長篠の戦い 前編


―――


 岐阜城、蝶子の部屋



「そっか。吉継のお母さん、無事にねねちゃんの世話役になれたんだ。」

「うん、昨日宇佐山城で会った時にね、言ってた。」

「吉継も秀吉の家来になったし、まずは良かったな。」

「そうね。でも放火魔の正体がまだ10歳の子どもだったなんてね……」

 蝶子はそう言うと、溜め息を一つ溢した。


 そう、吉継は蘭が思った通りまだほんの10歳の子どもだった。そんな子どもがあちこちの家に火を点けて回ってお金や食べ物を盗んでいたなんて信じられなかったし、見返りを求めていたとは言え一乗谷城から相次ぐ火事の原因だったとはとても受け入れ難いものがあった。


 しかしそれもこれも生活していく為に必要な事で、そういう環境になってしまった事自体が不幸な事だったのだと蘭と蝶子は同情していた。


「ハンセン病ってこの時代では治らない病なんだよね。未来ではすっかり聞かなくなったけど。」

「あぁ。感染力は元々低いけどあの見た目だし、近づいたら移るって誤解している人もいるからしんどいだろうな。痛みや痒みがないっていうのが救いかな。」

 蘭が言うと、蝶子が心配げな顔で頷いた。


「秀吉さんの家来の人達からも敬遠されて、一人だけ小屋みたいなとこに住んでるのも可哀想だよね。」

「誰も移りたくないって事なんだろうな。」


 吉継はハンセン病というだけで秀吉の家来が住む長屋には一緒に住む事が出来ず、一人だけ離れた所にポツンと建っている小屋に住んでいる。それも二人が同情する理由であった。


「まぁ、信長は最近機嫌が良いよ。何しろ『放火』の能力を手に入れたんだからな。戦でどう使うかは考えただけでも恐ろしいけど。」

「そう言えば信長は自分の力の事、吉継に言ったの?」

「うん。不公平だからって理由で秀吉に言ったみたいにね。秀吉の『瞬間移動』の事も、家来でいる限りいずれバレる事だからって。」

「あいつらしいわ。」

 蝶子が苦笑気味に微笑む。蘭は何だか複雑な気分になった。


「とにかく一連の火事の原因がわかって良かったよ。正体不明だったから不気味だったし。」

「そうね。じゃあこの話はこれでお終いにして、勉強の続きでもやる?」

「げっ……まだやるのかよ。」

「何言ってんの。まだまだ序の口よ。美濃と尾張、つまり岐阜と愛知のところまでしかやってないじゃないの。」

「うっ……」

「さぁさぁ、テキスト出して。今日は義昭が逃げた紀伊とか毛利がいる安芸を教えるわよ。」

 言葉に詰まる蘭に、腕まくりしそうなほどの勢いで蝶子が言う。蘭は深い溜め息を吐いて押し入れにしまっておいたテキストを取りに行った。




―――


 それから半年が経ったが、義昭や謙信は特に何の動きも見せなかった。勝家の報告によると実は謙信はここ数年北条氏と近隣の諸将との戦や身内の争いに忙しく、そのせいで朝倉への援軍も満足に出来なかったと言う。義昭とは逐一連絡を取っている様子だがこの分だとしばらくは大きな動きは無いものと思われた。

 一方義昭の方もまだ紀伊の興国寺に滞在していて、安芸に行く様子はないと言う。


 このような状況下では信長も迂闊には動けず、時々勃発する雑賀衆との小競り合いをしながら日々を過ごしていた。


 そんな時、武田が不穏な動きをしていると、甲斐に送っていた密偵から報告が届いた。




―――


 岐阜城、大広間



「お久しぶりです。お元気そうで何よりです。」

 そう言って家康が頭を下げると、信長はニヤニヤしながら肘掛けに肘をついた。


「活躍は聞いているぞ。信玄亡き後、奪われていた三河と遠江の領地を取り返したそうではないか。」

「はい。武田方についていた多くの武将らも戻って来てくれて、心強い限りです。」

「やはり勝頼では頼りないと見切りをつけた者が大勢いたという事だな。信玄の死をすぐさま広めたのは正解だった。遺言の通りに三年も待っていたら石にカビが生えるところだった。」

「流石信長様。例えがお上手で。」

 家康が持ちあげると、機嫌の良い信長は大口を開けて笑った。傍で見ていた蘭は若干引きながら、家康の方を向く。


「ところで家康さん。今日来たのはその勝頼の事ですか?密偵の人から聞いたんですけど、なんか不穏な動きがあるって。」

「あぁ、そうでした。実は対武田の前線となっている長篠城を近々包囲する予定だそうで、準備をしているらしいのです。」

「長篠城……」

 蘭は呟くと頭に手を当てた。


(信長と武田勝頼の戦いで有名なのは長篠の戦いだったよな。確か織田方の圧勝で終わったはず……)


「蘭丸。」

「は、はい!」

 突然呼ばれて蘭は飛び上がる。恐る恐る信長の方を見ると、扇子を弄びながら鋭い視線でこっちを見ていた。


「その長篠の戦いで勝つのは本当にこちらなのだな?」

「はい、そうです……そんなに詳しくはないのですが、長篠城を巡って双方が対戦して武田方は一万を超える損害を出したとテキストに書いてあった気が……」

「成程。それで?その長篠の合戦が起こるのが、三日後なのだな?」

 今度は家康の方に鋭い目を剥ける。家康は姿勢を正して頷いた。


「そうです。」

「よし、わかった。今すぐ兵を整えて三日後に長篠城に向かう。お前も準備をしろ。」

「はっ!」

 家康が頭を下げると、信長は扇子を帯に挟んだ。


「ついに武田を滅ぼせる時が来たか。楽しみだな。」

 信長は心底可笑しそうに笑った。




―――


 永禄13年(1570年)2月、信長軍は長篠城支援の為、約2万8千の軍を率いて長篠城へ向かった。家康は約1万の兵で織田軍と合流。長篠城を挟んで武田軍と睨み合いが始まった。




―――


 武田軍



「一体どういう事だ!どうして長篠城に織田軍と徳川軍がいるのだ!」

「それは……」

 勝頼が怒鳴るも、家来も何が何だかわからない様子で戸惑っている。勝頼は大きく溜め息を吐くと、長篠城の方を睨んだ。


「我々が今日長篠城を包囲する事は身内以外誰も知らないはず。……誰かが裏切ったとしか思えんな。」

 勝頼の言葉にその家来はビクッと体を震わせた。

「わ、私ではありません!」

「まぁ、この際誰だってよい。こうして信長がいる事は事実なのだからな。大事なのはこれからどうするかだ。向こうは3万8千、こちらは1万5千。兵力としては劣るが、騎馬隊がいる。いざとなったら騎馬隊を盾に総攻撃だ。」

「しかしこうも兵力に差があるとなると……一旦撤退して出直した方が良いのではないでしょうか。」

「何を言っている!ここまで来て撤退など、志半ばで逝ってしまった父上が聞いたら怒鳴られるぞ。いいか、撤退はしない。向こうが仕掛けてきたら攻撃開始だ。」

「……はい。」

 家来が大人しく引き下がると勝頼は満足そうに頷いた。


(しかし勝頼様はお館様が亡くなってから人が変わったみたいになってしまわれた……以前はもっと穏やかで優しいお方だったのに。)


 その家来は心の中でそう呟くと、気づかれないように溜め息を吐いた。



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