第2話 恋愛相談 with ユーレイ
今日も目覚ましが枕もとでけたたましいほどの音を立てて、家中に鳴り響く。これで、起きなければ、綾子の声が階段下から聞こえるはずだ。その声が聞こえたら起きることにしよう。
「翠‼ 学校に行くぞ‼」
声だけ聴くととても心地よい低音ボイスが聞こえてくる。しかし、次の瞬間、ばんと乱暴に翠の部屋の扉が開いて、翠は飛び起きた。
「ちょっと‼ 人の部屋に勝手に入らないでよ‼ せめて、ノックしなさい‼」
ああ。そうだった。忘れていた。昨日から、不思議な住人がこの家に増えたことを。
「おいしそうな朝ごはんができているのに、いつまでも降りてこない翠の方が悪い」
「なんですって?」
「幽霊であるのが悔やまれるな。俺もハムエッグが食べたい」
「翠‼ 早く降りてきなさい‼」
綾子の声が階下から聞こえてきた。
「ほら。着替えて降りるから、家の外で待っていて」
翠は、昴をにらみつけた。
「まあ、そう怒るな。俺も女性の着替えが見たくてここにいるわけじゃない」
翠の剣幕に驚いたのか、昴は大人しく窓の外へと消えていった。
「朝から何事? やけにうるさかったけど」
リビングに下りると何も知らない綾子が朝ごはんをかきこんでいる翠を疑いの眼で見つめる。
「なんでもないよ。いってきます」
そう。なんでもないと翠は自分に言い聞かせる。
「それならいいけど。いってらっしゃい」
怪しげな視線を送る綾子に見送られて、自転車に乗り、翠は高校に向けて、一歩を漕ぎだした。坂を下っていると、
「おお。その制服は
隣でふわふわと昴が浮いている。
「もう。ついてこないでよ」
「……と言われても俺も行き場がない。ついては、行きたかった高校に行ってみたい」
どうも効果はなさそうだ。結局、昴は学校までついてきた。
「ここまでにしてよ」
自転車置き場で翠は昴に釘をさした。小声で言ったつもりだが、周りからは昴の姿は見えていないので、翠が不審者のような目で見られる。
「そうか。じゃあ、この周りでうろうろすることにしよう」
それもどうなのかと思ったが、このまま言い返すと独り言ばかり言うへんなやつになってしまう。しかも、始業五分前のチャイムが鳴り始めた。
「授業に遅れる‼ じゃあね」
不安はよぎるが、全力疾走で教室まで行かなければ、遅刻になる。今は遅刻にならないようにすることが最重要課題だと思うことにした。
授業の間、昴は姿を見せなかった。消えたり出てきたりする気だろうと思っていた翠はちょっとほっとした。一日乗り越えた。今日の達成感はひとしおだ。
「よし。帰ろう。このみ」
放課後、隣の席にいるこのみに翠は話しかけた。窓から差し込む太陽の光が窓際の席に立つこのみに当たり、神々しい。
「今日は家庭科クラブの日だよ。翠も行こう」
「そうだったっけ?」
「翠も部員でしょ。今日はクッキー作るっていう話だから、一緒に行こう」
自分が所属している家庭科クラブのことをきれいさっぱり忘れていた翠に対し、このみの足取りはとても軽やかだ。
「さすが。上手な人は気合が違うなあ」
「お菓子作るの、好きなんだ。家の台所だと自分で自由に使えないけど、家庭科クラブだと色々できるから、毎週楽しみなんだよね」
にこにこと語るこのみは、まさに男が憧れる女の鑑だった。
「私もこのみのお婿さんになりたい」
「翠なら大歓迎だよ。明るくて元気な家庭になりそうだし」
「そうかなあ……」
他愛ない話をしながら、毎週水曜日にある家庭科クラブの部室へ向かう。二年生の教室がある建物からは1番遠い。そして、改築されていないせいで、古びた床がきしきしと音を立てる何が出てもおかしくない校舎だ。その一階に家庭科室はある。
「お疲れ」
このみが家庭科室のドアを開けると部員たちが手を止めて、
「お疲れ様です」
と明るく返す。部員は全学年含めて20人。翠が1年の時は、廃部寸前だったから、それを思うと増えてきている。
