた。
到着した駅前は、本格的な帰宅ラッシュの前だが、それなりに人が多かった。
がちがちの肩をほぐしながら歩いていた司は、聞き慣れた声に呼び止められて、びくっと体を震わせた。
「やだー、ごめーん。そんなに驚くと思わなかったあ」
すぐ近くに、てへへと笑う時任が立っていた。
ふんわりしたレモンイエローのブラウスに、光沢のあるベージュのフレアスカートで、司よりも余程お出かけスタイルだ。どちらが休日かわからない。
「ちょっと、ぼんやりしてたものだから。こっちこそ、ごめん。びっくりさせちゃって」
司は、赤くなりながら視線を逸らした。
「お出かけしてたのね。ちょっとお茶でもって言いたいとこだけど、無駄遣いしないんだもんね」
「うん、ごめん。今日は早番だったんだっけ」
「そうよ。ロッカーにおしゃべり相手がいなかったから、いつもより早かったわ」
「そうなんだ」
「あれ、アンリ・シャルパンティエのお菓子?」
時任は、司が下げている紙袋に目ざとく気付いた。
「これは違うの。袋だけ」
緑川の母親が持たせてくれた手作りクッキーは、透明な袋に入れて、リボン付きのワイヤータイで留めてある。司のバッグには入らないと見て取ると、紙袋に入れてくれたのだ。それがたまたま、有名な菓子店のものだった。
「ああ、そうだったの。アンリだーって、つい興奮しちゃった。ケーキが食べたくなったわ」
司は、ケーキという言葉を耳にすると、さあっと赤くなった。
「ケーキって聞いたら、お腹がすいちゃった」
そう言いながら、駅前のバスターミナルの方へ視線をやった。
「帰っても、作らないと食べられないんだもんね。引き留めてごめん」
「ううん。じゃあ、また明日」
「はーい、じゃあね」
時任と別れてバスの乗り場に向かう司は、むやみに早歩きになっていた。
その数日後。
司は、いつものように店にやって来た直哉のために、奥のフロントから呼び出された。
直哉は、電動リクライニングベッドのリモコンを操作してみながら待っていた。
「なあなあ、最近リクの動画見てる?」
開口一番、彼は興奮気味にそう言った。
「ええと、たまに見るくらいは」
「おとといの新着は見てない?」
「おととい? いいえ、まだ」
「じゃあ、知らないんだ」
「何ですか?」
畳みかけるように言う彼に、司は首を傾げた。
「その新着って、前にお姉さんが言ってた、クリパレⅥのなんだ。見た方がいいよ」
シルクロードこと、白男川陸斗の動画サイトでは、最近はクリパレⅥを含む三つのゲームを主に扱っている。
「その新着では、どの敵が相手でしょうか? それとも探索ですか」
「えー、言ったらわかるくらい、よく知ってんの?」
「いいえ、そういうわけじゃないんですが。ストーリーと世界観が、なんていうか、興味を引くので、ちょっと調べました」
「ふうん。それで面白いの? 実際にはプレイしないんだろ?」
「いいえ、ちょっとは、やってみたんですよ」
「えっ、そうなの? プレイしてる友だちとか、いるんだ。意外だなあ」
驚いた直哉の声が大きくなったので、司は少々慌てて周囲を見回した。
「これ、ちょっと横になってみますか?」
そしていきなり、直哉に電動ベッドを指し示す。
「靴のままで大丈夫ですよ」
ベッドの足元の<靴のままでお乗りいただけます>と書かれているビニールカバーも示した。
「…ごめん、他のお客ににらまれた?」
素直にベッドに腰かけた直哉は、横になる前にこっそりささやいた。
「いえ、あの、ちょっと」
声の届きそうなところに、反応した客はいなかった。しかし、司はそのことを黙っていた。
「悪い」
軽く拝むように手を上げてから、直哉はベッドに横たわった。
「あー、枕がないと腰が変だわ」
「頭を上げてみてください」
司は彼の手にリモコンを渡した。
しばらくは案外楽しそうにベッドを上げ下げしていた直哉は、司を手招きした。
「小声なら、話しても大丈夫?」
「いいですよ」
改めて周囲を確認してから、司は彼の頭の近くに寄った。
「あのさ。リクの動画って、たまーに婆ちゃんの声が入ってることが、前からあってさ。しゃべりの録音に、どんなマイクを使ってるのか知らないけど、普通の家でやってるんだからさ、他の音も拾うだろ」
「そうでしょうね」
「プロの人たちだと、音が静かな真夜中に撮影するんだろうけどな、きっと」
「なるほど」
「で、婆ちゃんの声っていうのが、よしっ、とか、そりゃっ、とかの掛け声で、明らかにプレイを見てますーって感じの声なんだ。俺と通話しながらプレイしてるときには、気を遣ってるのか、見に来ないらしいんだけど。前にリクに聞いたら、撮影の機材とかが面白いから来るんじゃないかなーって言ってた」
「そうなんですか」
「お婆ちゃんの声がした、かわいい、とかってコメもあるし。あえて婆ちゃんの声を探すっていうか、ファンみたいなのもいたり。口うるさいってリクは言うけど、家族にゲームしてるの見られても平気ってだけで、珍しいっていうか、まあ、悪くない生活だなーって思うんだ。だろ?」
「そうですね」
「で。その新着なんだけど」
「はい」
「いつもの掛け声じゃなくて、言葉が聞こえるって話題になってるんだ」
「その、お婆さんのですか?」
「うん。戦闘の初見プレイだから、撮り直したくなかったのかな。初見って言いながら、実は取り直してますなんてこと、絶対しない奴だもん。それでさ、はっきり聞こえるってわけじゃないから、かえって気になるっていうか。そのお陰で、コメントの数がすっげえ多くなってんだよ」
「そうですか。そんなふうに聞いたら、私も気になってきました」
司がかなり真剣な声で言ったので、直哉は満足そうにうなずいた。
「やっぱ、教えに来てよかったわ。じゃ、俺帰るから」
直哉は、ベッドを降りて立ち上がった。
「あら、そのためだけに来てくれたんですか」
「そっ。テスト前だから、早く帰らないとな。感動してくれた?」
「感動というか、申し訳ないです。でも、ありがとうございます」
「連絡先知ってたら、わざわざ来なくても教えられたんだよ?」
「それが、教えろという意味だったら、お断りします。さすがに、職分を越えていますから」
「ちぇっ」
わざとらしく唇を突き出してから、直哉は笑った。
「じゃあ、テストが終わるまで来ないからな。視聴よろしくお願いしまーっす」
おどけてみせた彼を見送った司は、難しい顔になっていた。
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