-3-
初めて歩く「世界」は、コーデリアが「音のする小部屋」に飛び込む前に通ってきた処とは、似ているようで違っていた。扉と窓が並んでいるのは変わらなかったが、その間隔は広く、部屋の並びも不規則だ。天井や廊下の幅は、倍ほど広い。
たくさんの人間たちが、廊下を歩いていた。しかも皆コーデリアの知らない者ばかりだ。
彼らの態度は様々だった。奇妙なものを見たとばかりに、怪訝な顔をする者。あるいは嬉しそうに目を細める者。またはしゃがみ込んで手を差し伸べ、彼女の気を惹こうとする者――。まあ、こういった連中は、知らんぷりしていればそれ以上何もせずに去っていくので害はない。
問題は悪意をもって彼女に近づく者だったが、そういう連中の気配はすぐ判る。
広報部の者以外の人間と接する機会がほとんどなかったため、はじめは過剰に警戒していた彼女だったが、すぐに不安は解消した。いまは、黒くて長い自慢の尻尾をピンと立て、広い廊下の真中を闊歩している。
冒険は順調だった。開け放たれたままの扉があればこっそり中を覗き込み、好奇心が満たされれば先へと進む。まあいずれも目新しいものは大してなく、がらんとした殺風景な部屋ばかりだったが。
一フロアを見尽くしたコーデリアは、次の世界へと向かう。今度は「音のする部屋」には入らず、そのすぐ脇にある階段を下りたのだが、その途中、彼女の鼻を美味そうな匂いがくすぐった。いろんな匂いに混じって、魚の焼ける匂いがかすかにする。おやつを食べ損ねていた彼女は、思わず匂いの元を辿った。
階段を下りきると、廊下を突き当たるまでいく。自然と左へ折れ、少し行くと右手に開け放たれた入口があった。壁際に身を寄せ、そっと中を覗き込む。
広い部屋だった。中央に何人も座れる大きなテーブルが据えられ、壁や窓際には小さめのものが並べられている。だが、そのほとんどが空席だった。然るべき時間がくればそれなりに賑わうのだが、コーデリアには知る由もない。
入口を入って左手は、奥行きいっぱいはある長いカウンターになっている。そこにトレーを手にした隊員が数人並んでおり、カウンター越しに何やら盛られた皿を受け取っていた。どうやら芳しい匂いは、そのカウンターの向こうからするようだ。
誘われるままに、コーデリアは部屋へ足を踏み入れた。
目の前を、明滅する光が横切った。
『あ!』
高度を下げながら流れる光に、コーデリアの耳がピクリと動き、白いひげがピクピク震える。
『ひこーき!』
窓の向こうを、航空機が飛んでいた。
それは広報部室から見えるものと違って、より近く、大きく見えた。見下ろすのではなく、真横から見るからだろうか。手を伸ばせば、触れられそうな気さえする。
コーデリアには「いつかこの手で、アレをはたき落とす」という野望があった。滑走路を眺めているうちに、離着陸する航空機を捕まえてみたいと思うようになったのだ。これまで一度も挑んだことはなかったが、やってみれば必ず捕まえられると信じている。だが、いま目の前を横切ったものは、ちょっと彼女の手にはあまりそうだ。
とはいえ、獲物は大きい方が、捕らえた時の達成感も大きいというもの。かえって闘志が湧いてくる。
「んなぁぁー!」
武者震いとともに、彼女の口から昂ぶった声が洩れた。その声に、トレーを持った連中が気づいた。
「お? どこの猫だ?」
「俺、どっかで見たことある。えーと、どこだったっけなぁ」
隊員の一人が眉間にしわを寄せ、記憶の糸を手繰ろうとする。しかし別の隊員が、その糸を断ち切った。
「ま、どこでもいいさ。どれ、おまえも食うか?」
そう言って彼は、持っていた皿から白身魚のほぐしたものを少し摘んで床に置いた。さっきから気になっていた匂いが、いっそう際立った。そして目新しいものにすぐ関心が向くのは猫の性か――その瞬間、「ひこーき」はコーデリアの頭から空の彼方へ飛んでいった。