「花崎さん。お疲れ。ちょうど今から作るところだったんだ」
こげ茶色の髪を元気よくチクチク生やしている少年がこのみに駆け寄ってくる。同じクラスの倉田舞希だ。
「そうなんだ。倉田くんが作るお料理はおいしいから、クッキーもおいしいんだろうなあ」
舞希は、男に対して、警戒心ばりばりのこのみが唯一心を許す男である。普段はこのみが周りからとやかく言われることを警戒して話さないが、ここで話しているのを見るとほっこりした気分になる。
「そうかな。この前のアップルパイはちょっと最後に砂糖を入れすぎたから、姉貴と妹から散々言われてさ。今日こそ成功させたいんだ」
「ええ。この前のアップルパイもおいしかったのに」
「姉貴はパティシエの卵だから、厳しいんだ。妹も口が肥えてきちゃって。だから、今日は頑張らないと」
「そっかあ。頑張って」
クッキーの生地を混ぜる時も、冷蔵庫で生地を寝かせる時も、型を抜く時も2人の会話は止まらない。会話に入れないので、翠はいつも黙々と作る。ようやくできたとオーブンを開けると、形はばらばらで、見るからに生のようなものや焦げているものも混ざっていたりする。お菓子なんていう代物ではなく、ただの四角形にしか見えない。家庭科の成績も3ではあるが、きっと先生の慈悲が入っているのだろうと思う。今日も材料を無駄にしたと1人落ち込んでいると
「それは……クッキーなのか?」
とデリカシーのない低い声が飛んできた。気が付くと昴が窓際で作業していた翠の隣に昴が立っている。
「何よ」
とうっかり言いそうになったが、ぎりぎりのところで言葉を飲み込んだ。すると、舞希と楽しそうに話していたこのみが
「あれ……何か聞こえたような……」
と不思議そうな顔をする。
「気のせいじゃないかな。ちょっと空気入れ替えるね」
翠は慌てて、窓を開けると昴を追い出し、鍵を閉めた。窓の外で、
「暴力反対だ‼」
と昴が抵抗している。しかし、こんな人目につくところで昴について話すわけにはいかない。翠が頭を打ったと思われるのが関の山だ。そんな翠の思いが伝わったのか昴は気が済むまで窓ガラスを叩くとどこかへ去っていった。単純に構ってもらえなくて、飽きただけなのかもしれないとも思う。
「よし。できたよ」
一方で、あんなにこのみと話していた舞希は、今日もおいしそうなお菓子を作っていた。同じオーブンを使っているはずなのに、舞希のものは、ひとつひとつ形が整っていて美しく、ナッツやチョコレートを混ぜ込んだものなど種類も豊富だ。焼き加減も表面がこんがりしていてちょうどいい。一口味見させてもらうとサクサクとしたいい食感とほどよい甘みが口いっぱいに広がる。
「おいしい。倉田くん、本当にお菓子作り上手だよね」
本心からそう思う。この男の女子力は本物だと。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
舞希がはにかんだように笑う。他のメンバーも舞希の焼いたクッキーだけは、
「おいしそう」
と言って、近寄ってくる。舞希は、この家庭科クラブの中では女子力が一番高いといつも翠は感心してしまう。
「じゃあ、紅茶入れるからみんなでお茶にしよう」
気がつくとこのみが家庭科室の戸棚からティーカップを出し、お茶を入れていた。今日はレモンがほのかに香る。舞希のクッキーを食べながら、このみの紅茶を飲む楽しいお茶会が今日も家庭科室で幕を開けた。話すだけ話すと他の部員たちは帰っていった。全員帰ったのを見届けて、2人でティーカップのセットを洗う。
「ごめんね。いつも翠に手伝わせて」
「私のことは気にしなくていいよ」
近寄ってくる男にはきっぱりと断りを入れるが、近寄ってくる女との距離感の取り方がこのみはよくわからないらしい。このみがお願い事をするのは、翠だけだった。
「翠がいなかったら、私もこの部もなかったかもしれないなあ」
「大げさだなあ」
