第6話 伝説のはじまり

 鉛色の空が見えた。

 張良は自分が仰向けに倒れている事に気付いた。何があったのか、記憶がない。

 隊列を組んで漢中の山道を歩いていたところまでは覚えている。

 疲れからだろう。突然、目の前が暗くなったのだ。

 そうか。私は崖から転落したのだ。


 すると、ここは天国か、それとも地獄か。

 ぬっ、とひょろ長い髭面が覗きこんできた。いっそ地獄の方がよかったくらいだ。

「子房、わしが見えるか」

 意識を取り戻して、最初に見るのが劉邦の顔だとは。

「見たくもない、失せろ」

 弱々しい声しか出なかった。

「おお、冗談が言えるなら大丈夫だ。安心したぞ」

 なぜ本気だと云うことが伝わらないのだ、張良は情けなくなった。誰か他にいないのかと泣きたいくらいだ。

「気がついたのか、胡蓉」

 この声。よかった、韓(王)信も居てくれた。

 だが、この男。

「何を泣いてるんだ、信。私は死んではいないのだろう?」

 ああ、そんなに酷い傷はなさそうだ。そう言って、彼女の手をとる。

「どうだ、感覚はあるか」

 韓王信が張良の両手両足を順に握り、問いかける。張良はその度に小さくうなづく。この男の手は温かいな、そう思った。

「大丈夫、のようだ。でも、まだ体に力が入らない」

 すこし甘える口調になっていた。それに気付いた胡蓉は頬を赤くした。

「なんと、それは大変ではないか。では、ここはどうだ、感覚が、――うがっ!」

 張良は、はね起きて劉邦を殴り倒していた。

「胸を触るな、この変態」

 しかしすぐ足下がふらつき、韓王信に抱き止められた。

「漢王、胡蓉は怪我をしているのですよ。たわむれはお止めください」

「ああ、すまぬ。つい、癖で」

 ついで済ますな、この馬鹿が。呻く胡蓉を韓王信は宥めた。

「だけど漢王は真っ先に飛び降りたのだ。お前を助けるために」

 彼が指差す方を見て張良はゾッとした。上の山道まで、ほとんど絶壁に近い斜面が続いていた。こんな所を私は。そして、この二人も。張良は涙が溢れてきた。

 上から、おーい、と呼ぶ声がした。

「川沿いにもう少し進めば広くなる。そこで引き上げるからなっ」

 夏候嬰が手を振って叫んでいる。張良は韓王信に背負われて、また気を失った。今度は、安心したからだった。


 南鄭なんていは漢中で最大の街だという。

 家数も多いのだろう。どうやら野宿だけはしなくて済みそうだ。

 まだあちこち傷が痛む身としては救われた思いだ。あれだけの所から転落したのだ。無傷ではあり得ない。

 その時の事は、郎中ろうちゅうの韓信から聞いた。張良が崖に向かって倒れ込んだと見るや、劉邦は迷わずあの絶壁を駆け降りたのだ。途中で張良を抱き止め、そのまま滑り落ちて行った。河へ転がり込む寸前、追い付いた韓王信が二人を引き戻したらしい。

「川は怖いからな。落ちたら死ぬところだったぞ。ともかく無事で良かった」

 しみじみと言う韓信。

 この時ばかりは劉邦に感謝せざるを得なかった。いやいやながら、だが。


「ところでお主は何をしていたのだ」

「ふむ?」

 ふむ、ではないわ。何を可愛く首を傾げているのだ。張良は、呆れて言った。

「私のすぐ後ろを歩いていたのはお主だと思ったが。なぜ助けなかった。私の護衛ではなかったのか」

 するとさすがに申し訳なさそうに韓信は頭を掻いた。

「ああ、実は俺、高いところが苦手なのだ」

 張良は、自分のはるか上にある韓信の顔を見上げた。ふーん、とため息をつく。

「そういうもの、なのかな」

 釈然としないまま、二人の会話は終わった。


 その後すぐに韓信は郎中をクビになった。別にこの事が原因ではない。張良が、当分戦は無いだろう、このまま私にくっついていても昇進は見込め無いだろうから、と蕭何の部下になることを勧めたのだ。