彼女は白身にゆっくりと近づくと、鼻を近づけ、慎重に匂いを嗅いだ。どうやら、食べても問題なさそうだ。艶のある白い身は実に柔らかそうで、口に含めばたっぷりの脂がたちまち口中に広がることだろう。以前の彼女なら、目の色を変えてむしゃぶりついていたはずだ。だがいまの彼女は、それ以上食欲を刺激されなかった。
コーデリアは、いままでいろんな魚を食べてきた。その中で一番美味いと思ったのが、エビネのくれる「いりこ」とかいう乾燥した魚だった。あの噛むほどに滲み出す味と、歯ごたえのある食感がたまらない。その魅力を知ってしまうと、味気も歯ごたえもない魚は物足りなかった。
「フッ」
興味なしとばかりに鼻を鳴らすと、コーデリアはそっぽを向いた。頭上で憤慨の声が上がる。
「なんだよ、せっかく俺の昼飯を分けてやったのにっ」
彼女に見覚えがあると言っていた隊員が、憤る同僚を揶揄する。
「猫さまは、そんな安い魚なんか食わねーってよ」
それは誤解だった。グラム単価では、エビネのいりこより彼らの白身の方がわずかに高い。だがそのようなことなど知るよしもない二人の下士官は、思わず顔を見合わせ、同時に自分のトレーを覗き込んだ。
「って、猫も食わねーもんを、俺たちは食ってるのか……」
賑わった時間ならば、彼らの声はざわめきに紛れていただろう。しかし食事時を二時間も過ぎた現在、部屋は閑散としている。呟きは厨房の奥までしっかり届いた。
夕食の下拵えをしていた兵たちの肩が、ピクリと跳ねる。次の瞬間、剣呑な空気が食堂を満たした。
「あ!」
自分たちの失言に気づいた二人は、顔を強張らせた。示し合わせたわけでもないのに、視線が厨房の奥の一点に集中する。
そこには、片頬を引き攣らせた中年の男が立っていた。
「あ、いや、その――」
「別に、曹長の料理にケチつけたわけじゃ……」
二人は言い繕う。だが曹長と呼ばれた白い割烹着の男は、不気味な笑みを浮かべるだけだ。決して友好的とは思えない笑みに、下士官たちの肌が総毛立つ。
「ほぉ、そうかい――」
と、低く呟いた曹長は、大きく息を吸い込むと、大音声とともに一気に吐き出した。
「安い魚で悪かったなっ! 嫌なら食うな! この無駄メシ喰らいがっ。大体おめぇら、メシの時間に遅れてきといて文句たれるたぁ、イイご身分だな。
次第に語りモードへとシフトしていく曹長の怒声は、止まるところを知らなかった。口を滑らせた下士官たちは逃げるに逃げられず、首を竦めて嵐が収まるのを待つばかりだ。
騒動の原因となったコーデリアはというと、あまりの喧しさに早々と大きな部屋から退散した。匂いの元を探るという目的は達成されたので、満足だった。
再び興味を惹くものを探して歩き回る。
廊下の分岐点を何度か折れたところで、突如、目の前に小山が現れた。こんもりとした蒼い塊が、宙に浮いているように見える。
『何?』
コーデリアは、目の前に現れたものが何なのか、一瞬判らなかった。五秒ほど観察して、それが「樹」であることに気がついた。そう高くない手すり向こうに、樹冠の部分だけが顔を覗かせていたのだ。
『なぜ部屋の中に、あんな大きな樹があるの?』
上下左右を見回し、自分のいる場所を確認してから、コーデリアは考えた。
遥か頭上に天井が見える。足元はワックスのかかった少し弾力のある床。左右には、樹を包み込むように弧を描いた廊下が伸び、その先は階下へと続く階段になっている。
どうやらここは、吹き抜け部分に張り出した広い踊場、あるいはバルコニーの上らしい。
コーデリアは手すりに近づくと、その上に跳び乗った。彼女の肩ほどの幅しかない手すりの上で、よろめくことなくバランスを保つ。
