天下人への道

新たな敵


―――


 手取川の戦いは、加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破したとされる合戦である。

 謙信は能登国を支配下に置くべく、2万余の軍を率いて侵攻した。これに対し当時の能登の領主・能登畠山氏は七尾城に籠城する。重臣の長続連は信長に救援を求め、信長は柴田勝家を総大将とし滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・前田利家らを派遣した。ところがこの織田軍到着前、以前より長続連が実権を握る事に不満を抱いていた親上杉派が内応して謀反、長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城した。

 柴田勝家率いる織田軍は七尾城落城を知らないまま進軍を続け、梯川・手取川を越えた。一方、織田軍接近を知った謙信は直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城(加賀郡)に入った。対して、柴田勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退したが、その途上、上杉軍に追撃された。結果、織田軍は、1000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫した。


 この戦について謙信は、「信長軍は思いの外、弱い様子」と語ったという。




―――


「何だ、この最後の一文は……」

 信長はそう吐き捨てると、テキストを放り投げた。蘭が慌てて取りに行く。

「乱暴にしないで下さいよ……」

「五月蠅い。」

 信長は仏頂面で畳に横になった。蘭は苦笑しながら先程のページを開く。

「これによると、川が増水していなかったら勝てるかも知れないって事ですよね?だったら七尾城が落城する事を事前に勝家さんに報せて、撤退するか雨の日を避けて出陣するか、のどちらかだと思うんですけど。」

「そうだな。しかしただ単に川が増水するから撤退しろとか言ったところで勝家が納得するかどうかだな。あいつは猪突猛進だし、こうと決めたら梃子でも動かん。理由も言わずに言う事を聞くとは思えんがな。」

「そっか……」


(いくら勝家さんが俺達の事を別の世界から来たって疑っていても、未来から来て歴史を全部知ってるからって打ち明けたところで信じてくれるかどうかわかんないもんな。真っ直ぐな人だし、秀吉さんみたいにすんなりいかないかも……)


 蘭が項垂れると信長はそのまま仰向けになって言った。

「あいつには何も知らないままでいて欲しいのだ。信用していない訳ではないが、馬鹿正直な奴の事だ。真実を知って、果たして自分一人の胸の中に収めておけるかどうか。お前らが何者か。どこから来たのか。疑惑は疑惑のままでいさせてやった方が、あいつもお前達も楽だろう。」

「まぁ、そうですけど。」

「散々いいように使って申し訳なく思っている。結婚もさせず、あちこちと動かせて、結局城持ちにもさせてやれなかった。上杉と決着がついて少し落ち着いたら、褒美を用意しているのだ。」

「褒美?」

「あぁ。まだ言えない事だがな。」

 信長はそう言うと微笑んだ。久しぶりに見た信長の優しい表情に蘭は息を飲む。


「とにかく上杉との戦の事は十分わかった。七尾城には今から密偵を忍ばせておこう。状況を逐一報告するよう言っておく。天候ばかりは予測できないから、サルをつけよう。雨が降りそうになったら即撤退だ。理由は何でもいいから取り敢えず兵を引くよう説得させる。これでいいな?」

 信長が蘭を見る。蘭は無言で頷いた。




―――


 堺、仮御所



 京から追放された義昭は取り敢えず和泉の堺に仮の御所を作り、そこに身を寄せていた。


「まさか槇島城まで燃えるとは思っていませんでした。光秀軍と最後まで戦う覚悟をしていましたが、城が燃えていてはどうにも出来ません。しかも信長がすぐ近くにいながら手出し出来なかったのが悔しいですね。京から追放されてしまいましたし、上京と下京の様子もここからではわかりません。酷い事になってなければ良いのですが……」

