『大丈夫。大丈夫だよ。』


―――


 嵐から招待状を受け取った日から、私は今まで以上にリハビリを頑張った。でも一人で歩く事はついにできなかった。


 凱旋ライブは明日に迫っている。私は手伝いに来ていた南海に愚痴を溢した。


「どうしよう、南海……私やっぱり……」

「何言ってんの。いざとなったら嵐君に手を繋いでもらってもいいんだし、座って歌えるように準備してるから。」

「そんな姿!…ファンの人に見せられな……ゴホッ、ゴホッ…」

「あぁ、もう…無理するから。」

 大きな声を出してむせてしまった。背中をさする南海の手の温かさが涙腺を緩める。


「だって…全然ダメなんだもん。まだ一人で歩けないし…声もそう。ちょっと大きい声出しただけで喉が痛いし……やっぱり無理だと思う。今からでも…ゴホッ…私がステージ上がるのはキャンセルして……」

「ダーメ。決定事項で~す。」

「じ、じゃあ延期……」

「できる訳ないでしょ。日にちは動かせません!」

「ですよね……」

 南海の迫力にしゅんと体を縮こませる。深いため息が漏れた。


 声の方は普通に会話するまでには回復した。だけどさっきみたいにちょっと大きい声を出すと喉が痛んでむせてしまう。こんなんじゃ歌うなんてとてもじゃないけど無理……


「っていうか、南海。あんたいつからそんなに逞しくなったの?」

「そう?う~ん……風音君が年下だから知らず知らずにそうなっちゃったんじゃない?言われるまで自覚はなかったけど。」

「あ、そう……」

 あの大人しくて引っ込み思案な南海が今じゃ姉さん女房か。と、幼馴染の私は妙に寂しく感じた。……まだ結婚してないけど。


「とにかく、明日に備えて今日はここら辺でリハビリ終了ね。病室に連れて行くよ。」

 そう言って私を車イスに乗せると病室に向かった。


「じゃあ明日迎えに来るからね。」

 ベッドに横になったのを見届けると南海は帰っていった。


「はぁ~……」

 一人になって思わずため息が出る。そっと体を起こすと、テーブルに乗っている招待状…ライブのチケットを手に取った。


「…………」

 大丈夫だろうか。いや、今の状況では大丈夫じゃないだろう。歩けないのはもうしょうがない。南海の言う通り、ステージに上がる時は嵐にでも手を引いてもらえばいい。椅子の準備もしてくれるという。変なプライドを捨てれば何でもない事だ。問題は……


「歌えないっていうのがね……」

 もう一度ため息をつくと、チケットをそっとテーブルに戻してベッドに沈んだ。


 その夜はこれまでの人生で一番長い夜だった……




―――


「本当にここでいいの?」

「うん…私やっぱり歌えないもん。南海もう行っていいよ。準備あるんでしょ?」

「……わかった。行ってくるね。」

 小走りに去っていく南海を複雑な顔で見送る。私はそっと辺りを見回した。


 ここは観客席とステージの間のスペース。の、一番端。ちょうどぽっかり開いた場所で私は車イスに乗っていた。


 歌える気がしないと駄々を捏ねて、南海に連れてきてもらったのだ。まだ誰もいないライブハウスで私は一人目を瞑った。



 しばらくそうしているとざわざわと騒がしくなり、次第に熱気が籠ってきた。顔を上げるとファンの皆で観客席のほとんどが埋められ、メンバーの名前を呼ぶ声がどこからか聞こえる。


 南海から私が出ないと聞いた嵐が様子を見にくるかも知れないって思ったけど、当てが外れた。少しガッカリしながらステージに視線をやる。

 本当なら自分もあそこに立つはずだったのに、どうしてこんな所にいるんだろう?無力感でいっぱいになって涙が出てきた。


 その時だった。


「吹雪!!」

「え……?」

 突然嵐の声がマイク越しに聞こえてきた。ビックリして勢い良く顔を上げる。目の前のステージの上に嵐がいた。嵐だけじゃない。氷月も雷も風音君も南海も、そして…竜樹も……