彼女が顔を上げると、ほんの目と鼻の先に瑞々しい葉っぱの小山が迫った。
大きな樹だった。幹だけでなく、いくつにも分かれた枝も太い。古葉の茂る枝先から新芽が芽吹き、その表面を覆う柔らかな産毛が、眩いばかりの照明を受けて煌いている。木陰は適度に暗く、ひんやりとして心地よさそうだ。
手すりの上は、樹に向かって
一も二もなく、彼女はその誘いに乗る。
『せーの!』
勢いをつけて手すりを蹴った。四肢を目一杯伸ばして宙を跳ぶ。視界が緑一色になった。細い枝葉が顔をかすめる。直後明暗が一転した。前足が太い幹を捉えた。葉擦れのざわめきを伴って大きく撓む。だが彼女の体重ぐらいで折れるほど脆くはなく、古葉を数枚振るい落とすにとどまった。
揺れが収まるのを待ってから、コーデリアは樹の中を見回した。重なり合う葉の隙間から、糸のような光が洩れてくる。暗すぎも明るすぎもしない緑の世界は、揺り籠の中にいるような安らぎを覚えさせる。
枝々をくぐり抜けていく微風が、葉の放つ爽やかな香りを運んでゆく。
『あ――』
この匂いには、覚えがあった。
『ここ、マックスパパがいつも立ち止まるところだ』
出勤時と退勤時、彼女の飼い主がいつも立ち止まって深呼吸する場所があった。コーデリアも籠の中で一緒に深呼吸していたのだが、いつも他とは違う空気の匂いを不思議に思っていたのだ。なるほど、あれはこの樹が発する匂いだったのか。
たしかパパは、この樹のことを〈
いつも数十秒の間、飼い主を魅了する〈世界樹〉とは、どんな樹なのだろう。
そう思うと、コーデリアは無性にその全貌が見てみたくなった。
思い立ったら即実行――さっそく樹の根元を覆う芝生の上に飛び降りる。下草として植えられたカモミールをかき分けながら、植え込みの終わりを目指す。動くたびに、甘い香りが彼女を包んだ。
むせ返るほどの匂いを堪えて進んでいると、唐突に目が眩んだ。植え込みを抜けたのだ。風が頭にまとわりついた香りを運び去る。
コーデリアはしばらく目を細めてじっとしていた。目が慣れれば、物の形がはっきりしてくるはずだ。
しかしいくら待っても、眼前はぼんやりしたままだった。樹の周囲だけが特に明るいため、その奥に広がる暗がりが見づらいのだ。確かに彼女は、闇を見透かす眼を持っている。しかし、それはわずかな光でも見えるよう特化されているからであって、明々と光を照射られた状態で見る場合では、また勝手が違う。
それでも全く見えないわけではなかった。正面には高く聳えるガラスの窓があって、カリストの空を覗かせている。黄昏ゆく空の明るさは、頼りないながらも暗がりの様子うっすらと浮かび上がらせた。
不意に窓の下部に影が現れた。すると窓の一部が開き、コートをしっかり着込んだ人間が入ってきた。ガラスでできた扉は、人間の背後で再び閉じる。
「おはようございます、ディスクリート大佐」
入ってきた者に向かって、扉の脇にあるカウンターに座っていた隊員が声をかけた。
「おはよーさん」
ディスクリート大佐は片手を上げて応えたが、ふと思いついたように振り返ると、訊き返した。
「それはそうと、うちのカミさんとチビ熊、通ったか?」
「いえ、まだ――」
「よかった。遅れて行くと、うるさいんだよな」
そう言って苦笑を浮かべた大佐は、先を急ぐべく歩みを速めた。樹に向かって歩いてくる。コーデリアは慌てて首を引っ込めると、下草の茂みに隠れた。息を潜めてやり過ごすつもりだった。木の後ろは突き当たりだ。このホールから出るには、中央付近で右か左へ折れなければならない。
ところが大佐は、依然曲がろうという素振りも見せずに近づいてくる。コーデリアは思わず背を丸め、できるだけ小さくなった。