 義昭は目の前にいる謙信にそう言った。言葉は丁寧だったが表情には悔しさが滲み出ている。無言の謙信に構わず、続けた。

「それにしても……どうして義栄殿や西の毛利に頼ろうとしたのが信長にわかってしまったのでしょうか。義栄殿はともかく、毛利に援軍を求める文を出したのは数日前ですよ。信長が密偵を送って寄越していたとしても、早過ぎだとは思いませんか?」

「えぇ。信長には特別な力があるらしいと聞いた事がありますが、本当の事なのかも知れません。」

「特別な力?それは一体どういう……」

「詳しい事はわかりませんが、何らかの力を持っている事は確かだと思います。義昭様はあの時、毛利を頼って西に逃げようと強く思ったのではありませんか?」

「その通りです。城が燃えているとわかってこれは戦どころではないと思いました。その時ふと、西に逃げなければと。」

「成程。それでは信長の力はさしずめ、『心眼』といったところでしょうか。」

「『心眼』?人の心の中が見えてしまう、あれですか?噂には聞いていましたがまさか実在するとは……しかもその力を持つのが信長だったとは。」

 義昭は謙信から顔を逸らしながら溜め息を吐いた。


「成程。その力のお陰で信長はここまで成り上がってきたのですね。」

「それだけではありません。」

「どういう事ですか?」

「以前、桶狭間で拾ってきた今川義元の槍を私の力で視たところ、ある足軽の姿が視えました。その人物が突然茂みから飛び出して大声を上げたのです。それに驚いた隙に家康が義元を斬った。あの当時私は武田との戦の事で頭が一杯だったので気にも留めなかったのですが、今にして思えばあの足軽の行動が桶狭間で信長が勝った鍵となったのではないかと思えてならないのです。」

「その足軽……何者なのでしょう。調べてもらえませんか?」

「勿論です。私もそうしようと思っておりました。早速、密偵を送ります。」

「お願いします。」

 義昭が頭を下げると、謙信も慌てて頭を下げた。


「それでは私は帰ります。義昭様、安芸に着くまでお気をつけて下さい。」

「大丈夫ですよ。信長を葬るまでは死ねません。」

 義昭はそう言うと、口端を上げて笑った。




―――


 安芸、吉田郡山城



「まさか文が届いた翌日に、将軍様が京から追放されるとは思ってなかったな。援軍の用意をしていたが、無駄になってしまった。」

 毛利輝元は息子の秀就に向かって言った。秀就は険しい顔を崩さずに答える。

「上京と下京を燃やしたのもきっと信長の仕業ですよ。どれだけ非常な奴だ!」

「まぁまぁ。放火はやっこさんの常套手段だと聞いている。将軍を追放までさせるには手段を選んでいられなかったのだろう。しかしこれで私も重い腰を上げざるを得なくなった。義昭様が逃げて来られたら迷わず受け入れる。今から仕度をしておけ。」

「承知致しました。」

 秀就はそう言うと張り切って出て行った。


「さて、戦況がどう動くのか。今から楽しみだな。」

 輝元は開け放たれた襖の向こうに見える綺麗な満月を見上げながら微笑んだ。




―――


 岐阜城、信長の部屋



「信長様!大変でございます!」

 信長が部屋で寝転んでいると、秀吉が慌てて入ってくる。信長は機嫌悪そうに目を開けるとぎろりと睨んだ。


「何だ、騒々しい。」

「伊勢の長島で……本願寺の門徒が一揆を起こしました!」

「何っ!?」

 信長が飛び起きる。秀吉は汗だくになりながら叫ぶように言った。

「どうやら未だに動きがない本願寺の蓮如に焦れて、独自に蜂起した模様です。如何致しましょう。」

「如何も何も、鎮圧するしかないだろう。伊勢は北畠と神戸がいる。信雄と信孝に報せて即座に出陣の準備をさせろ。俺もすぐに援軍に向かう。」

「はっ!」

 秀吉が出て行くと信長は深い溜息をついた。


「次から次へと、忙しいな。」

 言葉とは裏腹にその表情は何処か愉しげであった……



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