飛び散る涙
―――
半月後、信雄の祝言の日取りが決まった。それと同時に家督を襲名する事になる。それを聞いた信長は、即座に北畠家攻略に向けて準備を開始した。
岐阜城、信長の部屋
「ついにやるのね。」
「あぁ。先延ばしにすればする程、成功する確率が減る。信雄が家督を継ぐ前に決着をつけないとな。信忠。準備は出来てるな。」
「はい。」
蝶子が心配げな顔を向ける中、信忠は背筋を正して頷いた。それを見た蝶子は一瞬目を瞑った後、覚悟を決めるように大きく深呼吸した。
「しっかり成果を上げてくるのよ。絶対に帰って来てね。」
「わかっています、母上。」
信忠が蝶子を見つめる。蝶子も見つめ返す。お互い無言のまま、しばらくそうしていた。
「祝言は明後日だ。今から大河内城に向かえ。近くに砦を築いてある。そこで信雄からの合図を待て。」
「承知致しました。」
信忠は短く返事をすると、蘭の方を見た。
「蘭丸も来るのだろう?大丈夫?」
「馬鹿にすんな。こう見えてお前より戦場に行った回数は多いんだ。実際に戦に参加する事は出来ないけど、出来る限りの手助けはするよ。」
ムッとした顔で蘭がそう言うと、信忠は可笑しそうに笑った。
「そうだったね。じゃあ頼んだよ、先輩。」
「おうっ!」
蘭は気合いを入れて拳を上げた。
―――
二日後、大河内城
その日は朝から忙しかった。何しろ祝言と家督襲名が同日に行われるのだ。前々から準備をしていたとはいえ、当日の慌ただしさは異常だった。何人もの家来が城の中を行ったり来たりしていて、何処か浮ついた空気が充満していた。
そんな中、当主の北畠具房はこの上ない幸福の真っただ中にいた。織田との同盟の証としてその子・信雄を養子に迎え、北畠家はこれまで以上に繁栄した。公家の出身でありながら武家としても活躍。伊勢を中心とした一大勢力にまで登りつめ、これから更なる力をその手に握る事が出来るところまでやってきた。
信雄と娘の雪姫が結婚すれば信長からの支援が絶対的なものになる。そうすればこの先の北畠家の未来は安泰だ。もちろん織田方の家臣としてこれからも戦場に駆り出される事が多くなるだろうが、織田が天下を取れば必ず北畠への恩賞も出るだろう。伊勢だけではなく近隣の国を任せられる事は間違いない。
そこまで考えて、具房はニヤリと笑った。
「具房様!大変でございます!」
「どうした?」
そこへ慌てた様子の家来が部屋に飛び込んできた。具房は戸惑いながら聞き返す。
「台所と雪姫様のお部屋が……占拠されました。」
「……は?」
すぐには意味が分からなかった。間抜けな声を出す具房にその家来はじれったそうに身を捩った。
「家老とその従者らが突然台所に入って来たかと思ったら、そこにいた二、三人を斬りつけて……雪姫様を人質にしたと言ったのです!」
「何だと!?それで雪姫は……?」
「見に行ったらそこに信雄様がいらっしゃって……」
「信雄も捕まったのか?」
「いえ、それが……」
「何だ、はっきり言え。」
「……信雄様が雪姫様の首に刀を突きつけて、具房様を呼んで来いと……」
「…………」
余りの事に具房は声が出ない。体が固まったように動かなかった。
あの信雄が雪姫を……?信じられなかった。しかしこの家来がこの期に及んで嘘を言う意味がないし、本当の事なのだろう。具房はグッと拳を握りしめると顔を上げた。
「わかった。今すぐ行く。」
―――
「お待ちしておりました。お父様。」
具房が雪姫の部屋に行くと、信雄はにっこりと笑いながら言った。雪姫は信雄の側で蹲っている。具房は慌てて近づいていって娘をそっと抱き寄せた。
「……どういうつもりだ?今日はお前達の祝言の日だぞ?それとも何かの余興か。」
「余興ではありません。僕は本気です。本気で今から貴方に反旗を翻すのですよ。」
「何っ!?」
「僕はこの日をずっと待っていた。そう、この家に来たその日から。織田信長の為に北畠を……滅ぼす事を。」
「……信長の差し金か。」
具房は唇を嚙みしめる。ギリッという音がして鉄の味が口の中に広がった。
「最初から、初めから……お前は裏切るつもりでこの家にいたのか?幼かったあの日から?何ていう事だ……一体どんな想いで……」
「想いも何も。何も考えず、ただこの日だけを夢見て生きてきましたよ。」
無表情でそう言いのけた信雄を、具房は信じられないというような目で見つめた。
雪姫はずっと俯いて体を震わせている。
「それなら何故、問答無用で討たん。このような真似をして……意味があるのか。」
「最後に貴方と話したかったので。あと……君とも。」
そう言って雪姫の方に視線をやる。雪姫はビクッと体を揺らした。
「これまで育てて頂いて、ありがとうございました。本当に感謝しています。雪姫も。今までありがとう。」
言いながら頭を下げる。そんな信雄を具房は忌々しげに見た。
「……貴方とは幼馴染として、そして兄妹として接してきました。でもそう思っていたのはわたしだけだったようですね。」
沈黙を破って雪姫が口を開いた。信雄は虚を突かれたような顔で雪姫を見る。雪姫は赤くなった眼を鋭くして信雄を睨みつけた。
「所詮、あの織田信長の息子。やる事が非道ですね。でも人の心がわからないというのは、悲しい事ですよ。」
「…………」
雪姫の言葉に僅かに信勝の眉が動く。しかしすぐに平静を取り戻すと、持っていた刀を握り直した。
「さぁ、時間です。今頃は織田軍が城を囲んでいるでしょう。長らく続いた北畠家は今日で終わりだ!」
そう叫んだ信雄は未だに座り込んだままの具房と雪姫に向かっていった。
刀を振り下ろした瞬間信雄の瞳から一滴の涙が飛んだ事は、きっと本人にもわからなかっただろうと思われた……
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