カツン――。
〈世界樹〉まであと十数歩――ホールの中央をわずかに過ぎたところで、大佐の足音が途絶えた。代わりにホッとしたような吐息が洩れる。
コーデリアはそっと、ギザギザした葉の間から蒼い双眸を覗かせた。
大佐が樹を見上げていた。灰茶の瞳に、崇拝に似た色が浮かんでいる。肩を大きく上下させて吐き出す息には、声にならない祈りが込められている。
それは、コーデリアの飼い主がとっている行動とよく似ていた。いや、全く同じといってもいい。
『マックスパパも、あそこからああやってこの樹を見てるのね』
ひとしきり深呼吸した大佐は満ち足りたように微笑むと、再び左の廊下へと歩き出した。
大佐の忙しない足音が聞こえなくなるのを待って、コーデリアは植え込みから抜け出した。床から一段高くなっている花壇を降り、大佐が立っていた場所まで移動する。カウンターの中にいる隊員が、突然現れた彼女に目を丸くした。だが声を上げて追い払うようなことはせず、興味深げな目を向けつつも、彼女のしたいようにさせてくれた。
歩きながら、コーデリアは辺りを見回した。暗い方へ入ったために、今度ははっきり見ることができた
広さは広報部室よりやや広めか。幅は人間の足で一〇歩ほど、奥行きはその三倍ほど。そして吹き抜けの天井はこれまでになく高かった。ぽっかりと丸い天窓が、遥か彼方に見える。それは通気孔の奥から出口を見るのに似ていた。
足元に意識を移す。乳白色の床は、冷んやりとして硬い。足裏の感触で、他所とは違う床材を使っているのが判る。壁も同じものが使われているようだ。
だが、他にはこれといって目を惹く調度もない、至ってシンプルな空間だった。ときおり近くの廊下を歩く者の靴音が響くほかは、張りつめた空気と静寂で満たされていた。だがその静寂は、決して無機質で殺伐としたものではない。凛として、どこか神聖な何かを感じさせるものだった。
その理由を、コーデリアは振り返って知った。
それは、〈世界樹〉がもたらしていた。
眩い光に照らし出された〈世界樹〉が、神々しいばかりに輝いていた。艶やかな葉が受け止めた光は葉脈に沿ってすべり、葉先から粒となって零れ落ちている。
〈世界樹〉を包み込んでいる空気はどこまでも透明で、穢れを知らない。ここほど清らかな空間はないだろうとさえ思わせるほどに。
まさに見上げているだけで、心までもが洗われるようだった。
眩しいのが苦手なはずのコーデリアでも、目を離すことができなかった。お気に入りの夕景を見るのとは、また別の感動があった。夕景は単に、星々の生まれる瞬間に目を奪われてしまうだけだ。だが〈世界樹〉はその圧倒的な存在感で、見る者の心までも呑み込もうとする。
『きっと〈煌く猫たちの天上〉って、こういう処なんだわ』
マックスパパが好きで、暇さえあれば録画を見ているミュージカルを思い出す。そして彼がここで立ち止まり、深呼吸する
しっかりと根を張り、枝葉を天に向かって伸ばす〈世界樹〉の姿は、永遠の命の象徴ともいえた。この前に立つ者はみな、祈りを捧げ、樹から溢れ出す精気に触れることによって、「生きる」ということを実感しているのだ。
コーデリアは大好きなマックスパパを真似て、ゆっくりと深呼吸した。
一度、二度、三度――。
呼吸するごと、樹の精気を取り込むごとに、安らぎと充足感が身体中に満ちていく。樹の命と自分の命が混じり、新しい命へと変化する。ゆっくりと、意識が高みへ上っていく。そしてそこへ上り詰めたとき、樹と自分は同化する――。
ところがあと少しのところで、彼女は高みから引きずりおろされた。
「まてぇー!」
突如響いた甲高い声が、静謐を破ったのだ。
「――!」