「だって、翠が家庭科クラブに入ってくれたから、ぎりぎり定員に達して廃部にならなかったんだよ? 本当に助かったよ。ありがとうね」
「そう言われるとなんだか照れるなあ」
お願いされて入ったものの、家庭科クラブで何ができているというわけではない。しかし、このみと放課後までずっと一緒にいられるのは嬉しかった。これからもこのみは私が守る……そのくらいの気概でいる。
「ところでね……」
さきほどまで笑顔を見せていたこのみが急に表情を曇らせ、黙り込んだ。
「また何かあったの?」
このみがなんだか歯切れが悪い。じれったくなって、翠は自分から尋ねた。ただし、このみの相談事というのは、だいたい相場が決まっている。
「うん……それが……この前、倉田くんに2人で一緒に映画に行こうって誘われて」
今日も翠の予感は的中した。
「うわあ。相変わらず、モテるね。私にも分けてほしいくらいだわ」
何気なくこのみと一緒にいた舞希が実はそんなことを言っていたとは、思いもよらなかった。柔らかい物腰で恋愛に全く興味がなさそうなのに、よりによって学年で1番の人気を誇るであろうこのみにそんなことを言うとは、なかなか肝がすわっている。
「分けられるなら、翠にも分けてあげたいくらいだよ。いいお友達だと思っていたのに……どうして、いつもこうなるのかなあ」
翠が茶化してもこのみは相変わらず、神妙な面持ちでため息をつき、悩んでいる。
「嫌ならいつもみたいに断ればいいと思うけど?」
いつもきっぱりと断るこのみが思い悩む方が珍しい。
「それがねえ……倉田くんって料理だけじゃなくて、裁縫とかも上手だから、一緒にいると勉強になるんだよね。だから、無下に断るわけにもいかなくて……返事を保留させてもらっているの」
「そういうことか」
「そう。私の夢は家庭的なお嫁さんだからね」
「夢に向けての第一歩ってわけだ」
「そんな感じかな?」
夢のため……そんなことを言いきれるこのみがちょっと羨ましい。つまり、このみは夢のため、舞希はみんなの憧れの人と付き合うため、共通の趣味で繋がっているのだ。ギブアンドテイクといえば、確かにそうなのかもしれない。
「友達としてしか見れないって正直に言ったら?」
ない知恵を絞りだして、助言してみるが、
「それね、私が経験した中で、1番危ないパターンだから。切るならきっぱり切らないと」
あえなく撃沈した。白黒はっきりした態度を貫くのがなんともこのみらしい。
「そうかあ……恋って難しいなあ。私じゃあ、手も足も出ないや。ごめんね」
力になってあげたいが、なすすべがない。こんな時、恋愛経験が豊富とか頭の回転が速いとかそういった特技があれば、さっと回答できるのに……そう思うと平凡で何もできない自分がなんとももどかしく感じられる。
「いいの。翠に聞いてもらうとすっきりするから」
さきほどまでしゅんとしていたこのみがぱっと顔を上げた。その顔にさきほどまでの憂いはない。翠はほっとして胸をなでおろした。
「じゃあ。帰ろうか」
「そうだね。帰ろう」
復活したこのみが家庭科室のドアを開ける。勢いよく開けたその先に、
「待ちくたびれたぞ」
とかっかしている昴が立っていた。
「待たなくてもさっさと帰ればいいじゃない」
なんで、居候の昴に翠が怒られないといけないのか。昴の第一声が腹立たしいことこの上なかった。
「家の場所がわからないから、こうして待っていたんだ。そもそもこの部屋も探すのに相当苦労したんだぞ」
昴が自分は方向音痴ですとアピールするかのような主張をする。すごく重大なことを言っているのだろうけど、これは笑うところではなかろうか。翠が呆れて物が言えなくなっていた時、
「あの……どなた?」
とこのみが恐る恐る尋ねた。昴の目がきらりと輝く。
「おお。よくぞ聞いてくれた。俺は八神昴。昴と呼んでくれ」
相変わらず、全てを吹っ飛ばした説明しかしない。このみの頭の上にたくさんクエスチョンマークがついている。
「名前より先に言うことあるでしょ」