 それが完全に裏目に出た。

 韓信は、脱走した。


「あの愚か者。脱走して何処へ行こうというのだ!」

 私はあいつを見損なっていたのか、張良は唇を噛んだ。捕まったら、死罪しかないというのに。

 そう思うと、韓信が運んでくれた兵書の束にも手をつける気になれなかった。


 その翌日だった。蕭何が顔を覗かせた。

 見るからに浮かない顔だった。

 一緒に来て頂けますか、そう言うと町の中心にある広場へ張良を連れ出した。

「急がないと」

「どうしたのです?蕭何さま」

 韓信を連れ戻しました。ですが。

「このままでは、処刑されてしまいます」

 硬い声で蕭何が言った。


 広場には十人ほどの兵士が縛られ、地面に引き据えられていた。一番端にひときわ背の高い男がいた。ただ、彼が大きく見えるのには他の理由があった。

 彼以外の兵士は、既に、首を落とされていたからだった。そして、韓信がまだ生きていたのにもまた、理由があった。


 韓信の前に、誰かが座り込んでいるのだ。そのせいで、役人は刀を振り下ろすことが出来ずにいるのだった。

「おう蕭何。お前さんも来たのか。どうだい、こいつ。面白そうな奴だと思わねえか」

 明るい声で手を上げたのは、劉邦の馭者を勤める夏候嬰だった。彼もまた劉邦が最も信頼している仲間のひとりだった。

「良かった。夏候嬰もそう言うのなら、私達のみる目も、まんざら捨てたものではないと云うことですね、張良どの」


「それでこいつ、隊を抜けて何をしてたと思う。傑作だぜ、項羽を迎え撃つ方法を考えていたんだと」

 彼方に見えた山が気になって、と韓信は夢見るような声で言った。どうしても行ってみたくなったんだ、と。

「鄭郡山と言うらしい。上手くあそこに誘き寄せれば、たとえ中原の兵が押し寄せても、一撃を食らわす事が出来そうだ」

 張良は苦笑するしかなかった。

「ていぐんざん、だな。覚えておこう」

 へへ、と韓信は笑った。

「で、どうするよ。斬っちまうのかい、こいつ」


 そんな事はさせない。絶対に。


 張良は蕭何と二人で劉邦の元へ向かった。

「だが、それでは示しがつかぬ」

 劉邦は頑としてくびを縦に振ろうとはしない。裏切られた怒りと、このまま、脱走者が増える事への恐怖に囚われていた。

 張良は大きく息をついた。

「劉邦。それでは、お前が私を無理やり犯した事は赦してやる。それと引き替えでどうだ」

 劉邦は一瞬、青ざめた。

「いや、あの時はすまなかった。本当に反省しているのだ。だがな、その代償として、わしは一夜にして二十も歳をとってしまったのだぞ。報いはとっくに受けた筈だ」

 それで、逆に張良は少女の姿に戻ったのだった。実に、房中術とは危険で、奥が深いものと言わざるを得ない。

「だったらこの前、胸を触っただろ」

「あれは、介抱してやったのではないか。言いがかりをつけるのは止めて貰おう」

 えへん、と大きく咳払いをしたのは蕭何だった。このままでは埒があかない、と思ったのだろう。

「漢王さま」

 蕭何は、恭しく彼を拝した。

「あなたは、このまま蜀の王として終わるおつもりなのですか」

 はっとした表情を浮かべた劉邦は、蕭何に向かい、師に対する礼を返した。

「道を、お示しください。蕭何どの」




 その日、漢の大将軍、韓信が誕生した。

 彼が最初に命じたこと。それは。

 関中への帰還、だった。




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