我に返ったコーデリアは、小さな頭を跳ね上げた。何が起こったのか判らないままに、蒼い瞳を素早く動かす。直感的に右の廊下に目を向ける。その瞬間、小さな白い影が飛び込んできた。
『あ!』
コーデリアは目を瞠った。彼女めがけて走ってくるのは、一匹の雄猫だった。
『え――?』
雄猫も、彼女の姿をに驚いたようだ。だが急に止まることはできず、彼女とぶつからないよう避けるしかできなかった。
コーデリアの目の前で針路変更した白い雄猫は、全力で樹に向かうと、そのままの勢いで太い幹を登ってしまった。
『君も来るんだ!』
呆然としているコーデリアに、白猫が叫ぶ。その半秒後、人間の子供がホールに駆け込んできた。
「ねこ、まてぇ!」
嬌声を上げるその子供に、コーデリアは見覚えがあった。確か、金髪の〈グレムリン〉の弟だ。兄と違ってたまにしか姿を見せないが、彼女にちょっかいをかける存在に違いはない。恐らくあの白猫も、少年の被害者なのだろう。
だが、そんなことを悠長に考えている場合ではなかった。少年が見失った白猫の代わりに、彼女を見つけてしまったのだ。
「あ、〈黒しっぽ〉!」
少年の目がキラリと光る。大いに身の危険を感じたコーデリアは、慌てて植え込みに飛び込んだ。樹に辿り着くと、がむしゃらによじ登る。生まれてこのかた木登りなどしたことなかったが、本能が覚えていた。白猫の隠れている枝へ到達するのに、五秒とかからなかった。
『ふぅー、驚いた』
間一髪のところで少年の手の届かないところへ避難したコーデリアは、白猫の前で弾む息を整えた。少年は樹を見上げて、二匹に呼びかける。
「しろねこー、〈黒しっぽ〉、おいでー」
もみくちゃにされるのが判ってて、誰が降りるか。コーデリアと白猫は息を呑んで少年の動向を見守った。
少年は何とかして二匹に近づこうと植え込みの周りをうろうろするが、やがてコーデリアたちのいる枝の真下で立ち止まった。枝と植え込みを見比べながら、思案顔で首を傾げる。
いくらなんでもここまで登ってはこないだろう――と、コーデリアは考えた。が、一瞬後には撤回した。相手は〈グレムリン〉の弟だ。侮りは禁物だ。
もっと高いところに移動すべきか――と、コーデリアが思ったそのとき、少年の母親が姿を現し、声を上げた。
「ケティ、そこに入っちゃダメよ! それに、猫ちゃん嫌がってるのに追っかけないの!」
「でもお母さん、あのしろねこ迷子かもしれないよ? おうちに連れて帰ってあげなくちゃ。それに〈黒しっぽ〉も……」
きびきびとした歩調で歩み寄る母親に、少年はいわけする。だがそれは聞き入れられず、母の眉を顰めさせただけだった。
「迷子じゃなくて、お散歩してるだけかもしんないじゃない。いいからもう早く来なさい。お父さんとお兄ちゃん、待ってるよ」
「あ!」
母の言葉に、少年は猫よりも大事な者のことを思い出したらしい。「そうだった!」と肩をひとつすくめると、差し延べられた母の手を掴んだ。率先して歩きはじめる。母親が苦笑しながらついていく。
『ふう……』
母子の姿が見えなくなるのを待って、ようやく二匹は安堵の息をついた。伏せていた身を起こし、思いっきり伸びをする。
『もう大丈夫そうね』
『うん。大変な目に遭ったよ』
コーデリアが話しかけると、白猫はしみじみと応えた。
『あたし、人間の子供って大っ嫌い』
仔猫時代のトラウマが尾を引いているコーデリアは、憎々しげに言い放った。当然、同胞も賛同してくれるだろう――と思いきや。
白猫はのんびりとした動作で、首を傾げた。
『僕は、別に嫌いじゃないな。さっきみたいに乱暴にされるのはヤだけど。でも、ローザは優しいから好き』
『誰よ、そのローザって』
『僕の家族。おじいちゃんとおばあちゃん、パパとママ、それにローザとその妹のちっちゃなリリィと住んでるんだ』