このままだと
「……じゃあ、この人は自殺したけど高校生活を満喫できなかったことが心残りで幽霊になった。そして、成仏するため、翠の家に居候している……っていうことね」
このみが大きな目をぱちぱちと瞬かせる。
「まさか見える人がここにもいたとは驚きだ」
昴も昴で予想外の展開に戸惑っているようだ。
「高校生活を満喫ねえ……それがどういうことなのか私には見当もつかないや。ごめんね」
このみが昴に謝りを入れる。言い方はやんわりとしているが、これ以上、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと顔には書かれている。
「いや。仲間が増えて、俺は非常に嬉しい。これからよろしく」
このみの顔に明らかに関わらないと書いてあるのに、昴は持ち前の空気の読めなさでずかずかと踏み込んでいく。
「仲間……?」
このみが若干引いている。勝手に仲間にされても困るというものである。
「そうだ。幽霊同好会というところだな。我ながらいいネーミングセンスだろう?」
表情はそのままなのに、自信満々に言う昴が面白かったのかこのみはお腹を抱えて笑い出した。
「同好会ねえ……なんだかよくわからないけど、よろしく」
悪い人ではないということは伝わったらしい。一時はどうなることかと思ったが、これでピンチはしのいだ。
「ほら。帰るよ」
放っておくといつまでも喋りそうな昴に声をかける。学校で一晩明かすのは勘弁してほしい。すっかり暗くなって、星が見え始めた空のもと三人はそれぞれ家路についた。
家に帰ってからも翠は、このみの相談が気がかりで仕方なかった。奏の部屋に昴を押し込み、自分のベッドに転がったまま悶々としていた。
「私だったらどうするかなあ……」
このみみたいに生命の危機を感じるほどにモテて、そんな中で友達だと思っていた男の子にデートに誘われたら……そんなありえない仮定の話を考えても答えが出てくるわけがなかった。もちろん、翌日になっても、その翌日になっても答えは出ないままだ。
「おはよう」
教室に入ると隣の席のこのみが声をかけてくれる。いつもと同じ優しい天使のような声ではあるが、どこか浮かない表情をしているような気がしてならない。
「おはよう」
翠もあの相談を受けてからどうもすっきりしない日々が続いていた。そんな思いを抱えたまま、授業を受け、今日も昼休みになった。爽やかな新緑の季節になったというのに、それらしいことは一つもない。窓の外に目をやると下の階の窓で昴がふわふわと浮いたまま、中をじっと見つめているのが見えた。幽霊なのだから入ればいいのにとつい思うが、何か思うところがあるのだろうか。その時、机に座ったままぼんやりと窓の外を眺めていた翠に誰かが近寄ってきた。
「翠。今日は天気がいいから、屋上でお昼ご飯食べてみない? 2年の校舎の屋上で食べるのって初めてだし」
ふと顔を声の方向に戻すとこのみが弁当を持って立っていた。翠たちの学校には、校舎ごとに自由に使える屋上がある。天気がいい時には、ここで弁当を食べるのが翠とこのみの1年の時からの習慣だった。
「いいね。行ってみよう」
このみと連れ立って教室を出て、2年3組の隣にある階段を上がる。3階建ての校舎の1番上が屋上だ。古びた鉄の重たい扉をゆっくりと開ける。明るい太陽の光が翠たちに降り注ぐ。暗いところから出てきたせいかまぶしく感じられる。きれいな青空に羊のような雲がのんびりと流れていた。
「1年の校舎から見るのとはまた違う眺めだね」
このみに言われてフェンスに近づくとせわしなく動く車や人が見える。地上から見るとそびえだって威圧感があるビル群もここで見たら模型のように小さく感じられる。ビルの奥には山が連なっているのが見えた。
「このへんがいいかな?」
このみがきれいに街が見えるポイントを探しながら屋上をぐるぐると回る。まだ昼休みになったばかりだからか人が少ない。