 皆、私の事を見ていた。それぞれの定位置で自分の楽器の前で、あの頃と同じ笑顔で。

 そして信じられない事が起こった。


「吹雪!吹雪!!」

「っ……!」

 観客席からの吹雪コール。それも会場が割れんばかりの。胸が震えて後から後から滴が止まらない。それはさっきの乾いた涙ではない、温かくて何もかもを溶かす程の涙だった……


「大丈夫。大丈夫だよ。」

 嵐の口がそう動いた。気のせいかも知れないけれど。

 私は目を閉じて記憶を呼び戻した。


 この言葉は何かある度に私が嵐に伝えた言葉だった。初めてのオーディションの時、デビューシングルのテレビ初披露の時、初ライブの舞台裏……


「ふふっ……」

 思わず笑いが込み上げる。最初は自分に言い聞かせようと思ったのに、余りにも隣でガクガクしてるもんだからつい口をついて出たんだっけ。


 私はもう一度嵐を見た。嵐は大きく頷いて今度はマイクを通して言った。


「大丈夫。吹雪ならできる!」

 その途端、ファンの皆の歓声が大きくなった。

 その声に後押しされて車イスの腕置きに手をついて立ち上がろうとする。


「っ……」

 ブレーキはかかっていたが安定しない為、中々上手くいかない。ドサッと音を立てて椅子に逆戻りしてしまった。

 やっぱりダメなのか……


「私が押さえてますから、ゆっくり焦らないで。」

「……佐竹さん…」

 振り向くと佐竹さんがいた。車イスのハンドルの所を持っている。私は力強く頷くと、両足に力を入れてゆっくり立ち上がった。


 おおーー!という歓喜の声を背中に聞きながら、恐る恐る一歩を踏み出す。いつの間に降りていたのかすぐ目の前に嵐がいた。私に向かって手を伸ばしている。それを見て初めて逢った時の事を思い出した。


 あの時は私が伸ばした手を避けて情けない顔で逃げ出したくせに。ニヤけてしまいそうな顔を無理矢理引きしめると、私も嵐に向かって手を伸ばした。


 一歩…二歩……三歩………


 そこまで歩いたところで私の体は嵐の腕に支えられた。


「ごめん…三歩しか歩けなかった……」

「謝る事なんてない。凄いよ、吹雪!」

 私を抱きしめたまま涙声でそう言う嵐。そして体を離すと片手を差し出してきた。


「行こう!お前だけの特等席に。」

「でも私まだ……」

「うん、わかってる。無理して歌わなくてもいいからさ、俺の隣にいて欲しいんだ。だから頼む。」


 やめてよね、そんな顔するなんて。私が弱い事知っててやってるんでしょ。

 そんな事を思いながら睨むと、にかっと笑った。


「行こう。俺達の本当の居場所に。」

「うん!」


 ぎこちない動きではあったけど、私はついにステージへと上がった。


「よぉ!吹雪。久しぶりだな。」

「あ、竜樹……」

 竜樹が片手を上げて声をかけてきた。気まずい表情をしてたのだろう。苦笑しながら、


「そんな顔すんなって。もうふっ切れてっから。」

 と明るく言った。

 その様子にホッと胸を撫で下ろす。


「良かった。来てくれて。嵐が我が儘言ってごめんね。でも僕達も吹雪なしではライブできないからさ。」

「そうだよ~吹雪ちゃんはいてくれるだけで心強いからね。」

 氷月と雷がそう声をかけてくる。佐竹さんが運んできてくれた椅子に座りながら苦笑した。


「南海ちゃんから様子聞いてて心配だったんだけど来てくれて良かった。」

「言ったでしょ?風音君。吹雪はしぶといって。」

 南海の余りの言い草にムッとしつつも、風音君の思いやりに感動した。


「さてと!皆準備はいいか?」

 嵐が後ろを振り向き、そう声をあげる。それに答えるように雷がドラムをむちゃくちゃに叩いて、負けじと竜樹が持っていたエレキギターを高らかに鳴らした。


 それを聞いた観客席からの歓声は最高潮に達する。ファンの皆の熱気と照明の眩しさでじんわりと汗が滴った。


「『the natural world』の凱旋ライブのスタートだ!皆、今日は思う存分楽しんでいってくれ!」

 嵐のその一言に会場全体が揺れた。



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