白猫はルドルフと名乗り、自分の家族のことを自慢げに語った。彼の家族などに興味のなかったコーデリアは、話を聞くふりをしながら同胞の姿をこっそり観察した。
短めのふわふわした真っ白な毛は、よく手入れされて艶やかな光沢を放っている。逆三角形の小さな頭を載せた身体は、痩せすぎも太りすぎもしない。胸を反らせるように座る姿は、猫としての気品を充分感じさせる。ただ喉元に着けた革製の首輪は、少々気障ったらしく見えなくもない。だが――悪くはなかった。
そういえば、生身の仲間に逢ったのは初めてだ――物心ついてからただの一度も同胞と出逢ったことがなかったという事実に気づき、コーデリアはいまさらながら愕然となった。
もちろん、自分の他に「猫」が存在することは知っていた。だがいままでは、四角い平板な画面や、前脚を伸ばせば突き抜けてしまう立体映像でしか、同胞の姿を見たことがなかったのだ。
いま目の前にいる同胞の姿は、立体映像で見るものと変わるところは全くない。だが確かに違っているものがあった。
息遣いや胸の鼓動、体温といった、「生」の証だ。それが生々しいまでに感じられる。また実際に手で触れ、言葉を交わすことができる。
樹の放つものとは違う匂いが、鼻腔をくすぐる。懐かしさを感じさせるその匂いは、コーデリアを落ち着かなくさせた。腹の底からじわじわと込み上げてくる何かを、一気に解き放ってしまいたくなるような――そんな衝動に駆られる。だが、決して厭な気分ではない。
たまにこんな気分になることがあったが、コーデリアはようやくその意味を知ったような気がした。
思いがけない出逢いは、彼女の中で眠っていた本来の自分を呼び覚ます。
白猫ルドルフを取り巻く環境には興味はないが、彼そのものには興味があった。彼のことがもっと知りたくなる。
『それはそうと――』
コーデリアは、放っておけば延々と続きそうな白猫のおしゃべりを遮った。
『暇だったら、一緒に冒険しない?』
きょとんとするルドルフの鼻先を、コーデリアの黒いしっぽがふわりと撫でた。
「――なるほど。それでちょっと大人しいのか」
〈グレムリン〉たちが普段着に着替えている間に、エビネ准尉から格納庫での出来事を聞いた基地司令官は、合点がいったとばかりにうなづいた。
新しい制服を着て嬉しそうに出て行ったと思ったら、一時間足らずで意気消沈して戻ってきたのだ。
「でも中佐に怒られたぐらいで、しょげるようなタマかしら?」
ミルフィーユの母親であるコリーンが、紅茶をすすりながら言い放つ。その彼女に向かって、膝に次男のバルケットを座らせたイザークが言う。
「やっと『反省する』ってことを覚えたんだな。それだけあいつらも成長したってことさ」
「本気で言ってんの?」
「あ、う――いや、まあ……」
呆れ顔で聞き返す妻に、イザークは思わず視線を泳がせた。珍しく〈グレムリン〉を擁護したが、彼自身も半信半疑だった。
底抜けに能天気な〈グレムリン〉の様子が変化する時は要注意だ。その裏に、とんでもない問題が潜んでいる可能性が高い。そしてその尻拭いをさせられるのは、親である彼らと
「だいたい――」
この後食事に行く予定になっているにもかかわらず焼き菓子に手を伸ばしながら、コリーンは言う。
「ブライアー中佐も、叱るべき人間を間違えてるわ」
「え、どういう意味ですか?」
末席でティーカップを手にしていたエビネが聞き返した。彼は司令官たちの誘いを断りきれず、恐縮しながら家族団欒のひとときに加わっていた。仕事が残っているからと遠慮したのを、コリーンが強引に引き止めたのだ。彼女は、上官に目をかけられても図に乗ることのないこの新米士官を、いたく気に入っているらしい。
そのコリーンが説明する。