「ここにしよう」
翠が座った場所は、腰かけられそうなブロックが2つ並んでいたところだ。高さがある分、街もよく見える。
「いいね」
2人でブロックに腰かけ、弁当を広げる。翠は、かわいらしいピンクの花柄の袋から落ち着いた赤い色の二段弁当を取り出した。弁当の蓋に描かれている雪ウサギのような丸々したウサギが綾子も翠も大好きだ。蓋を開けると卵焼きやたこさんウィンナーをはじめ、色とりどりのおかずが顔を出す。
「いつ見てもおいしそうで羨ましいなあ」
「このみもいつもおいしそうなご飯食べているでしょ」
「おいしいけどさ……これが高校生のお弁当に見える?」
華奢なこのみが正方形の重箱を取り出す。重箱の表面は金箔がちりばめられていて、見るからに高そうだ。
「さすがお嬢様」
「敏腕社長の1人娘なんて自由がなくてつまらないよ。お母さんもいつもお父さんと一緒に商談に行ってるから、ほとんど家にいないもの」
ぶつくさ小言を言いながら、このみが弁当箱を開ける。フォアグラが乗っている牛フィレ肉がどんと重箱を陣取り、ご飯からはほんのりバターの香りがする。副菜として入っているサラダは、色とりどりの野菜が組み合わせれており、仕上げにナッツのようなものまで乗っている。
「お弁当作るの、お手伝いさんに任せきりなんだ。高級食材入れておけばいいってもんじゃないよね」
このみは相変わらず文句をたらたらと言っているが、フォアグラなんて無縁の翠には羨ましい限りである。お弁当の話を皮切りに、その後も他愛ない話を続けていく。昼休みも終わりに近づいたころ、狐のように吊り上がっている目の細い女とくせっ毛髪を後ろで無理やり1つで束ねている女の2人が翠たちの前で足を止めた。
「花崎さん?」
ねちねちと粘り気のある声で狐目の女が尋ねる。
「そうだけど……」
翠も見たことのない女たちだ。こんな人たちが同じ学年にいたなんて知らなった。それなのに、わざわざ話しかけるこの人たちの度胸は大したものだ。しかし、わざわざこのみに寄ってくる女というのは、いつものごとくよくない理由がある。
「最近さ、倉田君が病んでるの、知ってる?」
くせ毛の女がもったいぶって尋ねる。
「病んでる……?」
「そうそう。放課後に1人でぶつぶつ呟いているんだってさ。家庭科室がある建物の裏で」
狐目の女が意地悪気な笑みを浮かべる。
「花崎さんが振ったから、ショックで病んだらしいよ」
「え……?」
くせ毛の女が口に手を当てて、くすくすと笑う。その言葉を聞いて、このみが一瞬固まった。
「ねえ。かわいそう」
「あんなに仲がよかった倉田君まで振るなんてさあ。ありえないよね」
このみが好き放題言われて、拳を握り締めている。翠も聞いていて、腹立たしいことこの上なかった。
「あんたたち……」
言わせておけば、あることないこと言って……と反論しようとしたが、
「戻ろう。翠」
このみが翠を制し、くるりと背を向けて階段の方へと向かい始めたので、翠も後を追うことにした。翠1人なら食ってかかっていただろう。あの女たち命拾いしたなと思う。
「腹立つね……あの女たち……何様のつもりなんだろう」
階段を下り始めても翠のはらわたはまだまだ煮えくり返っていた。
「学年で1番人気のある人の弱みを握ったとでも思っているんじゃない?」
「それが腹立つよね」
「腹は立つけどさ……それよりも心配なのは倉田君だよ……大丈夫なのかなあ」
薄暗い階段を下りると今まで翠に背を向けていたこのみの表情が見えてきた。涙をにじませて苦しそうな顔をしているこのみに翠は何の言葉もかけてあげられなかった。こんな時に気の利いたことが何か言えればいいのにと自分の至らなさを痛感せざるえなかった。
翠がこのみの一件で頭を悩ませている一方で、昴は毎日、とても楽しそうだった。
「学校はパラダイスだな。同じくらいの年の男女に出会えたのは、久しぶりだ。扉や窓は通り抜けられないと思っていたが、よく考えてみたら俺は幽霊だから、どこであろうと行けるのだ」
