第97話 リミット病室

 私は台本を捲り続けた。鼻に抜ける古いインクの様な匂いがして、まるで最初のデートの時に嗅いだ波星書店だと思った。美沙子さんの直筆の文字が縦に延々と続いている。この文字の先には必ず終わりがある。終わりのない劇などこの世に存在しない。焦燥感と台本を終わらせたくない気持ちが入り混じって私は頭をかきむしった。すっかり日も暮れて友人たちは私の事を気遣ってか、外の廊下で待機している。何故か帰らない。いや、帰れないのかもしれない。アンドロイド・ディベロップメント社の何らかの指示がそこにはあるのかもしれない。

 タイムリミットまで一時間を切った。先ほども言ったが、終わりのない物事など存在しない。タイムリミットの無い予定なんてない。──永遠に存在する恋愛なんてない。

 台本のコンセプトはいつかの波星書店で読んだ本の様な世界だ。アンドロイドと人間の対立を描くが、アンドロイドは中々人間を理解出来ない。不用意に近づいては怒りを買い、人間はアンドロイドを排斥する。だが、アンドロイドはそれでも人間を愛そうと懸命になった。そして──。

 私は美沙子さんとの記憶を思い返した。どれも笑顔で可愛らしい美沙子さんの姿が出てくる。この状況でそんな幸せな記憶は苦痛でしかなかった。私の選択によっては美沙子さんは永遠に私を忘れてしまうのだから。

 でも仮に私がここで台本を拒否したら世界はとんでもない事になってしまう。周りの親友にも大きな災いが降りかかるかもしれない。それを阻止する事が美沙子さんの望みであるのならば私は美沙子さんの気持ちに応えなければならない。


「よろしくお願いします、直人さん。私は直人さんの様な優しい人に、初めて出会ったような気がします」

「未来、人間の社会にアンドロイドが完全に浸透するっていう話があるんですが、その年代が丁度今なんですよ! あまりにも予測と現実が当てはまりすぎて驚いちゃったんです」

「そういえば、直人さん。今度、遊園地行きません?」

「直人さん、後であそこのジェットコースターに乗りませんか? きっと楽しいですよ」

「まぁ最も、人間が持つ様な感情をアンドロイドは持つ事が出来ないので、このリセットJによってアンドロイドが悲しんだりする事は無いですが」

「無事に全てが終わったらお話しします。だって私は、直人さんの事が大好きですから」


 結局美沙子さんから全て教えて貰える事は出来なかった。でも、今までの美沙子さんとの記憶を辿ると、本当はこの結末を用意するための布石だったのかもしれないと思えてきた。彼女が選んだ人間のパートナーが私であり、私と過ごした日々の記憶を使って世界的AIの軌道を修正する。そう思ってくると、ここで私が台本を拒否するのも駄目な気がしてきた。

 時計を見ると思ったよりも時間が進んでいた。私は決断を下す事にしたのだった。

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