「いい? 子供は親の姿を見て育ち、部下は上司の姿を見て育つのよ。ここの隊員がしょっちゅうサボるのは、司令官たちに倣ってるだけなの」
「ちょっと待て。その理屈だと、子供たちがああなのも俺たちのせいってことになるぞ」
ウィルが「異議あり」とばかりに手を挙げる。彼女の意見は諸刃の剣だ。「親」には彼女自身も含まれるのだから。
それを知ってか知らずか、コリーンは発言を撤回するどころか胸を張って主張する。
「その通りじゃない。どこか間違ってる?」
「……」
もはや天晴れとも言うべき開き直りぶりに、ウィルは二の句が継げなかった。コリーンは勝ち誇ったように、いっそう胸を反らせた。
「あ、なるほど!」
ポンと膝を打ちながら、エビネが声を上げた。そして謎々の答えが解かった子供のように、無邪気に言い放つ。
「あの子たちの親は大佐たち。そして
「よくできました!」
コリーンから花マルをもらったエビネは、嬉しそうに破顔する。が、その笑みはすぐ凍りつくこととなった。
基地司令官と兵站群司令官の鋭い視線が、ひよっこ広報部員の顔に突き刺さっていた。エビネは言い繕うことも、コリーンに助けを求めることもできないまま、だらだらと脂汗を流すばかりだ。
そんなヘビに睨まれたカエル状態の准尉を救ったのは、隣の応接室で着替えていた〈グレムリン〉たちだった。
「別に俺たち、中佐に怒られたのを気にしてるわけじゃないから」
普段着に戻った少年たちは、親たちの傍へ歩み寄ってそう言った。
「じゃあ、何を気にしてるんだ?」
淡い色の着いた眼鏡の奥から息子の琥珀色の瞳を覗き込みながら、ウィルは訊いた。
ヴァルトラントは一瞬ミルフィーユと顔を見合わせてから、歯切れの悪い返答をする。
「うん、中佐の様子がちょっとね。なんか、ひどく焦ってたというか」
「怒り方も、いつものねちっこさが足りなくて、何かに気をとられてた――みたいな」
要領を得ない子供たちの返事に、今度は親たちが顔を見合わせる番だ。だがこれといって、いい返答も浮かばなかったようだ。
「ま、中佐は何かと気苦労も多いから、そんな時もあるだろうさ」
と、イザークが無難に流す。そこへ「そういえば――」と、新米士官が遠慮がちに口を挟んだ。
「中佐は、何か探していらっしゃるようでした」
そう前置きして、エビネはファインダー越しに見た中佐の様子を語る。少年たちは、准尉の話を神妙な顔で聞いた。
「ふむ……」
しかしエビネの話が終わって一番に反応したのは、〈グレムリン〉ではなく基地司令官だった。ヴァルトラントとミルフィーユは、考え込むように俯いたままだ。
「確かに、中佐が何を探していたのかは気になるが――こっちからプライベートに首を突っ込むわけにもいかんからな」
「アダルん時は、思いっきり突っ込んだクセに」
コリーンが
「あいつは後輩だし、ほとんど身内みたいなもんだろーが。だが中佐は部下とはいえ、軍人としても人生においても大先輩だ。向こうから相談なりしてくれるならまだしも、こっちから『どーかしましたかー?』なんておこがましいことできるか」
ウィルにとってアダルは同じ
片やブライアー中佐とは年齢や考え方にも開きがあり、立場上対立している状態でもあるせいか、お互いどこか遠慮した部分があった。中佐はどうか判らないが、ウィル自身は嫌っているというほどではないが苦手に思っているのは確かだ。故に、これまで中佐に私的な相談をしたこともなければ、されたこともない。なのにいきなり親身に接しようとしたところで、相手も面食らい、拒否されるだけだろう。
「じゃ、いまの段階であたしたちにできることはないんだから、そっとしとけばイイのよ。それより、そろそろ出かけましょ」