昴がきらきらと目を輝かせる。
「はあ……」
なんて答えたらいいのかわからない。通り抜けなんて物騒な力を使って、何かよからぬことをしていなければいいが……と思わずにはいられない。
「俺は自由だ……‼ 自由なのだ……‼」
昴は自由をかみしめながら、どこの学年の何の授業が面白かったのかということ、学校の購買においしそうな焼きそばパンがあったこと、体育館や武道館に紛れ込んで部活を見学したことなど生き生きと翠に話してきた。
「そう……それはよかったね」
翠以上に高校生活を満喫していて、辟易する。今まで引きこもっていた分、色々と感動が大きいらしい。しかし、このみの相談の答えを真剣に模索していた翠は、昴の話を聞いているようで聞いていなかった。
「何をそんなに悩んでいる」
「え……?」
ぼんやりと考え込んでいた翠は、驚いて昴の方を見上げた。マイペースな昴が人の心配をしてくれている。まだゴールデンウィークが過ぎたばかりだが、雪でも降るのではないかと疑ってしまった。
「そんな辛気臭い顔でこちらを見るな。楽しい学校生活の締めくくりにその顔はよくない」
前言撤回だ。要は自分の話を聞いてほしかっただけなのだろう。
「悪かったね。辛気臭い顔していて」
不愉快極まりない。ぷいとそっぽを向く。
「何があったか知らないが、翠にそんな顔をされると調子が狂う」
ちらりと昴の方を見ると昴もむすっとはぶてている。
「昴に話してもねえ……」
恋なんて無縁そうなこの男にこのみの恋愛話をしても堂々巡りになるに違いない。
「俺だと力不足だって言いたそうだな」
「そりゃあねえ……このみの恋の話だし」
口にしてから、はっと手で押さえる。大事な友達の相談を得体のしれない幽霊に言ってしまった。後悔してもしきれない。焦りを隠せない翠を見て、にやりと昴が笑う。
「なるほど。そういうことなら、話を聞かせてもらおう」
恋の相談なら俺は役に立たないと言ってすごすご引っ込むだろうと思っていた翠の予想に反し、昴は自信があるらしく、翠の目の前にどっしりと腰を下ろした。
「ええ?」
目を丸くしている翠に気にも止めず、昴は飄々と話し続ける。
「まあ、話してみろ。学園ラブコメ系の本を熟読し、学園生活について日々勉強している俺なら、多少は役に立つだろう」
それがどう役に立つのかはさておき、翠が詳細を離さなければ、昴は永遠にここにいるだろう。翠は口が滑ってしまったことをこのみに心の中で謝りながら、翠はこのみから受けた恋愛相談を昴に話した。
「なんだ。そんなことで悩んでいたのか」
「そんなことって何よ」
本人は真剣に悩んでいるのだから、そんなに軽く考えないでほしい。全くデリカシーのかけらもないやつだ。
「答えは至極単純だ」
しかも、小説に出てくる探偵が謎を解き明かすときのようにもったいぶっている。
「は?」
昴は人差し指をぴんと伸ばして翠の方に向け、
「俺に任せろ」
と言い切った。
「……はあ?!」
唐突に俺に任せろと言われた翠には理由がさっぱりわからない。
「俺に名案がある。明日の放課後は、部活だろう?」
「まあ……そうだけど」
「ちょっと残ってもらえれば、あとは俺がなんとかする」
「何をする気?」
「内容については、わけあって言えない。ただ、俺の培ってきた最大限生かす。……それだけだ」
だんだん会話が噛み合わなくなってきた。不安は募るばかりである。
「なんだ? 文句でもあるのか?」
じっと翠の顔を覗き込むその距離があまりにも近くて、思わずのけぞった。
「あ、ありません……」
まだ聞きたいことは色々とあったのに、不覚にもどきどきして、うまく言葉出てこなかった。
「よし。明日は頑張るぞ」
昴が嬉しそうにうんうんと頷く。こののんきなマイペース男に大事な友達の恋路を任せて大丈夫なのだろうか。昴の案とは何なのだろうか。考え始めると気になって、その夜は結局、明け方まで寝つけなかった。
