気になる視線


―――


 紀伊、興国寺



「道中、お疲れ様でした。織田方の追っ手がなくて本当に良かったですね。義昭様。」

「信長にとって私は追う価値もない人間だという事でしょう。京から追放した以上、何処に行こうが生きていようが死んでいようが関係ないと。」

「そのような事は……」

 家来が言いよどむと義昭はふっと微笑んだ。


「私は追放されたぐらいで諦めたりはしません。京にいなくともまだ将軍としての地位は健在です。信長を討つ意志は変わっていません。信玄が死んだ事は痛手ですが、上杉や毛利、その他の武将に声をかけて信長を追い詰めましょう。そうですね、第二次信長包囲網……といきましょうか。」

 義昭はそう言うと、先程よりも深い笑みを溢した。



 義昭は堺の仮御所から出発して、紀伊の興国寺へと身を寄せていた。ここでしばらく滞在して信長との戦の準備をするつもりのようだった。すぐに安芸の毛利輝元の元に行っても良かったのだが、上杉らと連絡を取る為にもここで一旦腰を落ち着ける必要があったのだ。

 武田信玄が死んだ事は義昭にとって相当な痛手になったがここで嘆いていても仕方がない。ここからは自分が中心となって信長を葬る事になるのだ。まだ将軍としての立場は続いているから声をかければ同調してくれる武将は多いはずである。敵ではなくても配下の者でも信長のやり方に疑問を抱いている所もあるだろう。あちこちに密偵を送って内部から懐柔する手もある。


 義昭は自ら名付けた『第二次信長包囲網』という響きに満足しながら、これからの事に思いを馳せた。




―――


 岐阜城、蝶子の部屋



「……ん?」

「どうしたの?」

「いや、今何か視線を感じたんだけど……」

「え?別に庭には誰もいないよ。」

「じゃあ気のせいかな。」

 蘭はそう言うとゴロンと畳に寝転んだ。蝶子は不思議そうに、開け放たれた障子の向こうに見える庭の方を向いた。改めてきょろきょろと見渡してみても誰もいないし気配もない。首を傾げながら蘭を見下ろした。


「それにしても暇だな~」

「そうだね。伊勢も攻略して最近はすっかり落ち着いてるもんね。上杉もまだ動かないし、義昭も今は何処にいるのやら。秀吉さんが言うには紀伊の方にいるみたいだけど。」

「紀伊?……って何処だっけ?」

「あんたってホント、地理に弱いわね。和歌山よ。」

「へぇ~」

 力の抜けた返事をすると、蝶子が盛大な溜め息をついた。


「信長の側近なんだからそこら辺勉強しなさいよ。これから戦が続いたらあちこちに行く事になるのよ?自分が今いる場所が何処かわからないなんて間抜けでしょ。」

「まぁ、そうだよな。テキスト見て勉強すっか。」

「あら、素直。珍しい。」

 蝶子が心底驚いた顔をすると蘭はムッとした表情で起き上がった。


「何だよ。」

「別に~」

 蝶子が顔を背けるとムッとした顔のまましばらく睨みつけていたが、突然ハッと肩を震わせて庭の方を振り向いた。

「ねぇ、何なの?さっきから……」

「うん……実はさ、最近誰かに見られているような気がするんだよ。今も何か視線を感じたし……」

「だから誰もいないって。」

「みたいだな。」

 注意深く観察してもやはり庭には誰もいない。蘭は肩を竦めると音を立てて障子を閉めた。


「勘違いだったのかもな。もし何処かの密偵だったとしても、俺なんか見張って得するような事はないし。」

「そうそう。それより勉強するんでしょ。付き合ってあげるからテキスト持ってきなさい。」

「えぇ?今から?」

「善は急げって言うでしょ。ほら、早く。」

「へいへい。」

 仕方なく腰を上げると、蘭は自分の部屋にテキストを取りに行った。




―――


 越後、春日山城



「森蘭丸、か。あの森可成の息子で信長の側近中の側近。しかし気になるのは信長の妻である帰蝶と対等に話したり部屋に入り浸っているという点だな。信長は許しているのか?」

「どうやらそのようです。これはどういう事でしょう?」

「さぁ。昔馴染みだとかいう可能性もあるが、これはもっと詳しく探る必要がありそうだ。引き続き頼むぞ。」

「はい。」

 短く返事をすると、その家来……正確には岐阜城に送っていた密偵は静かに部屋を後にした。


「しかし驚いたな。あの足軽が今や信長の側近で、妻の帰蝶と仲が良いとは……」

 謙信は溜め息と共にそう呟いた。


 桶狭間に落ちていた今川義元の槍を『残留思念の分析』の力で視た結果、ある足軽が茂みから突然出てきて大声を上げた事で驚いた義元をその隙を突いて家康が斬った事がわかったのだが、その足軽の正体は森可成の息子だという。加えて秀吉や光秀らと同じ側近という立場らしい。桶狭間の合戦から十年は経っているので昇進したという可能性はあるが、どうも納得がいかない。


 何故あんな茂みに隠れていたのか。何故突然大声を上げたのか。その理由に何か意味がある気がして、謙信は顎に手をかけながら考え込んだ。


「しかし森可成に息子がいたとは……比叡山の僧兵に討ち取られた時点でまだ若かったはず。宇佐山城の城主になった時に見合いをして妻を娶ったが、その前に何処かの女に生ませていたのか……やはりこれは調べる必要があるな。」


 謙信は遠くを見つめながら不敵な笑みを浮かべた。




―――


 永禄12年(1569年)7月、足利義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し御内書を送付した。内容はもちろん、織田信長討伐の為に協力を要請するものだった。それと同時に石山本願寺や他の武将にも側近を出向かせ、頻繁に連絡を取り始めた。


 一方毛利輝元は浦上宗景、宇喜多直家と和睦。これを受け義昭は、輝元を通し浦上・宇喜多両家とも繋がりを持つ事を計画した。


 こうした動きから摂津国の池田勝正、讃岐国の十河一行、雑賀衆さいかしゅうの鈴木孫一らが義昭に同調し始め、第二次信長包囲網は着々と築かれつつあった。



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