先走ってあれこれ悩むのが嫌いなコリーンが、答えの出ない問題を次元の彼方へと放り投げた。彼女にとっていま大事なのは、あと一週間足らずで巣立つ息子との時間だ。
「そうだな。それにもう、探し物も見つかってるかもしれんしな。俺たちには関係ない」
イザークが妻の意見に賛成した。〈グレムリン〉を振り返って言い渡す。
「おまえたちも、余計な首を突っ込むんじゃないぞ」
少年たちは首を縦にも横にも振らず、わだかまる気持ちを吐き出すように大きく息を吐くだけだった。
その様子を注意深く観察していたウィルはかすかに引っかかるものを感じたが、あえて釘を刺さなかった。
ウィルはディスクリート夫妻に続いて立ち上がると、茶器を片付けている新米士官に目をやって訊ねた。
「准尉もどうだ? 食事は多い方が楽しい」
「え――ええっ!?」
基地司令官の誘いに、エビネは危うくカップを落とすところだった。慌てて身を起こすと、滅相もないとばかりに首を振る。
「お誘いは嬉しいのですが、これ以上家族の団欒に水を差すのも……」
「あら、うちは全然オッケーよ?」
新米士官に遠慮させまいと、コリーンが微笑む。
しかし今度ばかりは、エビネもその笑顔に屈しなかった。頑なに首を振りつづける。
「いえ、まだ仕事が残ってますし、猫もほったらかし――って、あああっ!」
突然、エビネが奇声を発した。
一瞬何が起こったのか判らず、その場にいた者たちは揃って目を丸くする。
「准尉?」
「猫のことをすっかり忘れてましたっ! すみません大佐、これで失礼しますっ!」
エビネはそう言い捨てると、素早くウィルとイザークに敬礼し、茶器の載った盆を引っ掴んで部屋を飛び出していった。
残された者たちは呆然と見送るばかりだ。彼らが言葉を取り戻すには、数十秒を要した。
「……飽きさせねーヤツ」
「うむ」
ポツリと呟くイザークに、ウィルはこくりと肯いた。
「さあさあ、早く行きましょ。食事の前に、買い物もしたいもの」
立ち直りが早いのはコリーンだ。まだ呆ける男たちの尻を叩き、出かける支度をはじめさせる。少年たちも追われるように、ウィルのオフィスから放り出された。
「忘れ物ない? じゃ、しゅっぱーつ!」
全員が揃ったのを確認して、コリーンが号令をかけた。彼女に手を引かれた次男のバルケットも、「しゅっぱーつ!」と歓声を上げた。
「いってらっしゃいませ」
ウィルの副官に見送られ、二組の家族が歩き出す。コリーンとバルケットを先頭に、イザークとウィルがそれに続く。彼らの後を、少年たちは浮かない顔でついていった。
一行はエレベータで一階まで降り、正面玄関エントランスホールへと向かう。ひんやりと澄んだ空気に満ちたホールに入り、〈世界樹〉の前を横切ろうとしたとき――。
〈グレムリン〉が立ち止まった。
少年たちは、ウィルたちに真剣な眼差しを向けた。
「……やっぱ、気になる」
ヴァルトラントが呟いた。
「あんなに焦ってる中佐、初めてだもん。よっぽどのことがあったんだよ」
「ほっとけ。おまえらが出て行ったところで、中佐が迷惑するだけだ」
イザークがたしなめる。だが〈グレムリン〉たちは聞かなかった。
「ちょっと様子見てくるだけだから!」
「少しだけ待って!」
ヴァルトラントとミルフィーユはそう言い残すと、もと来た道を引き返していった。あっという間に、二人の姿は見えなくなる。
「おいおい――」
「ったく……」
「しょーがないわねぇ」
ウィルとイザーク、コリーンの三人は、呆れたように肩をすくめた。だが苦笑する彼らの目は、嬉しそうに細められている。
〈グレムリン〉たちのお節介は、いまに始まったことではない。
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