「ああ……眠い」
朝起きて、着替える時もご飯を食べる時も自転車に乗っているときも、頭にもやがかかっているようだ。こんな状態で、学校にたどり着けたなんて、奇跡としか言いようがない。
「眠たそうだな」
翠の隣では、昴がけろりとしている。
「誰のせいよ。昴は眠くないの?」
「俺は眠くない。幽霊というのは、どうやら腹も減らないし、寝なくても大丈夫なものらしい」
昴が自分に言い聞かせるようにぶつぶつと自分について考察をし始めた。
「便利ねえ」
しかし、眠気でぼんやりとしている翠にはお経にしか聞こえない。
「ああ。しかも、空も飛べる。悪くない」
あごに手を当てて、爽やかに昴が答える。幽霊になったというのに、
「悪くないなら、いいんじゃないの?」
あくびを噛み殺しながら自転車を置く。今日はいつもより早く着いたのがせめてもの救いだ。
「そんなことより、昨日の話、忘れるなよ?」
昴が急に真面目モードに戻って、翠に釘をさしてきた。この勢いだと頷かないと引きそうにない。
「わかってるよ。部活後は頼んだよ」
「ああ。任せろ」
いったいその自信はどこから来るのだろう。翠はその日授業そっちのけで今日の部活後に思いを馳せていた。
「翠、今日、眠そうだね。部活、行けそう? 早く帰った方がいいんじゃない?」
よほど眠そうだったのか放課後にこのみに心配されてしまった
「大丈夫だよ。今日はよく寝るから」
今日は昴が待機している。
「そう? 倒れないようにしてよ」
このみが寝不足の翠を気遣ってくれた。優しい友人を持つことができて、翠は幸せだ。
「そういえばさ、今日、部活後にちょっと残れるかな?」
翠が家庭科室に残ってもこのみがいなければ意味がない。危く言うのを忘れるところだった。
「大丈夫だけど……どうかしたの?」
「ちょっと話があるの。そんなに時間はかからないから」
「珍しいなあ……翠が話があるなんて」
「まあまあ。そう言わずに」
しきりに首を傾げているこのみに残るよう促しつつ、翠は自信満々だった昴のことが心配でならなかった。
家庭科室に行くとすでに他の部員たちがそれぞれ材料を机の上に並べていた。
「お疲れ」
家庭科室に入ると舞希が明るく出迎えてくれた。どこかおかしいようには見受けられない。あの狐目の女が言っていたことはガセネタではないかとさえ思う。
「お疲れさま」
にこにこと笑顔でこのみが挨拶を返す。心の中では思うところは色々あるだろうが、こちらもいつも通りだ。今日はプリンを作ったが、特に何も起きなかった。みんながそれぞれ上手にプリンを作る中、固まらず、なめらかプリンを通り越してさらさらプリンを作った翠だけが落ち込んでいた。よくある光景だ。
「翠……今日は、調子が悪かったんだよ」
このみが部屋の片隅で肩を落としている翠を励ます。
「味はプリンですよ、先輩」
「そうですよ。材料は一緒ですから」
後輩たちが口々に翠を励ます。
「大丈夫。失敗は成功のもとだから」
もうすぐ引退になる先輩たちも翠を励ましてくれた。
「ありがとうございます……」
家庭科クラブに所属して1年。いっこうにうまくなる気配はないが、こんなに温かく励ましてもらえるならこれからも頑張ろうと思う。
「さて。食べたら、片付けようか」
いつも誰よりも長く話している舞希が今日は早々と片づけを提案した。率先して動いて、家庭科室を元通りの状態に戻すと部員たちを外に出した。どうやら残っているのは翠、このみ、舞希の三人だけのようだ。
「よし。これで話ができるな」
昴がどこからともなく姿を現した。
「うわあ!! この前の幽霊さん……」
突然の昴の登場にこのみが驚いて、一歩下がる。
「昴だ」
「ああ……そうだったよね。ごめんね」
「わかってくれれば、それでいい」
昴はこのみがどんなに驚いても表情を変えない。真剣そのものだ。
「……それで? 何を話す気なの?」
と聞いたのは、翠ではなく、舞希だった。マイペースな昴にも笑顔を崩さない。どうやら昴のことが見えるらしいが、全く驚いていない。なぜなのかと聞きたいのは山々だが、先に昴案を聞きたい。翠は昴の次の言葉を待つことにした。
「ああ……俺なりに考えたんだが」
家庭科室に緊迫した空気が流れる。いったい何を言う気だろう。
「今週の土曜日にここにいるみんなで映画に行くぞ」
「はあ?」
あれだけもったいぶっておいて、それなのかと翠は呆れてしばらく物も言えなかった。
「高校生が地元のショッピングモールにある映画館に行くとは青春だ」
真顔で真剣に訴えかけてくる昴にあっけに取られる。このみと舞希もなんだか拍子抜けしているようだ。
「そうなの?」
「そうだ。男女の関係うんぬんの前に友情なるものを深める。それが高校生らしい青春の在り方だと俺は思っている」
「友情……」
「いちいち突っかかってくるな。これは俺の夢だ。壊すんじゃない」
翠と昴が二人でああでもないこうでもないと言い合っていると今まで黙っていたこのみが急に笑い出した。
「このみ?」
「ごめんごめん。なんだか漫才見ているみたいで面白かったから」
このみは腹を抱えてまだ楽しそうに笑っていた。
「俺はいたってまじめだ」
むっとはぶてる昴を、
「それは見ていれば、わかるよ。僕はその話、乗りたいな」
舞希がにこやかに笑って、なだめる。
「さすが俺の親友だ。わかってもらえて嬉しいぞ」
「2人はどう思う?」
舞希は、毎日昴と一緒にいると翠と同じくらい落ち着き払っていた。かなり慣れているようだ。
「映画、行こうよ。みんなで青春しよう」
このみが思った以上に乗り気だ。2人でと言うと渋られた。しかし、結果的には翠と昴も巻き込んで好きな女の子にいい返事を出させた。かわいい雰囲気なのに、なかなかしたたかな男だ。舞希も侮れない。
「私も行くよ」
「当たり前だ。俺が行くのだから」
「強制参加?」
昴と言い合っているとまたこのみがまた爆笑し始めた。そんなに面白いことは言っていないような気もするが、このみにとっては、ツボらしい。
「ところで、いつの間に知り合ったの?」
毎日、どうでもいい話はなんだかんだとしてくるくせに、舞希の話は一度も聞いたことがなかった。
「先週、裏庭でぼんやりしていた舞希に話しかけてみたら、反応がよくてな。すっかり仲良くなった」
「そうだね。まさか幽霊の友達ができるとは思わなかったよ」
「それで毎日、裏庭で話をしていたんだ。しかるべき時が来たら話そうとは思っていたんだが、いかんせん興味深いことが多くてな。舞希との会話は、翠に報告するような内容でもなかったし、優先順位が低かったんだ」
昴の話を聞いて、翠はふと狐目の女が言っていたことを思い出した。
「倉田君……気をつけた方がいいよ」
「え? 何を?」
「昴って他の人には見えないから、倉田君は他の人から見ると放課後に独り言を言っている危ない人にしか見えないんだよ」
舞希を見た人は昴の姿が見えなかったのだろう。このみも思い出したようにぽんと手を叩いた。
「そういうことだったのか。もう。心配しちゃったじゃない」
このみが頬を膨らませて怒っている。自分のせいだと思っていた分、反動が大きいらしい。
「え? そうなの? 今度は場所を変えなきゃいけないなあ」
このみがむすっとしているのを見て、さすがの舞希も慌てふためいている。
「それもいいな。今度は放課後カフェはどうだ? ファミレスもいいなあ」
昴は、目を輝かせて、わくわくしている。どうやら事の深刻さがわかっていないらしい。
「うるさい‼ 昴は黙っていなさい‼」
「じゃあ、来週の土曜日、駅に十時集合だ」
昴は翠の殺気を感じ取ったのか扉からすっと消えていった。
「こら‼ 待ちなさい‼」
ぽかんとしている舞希とこのみを残し、翠は昴を追いかけて、廊下を全力で駆け抜けた。
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